8月9日 ・・・・・


     × × ×     


 目覚めた時には昼過ぎだった。

 枕の代役を務めてくれていた座布団に左肘を埋めつつ、僕は指先でスマホの通知を全て消し去る。部活の連絡と漫画アプリの宣伝が少し。あの人からは何もない。

 室内の静寂を遠くの飛行機が貫いていく。

 僕は食卓のリモコンに触れる。

 公共放送では長崎の平和祈念像が映し出され、やがて地元局の話に切り替わった。


 2023年8月9日。

 リビングのエアコンが冷風を吐き出し始める。

 タンクトップの首元をパタパタさせていたら、視界に変わらぬ景色が入ってきて心底ゲンナリした。

 今日も元の身体には戻れていない。

 今朝の叔父さんは書き置きを残すほどの余裕が無かったらしいが、本日分の『特殊カード』が期待外れだったことは明らかだった。


「まあ、まだ作戦は始まったばかりだし。焦ることないさ」


 僕は自分自身に言い聞かせる。


 昨日は叔父さんを甘やかすために全力を尽くした。

 午前中から台所など水回りの大掃除を敢行し、仕上げに排水口の詰まりを薬剤で落とした。

 昼以降は不要品の選別とフローリングの水拭きを実施。 

 叔父さんの部屋にも立ち入らせてもらい、床に積み上げられていた冬物の衣類を押入のプラケースにぶち込んだ。

 さらに夕方には恥を忍んで近所のスーパーまで出向き、叔父さんのために手早く食べられ、かつ指先が汚れにくいおつまみを揃えた。

 叔父さんが帰ってきたらキンキンに冷やした麦茶を手渡してやり、久しぶりに肩まで揉んであげた。


 そして夜中まで延々とボードゲーム大会に及び、今に至る。

 途中で寝落ちした僕の体調を気遣い、タオルケットをかけてくれたのは山名さんだろう。


 僕は座布団から立ち上がる。

 固い床に転がっていたせいで身体のあちこちが悲鳴を上げている。

 叔父さんを存分に甘やかせたのはいいけど、我ながら無理をしていたかもしれない。

 今日は少し休もう。夏休みなんだし。



     × × ×     



「すいませーん」「宅配便でーす」


 友達に借りた小説を読み進めていたら、玄関の外からかすかに声が聞こえてきた。

 僕は昨日注文した『すずめじゃん』の存在を思い出す。叔父さんが欲しがっていたボードゲームだ。麻雀を単純化した作品らしい。

 あの人なら絶対に喜んでくれるだろうな。これで新商品を求める心理=物欲を一時的にでも埋めることが出来れば、いよいよ山札の『特殊カード』が絞り込まれていく。デッキビルドを進められる。


 僕は太ももに掛けていたタオルケットを羽織り、玄関に向かう。


「すいませーん」「いらっしゃいますかー」

「はーい」


 配達員の問いに大声で応じる。こんな時インターホンがあれば便利だが、古いアパートだから仕方ない。

 それにしても。家具の配達ならともかく通常の宅配便で2人来るのは珍しい気がした。研修中だろうか。

 鉄扉のドアスコープを覗いてみる。視界には誰も映らない。何となく僕は子供のイタズラのような気がしてきた。夏休みだし。


 首を捻りつつもドアノブを回し、外廊下に出てみると──足元から「わあっ」と2つの人影が飛び上がってくる。

 その行為自体は多少なりとも予想できた。

 しかしながら、まさか高校の同級生が仕掛けてくるとは思わなかった。


「いえーい!」「大成功~!」


 僕の目の前でハイタッチをかましているのは庄司晶しょうじあきら石生千秋いしゅうちあき

 前者は冴えない男子生徒で中学以来の友人だ。付き合いの良さ以外は何も誇るところのない男だが、年に一度くらい良い奴だなと感心する時がある。明後日のプールに僕を誘ってくれた張本人でもある。

 後者は惚れっぽい不思議ちゃん。思わせぶりだが他意のない言葉を繰り出して学校の男どもを狂わせてきた。色々あって僕たちとつるんでいる。卓越した美貌の持ち主であり、僕が明後日のプールに行きたくてたまらない理由でもある。


 僕が2人と直接会うのは終業式以来だった。


「…………」

「…………」

「…………」


 彼らの視線が、本来あるはずのない小野蒼ぼくの胸の膨らみに注がれる。咄嗟にタオルケットで隠したが、今度は顔のあたりや腰回りが注目を浴びてしまう。

 弁明しようにも声色の変化が伝わってしまえばドツボにハマることは明らかだ。どうあがいても女性化したことをごまかしきれない。


 石生がなまめかしく唇を開いた。


「素敵。小野君って女装似合うね」

「えっ?」

「一緒に写真撮ろ?」


 なぜか玄関先で身を寄せ合い、石生の持つスマホのインカメに笑顔を向けることになった。

 僕は複雑な気分だった。

 例の「奇行」による変化がバレずに済んだのはさておき、女装癖の持ち主だと誤解されたのは今後の人間関係に尾を引きそうだ。つらい。


「いや……この子、蒼芝あおしばの妹じゃね?」


 今度は庄司が別の見方を示してくる。

 天啓がもたらされた。

 僕は庄司の説に全力で乗ることにした。我が家に妹なんていないけど、僕自身が誤解されるよりマシだ。


「そうなんです。わたし小野、みどりといいます」

「へえ。蒼芝の家族って名前が色縛りなんだな。ちょっとウケるわ」

「庄司の兄弟だってひかりまさるあきらで半分ギャグじゃん」

「ああ、うん……詳しいな緑ちゃん。お兄さんに訊いた感じ?」

「訊いた感じです」


 いつもどおり軽口を言い返したら庄司の顔が曇ってしまった。

 他人のふりを続けられるほど演技力に自信がない。僕はパーティ系のボードゲームでも役になりきるのが苦手なほうだ。叔父さんの仲間からテーブルトークRPGに誘われても断るようにしている。 

