8月11日 ・・◎ プール


     × × ×     


 福島区から阪神高速守口線で約30分。

 叔父さんのワゴンRが『ひらかたパーク』の駐車場へ走り去っていく。


 あの人に待ち合わせ場所までの送迎を依頼した庄司は「電車代が浮いたな!」と呑気に笑う。サングラスの似合わない坊っちゃん刈りが小刻みに揺れている。

 僕は気が散って仕方ない。


 京阪・枚方公園駅の前では7〜8名程度の学生たちがたむろしていた。

 みんな庄司しょうじのクラスメートらしい。男女混成で充実してそうな印象を受ける。

 リーダー格の男子には見覚えがあった。田町慎吾たまちしんご。同じ中学出身だ。紳士的で自信家、布団の中でウジウジ悩んだりせずに生きてそうな男だった。


 僕のことを覚えているだろうか。

 咄嗟に庄司の背後に隠れてみたが、自分の心配は杞憂に終わりそうだった。


「うわあ」「すっげえ」「ひゃあ」


 我らの姫君が駅前広場の視線を独り占めしていた。

 庄司のクラスメートのみならず、ロータリーで暇を持て余すタクシーの運転手まで石生いしゅうの立ち姿に目を奪われていた。

 彼女の白いワンピースが風に揺れるたび、ツバの大きな帽子が飛んでいきそうになるたび、周りの人間は心の中を煽られてしまう。無垢な笑顔に見惚れてしまう。話しかけたくなってしまう。

 誰も僕のことなど注目していない。


 ホッとしたのも束の間、庄司の目の前に女子たちが集まってきた。

 みんな日傘やアームカバーなどで日焼け対策がバッチリで、夏のプールを楽しみたい気持ちが伝わってくる。


「殺すぞ」「庄司死ね」「てめえ彼女自慢なら余所でやれや」「同行したらぶち殺す」「まともな2学期を送れると思うなよ陰キャ」「今すぐ自決しろや」「くたばれ」


 僕の友達が詰め寄られ、取り囲まれ、中指を立てられ、すねを蹴られ、首を切るようなジェスチャーを見せつけられている。

 庄司は笑顔で応対していたが、あまりの剣幕に耐えきれなかったのか、しきりに「トイレ行きてえ」と泣き言を言い始めた。


 見てられない。

 僕は友達の背中に両手を添え、全力で前に押し出した。突然の前進に動揺した女子てきの包囲を突破し、さながら『電車ごっこ』の要領でコンビニエンスストアの店内まで走り抜ける。 

 相手方は人目があるから追いかけてくることはない。勝った。


 庄司がハンカチで汗を拭う。


「助かったぜ蒼芝あおしばぁ。もうダメかと思ったわ」

「石生って本当に女子から好かれてないんだね」

「それもあるが……今のあれは多分、今日のプールで田町と朝井あさいさんをくっつける流れがあったからだろ。みんなで協力しようってメッセージが来てたわ。どうしよう。もう帰りたくなってきたんだが」

