8月10日 ・・・・
× × ×
2023年8月10日。
女の子になってから1週間が過ぎてしまった。
洗面台でふてくされた顔を洗い流す。
背後では叔父さんが歯を磨いていた。吞気な表情が腹立たしい。
「んっ……んんんっ」
叔父さんが慌てた様子で山札から『特殊カード』をドローする。
急かしたつもりはなかったのに。僕は少し申し訳ない気持ちになる。
肝心の内容は朝食中に発表された。
「ランダムイベントを打ち消せるカードだった」
「えっ。それって」
「すまん。言い方が悪かった。今後発生するイベントを一度だけ拒絶できるらしい。『ラブレター』の僧侶とか『ドミニオン』の堀と似たような防御カードだ。
平謝りされた。
叔父さんの殊勝な態度に、甥っ子としては気味が悪くなる。
変なものでも食べたのかな。本日の朝食は母親直伝のトマトオムレツだけど、玉ねぎを入れすぎたか。
僕はさほど落ち込んでいなかった。むしろ現状に手応えを感じていた。
たしかに期待外れのカードではあったが、山札からランダムイベントにまつわるカードが出てきたのは(今の環境では)初めてのことだ。
間違いない。叔父さんの欲望は埋まりつつある。
おそらく脳内がボードゲームのことでいっぱいな狂人の中にも「甥を元に戻したい」という気持ちが多少なりとも存在し、それが『特殊カード』として少し歪んだ形で発露されたのだろう。
僕は照れ隠しと自覚しつつも、叔父さんに嫌味を言わせてもらう。
「良かったね。これで叔父さんは叔母さんにならずに済むじゃん」
「
「そうなの?」
「ああ。昨日社用車で
「それって……単純に気分が変わっただけだよね」
僕にも似たような経験がある。
街中で旨そうなたこ焼き屋の看板を見つけた時に「ソースとマヨネーズの舌」になった。
「ああ。そのとおりだ」
叔父さんは空いた皿を台所に持っていく。
代わりに洗ってあげることで甘やかそうとしたら、日焼けした右手で制止されてしまった。
流水の
「昨日の『ワイナリーの四季』は楽しかったな」
「まあ、みんな楽しんでたね」
「あれは農場経営の要素を抽象化・簡略化したものだ。山名が好きな『バトルライン』『ウォーチェスト』『バロニィ』は大昔の戦争をモチーフにしている。純粋なパズルゲームも面白いが、実在の要素を盤面に落とし込んだゲームには独特のロマンがある、と思う」
キュッと蛇口が閉じられる。
平皿が水切り台に立てかけられる。
「その流れで言えば、俺の日常に降りかかるランダムイベントは『出来事』や『気分の変化』を抽象化したものだろう」
叔父さんは自身の「奇行」をボードゲームの内在化だと捉えている。
過酷な連続プレイにより脳内にボードゲームのルールを取り込んでしまった、と。
その過程で人生そのものがルールの中に落とし込まれた結果、叔父さんは望まない「奇行」を強いられることになった。
以前は全く現実味のない戯言だったが、今では「奇行」が現実を侵すことで逆にリアリティを持ってしまった。
叔父さんが食卓に戻ってくる。
「それでな。
「はあ」
「つまり、あの『カード』が俺の内心から出てくるとしても、そこには欲望……やりたいこと以外にも、やらなければならないこと、他人にやれと言われたこと、特に理由のない気まぐれ、も含まれているはずだ」
「違いがわからないよ。叔父さん」
「例えば先日の『上司に言い返す』なんぞ、俺の本意ではない。一時的にスッキリしても必ず3倍にして返されるからな。恐ろしい。だが、仕事を円滑にこなすために
「短絡的に言い返したくなる時、普通にあるでしょ」
僕の反論に叔父さんは黙ってしまう。
窓の外でバチバチと蝉が羽音を立てていた。朝陽が食卓に差し込む。
出社の時間が近づいている。
叔父さんは細長い息を吐いた。
「それはそうだな。すまん。例えが不適切だった。ただ、
フロイトの夢分析じゃあるまいし、と叔父さんは呟いた。
たしかに数少ないヒントを元に「お前はこう思ってるだろ」と決めつけられるのは気分の良いことではない。
僕だって、ぶっちゃけ女の子になれて嬉しい気持ちが少しくらいあるんじゃね、と昨日友達に言われた時は怒りを覚えた。ちょうどゲーム中だったので「ワインの女王」というカードで
要するに叔父さんの中では『特殊カード』=内なる欲望ではない、ということなんだろう。
本人が言うからには実際そうなのかもしれない。なにせ山札もカードも叔父さんにしか見えていないわけだし。
