8月30日


      × × ×     


 石生千秋いしゅうちあきはラーメンを好む。

 いつもどおり可憐な格好で叔父さんのアパートまでやってきた彼女は、唐突に僕を外へ連れ出した。


「小野君。あそこ行こ」


 あそことは近所の店を指す。

 徒歩数分、待つこと数分で本格的な博多ラーメンが僕たちの目の前に現れる。

 いつもどおり紅生姜を入れ、やや固めの麺を香り高い豚骨スープから引き上げる。箸を口元に持っていけば、もう美味しい。

 隣の女神様は早くも替え玉を注文していた。


 僕は落ちついた気分になる。

 さっきまで卓上の苦行に挑んでいたのがウソみたいだ。代わりに庄司には犠牲になってもらったが。


「ほ~」


 替え玉をすすり終えた石生が、ご満悦の息を吐いた。

 美人は何をやっても絵になるなあ。周りの大人たちも彼女をさりげなく見ている。坊っちゃん刈りではこうもいかない。


「へへへ。石生ってこの店好きだよね」

「うん」


 笑顔の彼女と外に出る。

 秋の気配を微塵も感じられない8月末の福島区は、お昼時ということもあり汗ばむ空気だった。

 割れ目のない雲海がふたとなり、アスファルトの地熱で蒸されてしまう。まるで鍋の中だ。


 僕は傍らの女子を改めてまじまじと眺める。

 本来なら僕のようにシャツとズボンのみの軽装で過ごしたほうが楽だろうに、彼女は今日も余所行きの格好で美貌を彩っていた。

 涼しげな透かしの入ったブラウスだけじゃない。あの睫毛も髪も肌も、しっかり手入れされている。

 僕は彼女の言いつけを守ることにした。


「それさ、けっこう時間かかったでしょ」

「え~小野君にわかるの~?」


 クスクスと笑われてしまう。からかうような表情さえも花みたいで、少しクラクラしそうになった。


 僕は呼吸を整える。


「ちょっとだけ僕も体験したから、ね」

「そっか。ふふん。石生のおかげだね」

「その節はどうも」


 信号待ちで互いに笑い合う。

 これまで彼女と2人きりで話すことがめったに無かったせいか、こうして連れだっていると以前より親密になれた気がしてくる。

 彼女の頬は赤かった。


「はぁ~……美味しかった~」

「アパートに残してきた庄司には申し訳ないけどね」

「庄司君も女の子になったらいいのになー」

「ん?」


 看過できない発言が耳の中に入ってきた。

 石生は変わらず柔和な笑みを浮かべていたが、やがて少しバツが悪そうに右手で口元を抑えた。細やかな仕草が愛らしい。

 そうじゃなくて。

 一足先に信号を渡っていく彼女の後を、僕は歩幅を広げて追う。


「あたし……心の中では、小野君に女の子のままで居てほしい、と思ってたみたい」


 次の信号が点滅していた。

 彼女は再び立ち止まり、こちらに振り向いた。


「どうしよう」

「どうしようと言われても」


 困る。

 別に石生に言われたからといって、自分がこのまま女性として生きていきます、なんてことには決してならないが。

 とにかく僕は反応に困ってしまう。


「ごめんね」


 彼女の申し訳なさそうな顔を見たかったわけではない。

 謝ってもらうのも何か違う。彼女から被害を受けたわけでもない。

 ああ。そうか。僕は自分が異性として見られていなかったことに落胆しているのか。


「男の僕は……いらない感じ?」

「ううん。そんなことないよ。小野君は素敵な男の子だもん」


 彼女から欲しかった言葉が返ってくる。僕は少し安心した。

 自分から言わせたようなものだが。


 鉄道の高架下をくぐる。福島駅の周りには飲食店が立ち並ぶ。もうすぐ叔父さんのアパートが見えてくる。

 僕は一昨日のことを思い起こした。


 あの時、石生は庄司の言葉に涙した。彼我の関係が対等になった。ただそれだけの指摘が落涙を誘った。


 思えば、僕たちの関係は元々不平等だった。

 冴えない男どもの元に女神様が降臨なされた。

 中学以来の友人関係に村八分の女子が割り込んできた。

 一方的に恋愛感情をいだき、いだかれているのを多分わかっていた。

 ファンとアイドルのようだった。


 捉え方は様々だが、やはり彼我の間に格差と垣根は存在していた。

 3人組というよりは2人+1人だった。


「たぶんね。石生は小野君と庄司君と……も~っと仲良くなりたいの」

「もう十分仲良いと思うけど」

「庄司君も女の子になったら。あたしも2人みたいにちゃんと友達をやれるもん」


 彼女もまたアンバランスな関係に思うところがあったらしい。

 だからといって男女グループを女子3人組にしてしまえというのは、やや傲慢な考え方だろう。


 いっそ石生が男になれば良いんじゃないの。

 僕は思いついた言葉を喉の奥に引っ込めた。

 それはあまりにも勿体なさすぎる。

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