「別に僕は良いけどさ」


 店内から外の様子を見てみれば、石生が満面の笑みで手招きしてくる。もう他の人たちはプールに向かい始めているみたいだ。

 クラス内での庄司の扱いが若干辛そうなのはさておき。

 石生を独りにするわけにはいかない。プールサイドで今以上のいざこざを引き起こされても困る。


「行こう庄司。姫を守るのがお前の役目だろ」

「姫が2人、騎士が1人……」

「誰が姫だよ」

「守り切るにはユニットが足りねえなあ。おっちゃんにも来てもらうかー」


 庄司は店内でエナジードリンクを仕入れると、一口飲んでから『親友の叔父』と表示された人物に電話をかけ始めた。

 親友……変な時に好感度を上げてくる。これだから庄司との付き合いは止められない。



     × × ×      



 夏休みのプールサイドは早くも肌色であふれていた。

 水着姿の男女や家族連れが行き交い、楽しげに談笑している。


 僕は独りで歩き回り、奥の方でどうにか安住できそうな日陰を見つけた。植栽の石段に座れそうでちょうどいい。

 庄司のクラスメートに借りたレジャーシートを足元に広げ、ぬるいペットボトルを首筋に当てていると……肌色の男が近づいてきた。


 田町慎吾。中学時代より体格が良くなっている。高校でも体育会系の部活に入ったのだろう。

 満遍なく筋肉の付いた上半身を惜しげもなく世間に披露しているあたり、裸体に自信を持ってそうだ。

 でなければクラスメートをプールに誘ったりしない、か。


「ここ取れたんだ。ありがとう。庄司の友達なんだよね?」


 田町が訊ねてくる。

 僕は目線を合わせずに首肯した。

 日除け帽子を深めに被り、なるべく顔も見せないようにする。

 小野蒼おのあおだとバレたら面倒くさいことになる。妹のふりをするのも骨が折れる。


 知り合いの知り合い、というスタンスを保ちたい。これは田町以外の連中にも言えることだ。今の姿では他者と関わりたくない。


「君は着替えないの?」


 田町の目にはパーカー姿の垢ぬけない女子が映っているはずだ。

 大きめのパーカーの中身が水着ではなく普段使いのブラトップと短パンであることなど知りようがないのに、なぜ見抜かれたのだろう。


 思わずにらんでしまったせいか、田町が慌てた様子で手のひらを見せてくる。


「ああ、ごめんごめん。男子の俺より早く更衣室を出てたからさ。もしかして水着を持ってきてないのかなって。一応売店で売ってるらしいよ」


 田町が売店を指差した。

 相変わらず紳士的な男だった。中学時代は特に絡みがあったわけではないが、横柄な態度を取られないというだけで好印象だった。

 僕と庄司は適当な扱いを受けることが多かったから。


「ありがとう」


 僕は目を伏せつつ、お礼だけ告げておく。

 以前の自分とは似ても似つかぬ声だし、少し話すくらいならバレないかもしれない。


 やがて他の男子たちが更衣室から歩いてくる。

 彼らと距離を取るために立ち上がり、僕が自販機のほうに歩き出すと、なぜか田町の奴がついてきた。


 何なんだ。まさか自分ぼくを好きになったのか。さっきのやり取りで?

 そんなわけあるか!

 女性相手に自意識過剰な思考に至り、自己嫌悪に陥るのは何度も経験してきたが、相手が同性なのは初めてだった。辛すぎる。


「あっつ。ポカリ欲しいな。みんな倒れたら困るし、人数分買っとくかー」


 傍らで田町が自販機に千円札を突っ込んでいた。

 僕は悲しい気持ちになる。人間として争う前に敗北した気がしてならない。多分『アズール』なら勝てるが、初心者を倒したところで何も誇れない。

 気づけば、目の前に冷たそうなペットボトルが差し出されていた。


「はい。君にもあげよう。名前は何ていうんだっけ?」

「あー……お、おお……」

「おん? もしかして小野の妹?」


 何も言ってないのに素性がバレた。

 違う。庄司の知り合いで「お」から始まる奴が小野しかいないんだ。類推された。

 僕は渡されたペットボトルを突き返し、一目散に石生を探しに行く。あいつの水着さえ見れたら、プールなんて出てしまっていい。

 叔父さんが来てくれるなら庄司と石生が2人きりになることもない。

 逃げよう。


「あ~小野君いた~」


 シュークリームのカスタードみたく甘ったるい声が耳に入ってきた。

 足を止めれば、プールサイドの出入口あたりで庄司と共にベンチに座っていたのは、なぜか白いワンピース姿のままの彼女だった。

 たしかに美しいしエッチだが、周りの男たちを燃えあがらせるような「絶景」を期待していた脳が、目の前の現実を受け入れられない。


 僕は彼女に問う。


「な、なんで水着じゃないのさ。石生」

「小野君が一緒に買い物してくれなかったからでしょ。せっかくプールなのに」

「去年の水着とか着ればいいじゃん!」

「えっち。サイズ合わないもん。こぼれちゃうし」


 石生が恥ずかしそうにしている。

 彼女と出会ったのは今年の春だから知りようがなかったが、そういうこともあるらしい。


 僕は白布に包まれた双丘を前に、ガックリと膝を突くしかなかった。

 そんな敗者の耳元に悪魔のささやきが流れ込んでくる。庄司に肩を抱かれ、耳打ちされる。


「……蒼芝あおしば。今のお前なら出来るよな」

「なにが」

「出来るよなあ?」


 彼の指先は近くの売店を指差していた。レンタル浮き輪やビーチボールに混じって「水着」の文字が輝いている。

 僕は肩を叩かれる。


 究極の選択だった。

 行くか、行かないか。見るか、見ないか。

 ジレンマを楽しむような余裕は……もはや持ち合わせていなかった。

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