叔父さんの「奇行」にもっとも詳しい人は、目の前にいる。
僕は麦茶を一気飲みする。ビールの代わりだ。注がれた液体で喉の奥底が揺れる。少し息苦しい。
「……明日、元に戻れたらいいなあ」
「今日の晩飯はピザにしよう。肉料理や汁物が食べたくなってもカードでキャンセルできる。
「別に何でもいいけど」
「では行ってくる。ああ、そうだ。こう言えば伝わるかもな……仮に『カード』が欲望を反映しているならば、俺の「奇行」は多分何年も前に完治している。そうだろ?」
玄関の鉄扉が閉じられる。
僕は少しだけ叔父さんの気持ちを理解できた──かもしれない。
× × ×
昼過ぎに友達から電話が掛かってくる。
明日のプールについては「行けたら行く」と伝えてある。
現状、行けるわけないが。
同じことを言うのが面倒くさい。僕はスマホをマナーモードに切り替え、見ないふりをさせてもらう。
「おいコラ」
数分も経たないうちに本人がアパートの前までやってきた。
今日は庄司だけのようだ。いつもの女の子っぽい香水の匂いがしない。やや汗くさい坊ちゃん刈りが、ハンカチでこめかみの水滴を拭いている。
「メッセージも電話も掛けたよな。出ないと耳クソほじくるぞ、
「何の用だよ」
「明日のプールに決まってんじゃん。昨日ウヤムヤになっちまったけど、
庄司の目つきが怒りから期待の色に変わる。
昨日ウチに来たのも主目的は買い物のお誘いだったみたいだ。叔父さんのカードに操られていたわけではないらしい。
同級生の女子と水着を選びに行く──試着室から出てきた石生の姿を想像すると、血の巡りが良くなってくる。身体が熱い。
僕は庄司を室内に引き入れ、麦茶を出してやる。
エアコンのおかげで少し冷静になれた。即答しなくて良かった。
「悪いけどさ。庄司と石生の2人で行ってきてよ」
「バカ言うな。あいつとは2人きりにならないって決めただろ。お前も来いよ。ずっと家にいても不健康だぞ」
「もし可能なら写真だけ送ってくれたらいいから。石生のことだし、自分で送ってくれるかもしれないけどさ」
「ていうか、お前の水着をどうすんだよ。お前も買うだろ」
「僕は去年のやつがあるし。あれでいいよ」
「えっ」
庄司は腕組みしたまま天井を見つめ、なぜか気まずそうに頬を赤らめる。
相手に何を想像されたのか、理解できるまで時間がかかってしまった。そういえばそうだった。
先ほどとは別の意味で血の巡りが良くなってくる。
「庄司、恥ずかしいから僕で阿呆な想像すんな。そんなわけないだろ」
「あははは。そうだよな。てっきり昨日石生に生乳を見せつけてたし、そういう志向が……やっべ、思い出したら汗出てきたわ」
「いつか土の下に埋めてやる」
「悪い悪い」
庄司はわざとらしく両手を合わせてくる。
妙に楽しそうな笑顔が腹立たしい。高校入学前に矯正するまで歯並びがボロボロだったくせに。
僕は立ち上がり、客人を追い出しにかかる。
「とにかく今日は2人で行ってきてくれ。僕は元に戻るまでなるべく外出しないって決めたし」
「明日のプールはどうすんだよ」
「今のままじゃ行けるわけないだろ」
「なんで? ああ、水着がないから……って流れになるなら、やっぱ今から梅田まで買いに行こうぜ」
「いいからもう! ほら、待たせたら石生が拗ねるぞ!」
玄関から庄司を放り出す。
僕たちが石生と2人きりにならない決まり(小野=庄司協定)を結んだのは、今の友人関係を続けていくためだ。
ああいうグイグイくるタイプの女子と2人きりになったら、いずれ本気で好きになってしまう。それは多分不幸の始まりだ。
石生にとってもクラスメートから村八分を受けた上に、部活仲間とも揉めてしまうのは避けたいだろう。
僕も庄司とはケンカしたくない。しょうもない奴だけど、何だかんだで長い付き合いだし、いないと始まらない奴だから。
「蒼芝、明日絶対に来いよ! お前が来ないと石生も来ねえ、オレだけクラスのリア充どもに囲まれて辛いんだからな! それがお前が来たら、両手に花なんだぞ! オレの悲しい人生で一度くらい、ハーレムごっこさせてくれ!」
「だから元に戻るって言ってんだろ!!」
僕は鉄扉の鍵を閉めた。
あいつとの関係は考え直してもいいかもしれない。ハーレムごっこなんぞに巻き込まれてたまるか。何なんだそれ。
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