 庄司と石生には早々に帰ってもらおう。


 僕は適当な理由を脳内から捻り出そうとするが、その前に石生が靴を脱ぎ始めていた。


「小野君の家、いつ来ても良い匂いするね」

「ぼ……わたしのお兄ちゃんは今日帰り遅いですけど!」

「そうなんだ」


 石生の慈愛にあふれた微笑みが怖い。こっちは未だに女装だと思っているみたいだ。どうしたらいいかな、と悩んでいるうちに彼女は玄関タイルの上に靴を並べ、ピカピカの洗面台で手を洗いだす。

 庄司のほうも「しょうがねえなあ」と坊ちゃん刈りを指先で掻きながら室内に入り込んでくる。

 あれよあれよという間に、僕の友人たちはリビングでくつろぎ始めてしまった。


 どうしたらいいんだ。僕は頭を抱える。


「なあ緑ちゃん。蒼芝あおしばどこに行ってんだ? 塾か?」

「知りません!」

「そっか。あいつ、ガリ勉すぎるよなあ。気長に待つかあ」


 庄司は小野蒼ぼくの帰りを待ち望んでいるみたいだ。

 用件があるなら本人にそのまま伝わるから教えてほしい。早く帰れ。


 傍らでは石生が『ワイナリーの四季』というボードゲームを戸棚から取り出してくる。

 ブドウ畑を営み、ブドウジュースからワインを作っていくゲームだ。選択を間違えると人付き合いに没頭しすぎて肝心のブドウを植えられなかったり、ジュースはたくさんあるのにワイン作りに進めなかったりする。

 その時に何をするか、しないか。取捨選択のジレンマを楽しめる。

 石生は以前叔父さんに遊び方を教えてもらって以来、お気に入りの様子だ。


「このゲーム好き。緑ちゃんと遊びたいな」

「わ、わたしルールわかんないし」

「だったら、石生が教えてあげるね。手取り足取り。それとも小野君の妹なら、ルールブックを読むだけでわかっちゃう?」

「ぐぐ……石生さんは何しに来たんですか。お兄ちゃんに用件があれば伝えますけど!」

「えー。緑ちゃん可愛い」


 石生に笑われてしまう。

 ダメだ。やはり女装だと思われている。僕が別人いもうとだと言い張っているのに合わせてくれているだけだ。


 こうなったら仕方ない。恥ずかしいけど……実際に見てもらうことにする。

 冴えない男子に背中を向け、石生と目を合わせながら、僕は少しずつタンクトップをめくりあげていく。

 やがて本来あるべきではない乳房に至り、石生が小さく感嘆の吐息をもらした。


「すごい。綺麗。本物みたい。小野君が良いお医者さんに巡り合えたのは、きっと真面目に生きてきたからだよ」

「だ・か・ら! そうじゃないって! わ、わたしはお兄ちゃんの!」

「小野君。石生はずっと小野君のこと見てたから、わかっちゃうよ」

「いや、お前に何が」

「だってね。小野君ったら。入学式の時から眼鏡が変わってないもん」


 彼女の指先が眼鏡のフレームを突いてくる。

 反論の余地が見当たらない。

 見られていた。見られていたからこそ気づかれた。

 僕は頬の紅潮を抑えきれず、可憐な同級生から目を逸らすことしかできない。


「あっ」


 いつの間にか傍らにいた庄司の奴が、つられたように目を泳がせる。

 こいつ。さりげなく一部始終を見てやがったな。全くもう。こうなったら真実を伝えて記憶の「価値」を下げてやる。


 僕は観念することにした。



     × × ×     



 気づけば、窓の外が暗くなっていた。

 叔父さんは疲れきった様子でアパートに帰ってくると、食卓の天板に広がる「ブドウ畑」を見つけて手を叩いた。


「『ワイナリーの四季』じゃないか! トスカーナは入れたか?」

「お邪魔してます」「わあ。尾藤さんと会えた」


 庄司と石生が挨拶する。

 叔父さんはアイドルのように笑顔で手を振りながら自室まで着替えに行った。あれは今のゲームが終わり次第、混ざるつもりだな。


 僕は一つだけ訊いておきたいことがあり、叔父さんの部屋に入らせてもらう。

 見れば、早くも足の踏み場が無くなりつつあった。昨日あんなに掃除したのに。コピー用紙が散らばりまくっている。


「叔父さん。今朝の『特殊カード』は何だったの?」

「ああ。忙しくて言うのを忘れていたな。2千円失うかわりに自分の手持ちのうち、好きなボードゲームで遊べる、だったはずだ」

「……それってまさか、例えば『キャット&チョコレート』みたいな」

「そうそう。それだ。多人数で盛り上がれるやつ。あれはいつもの3人でやるよりもっと多いほうが何倍も楽しいからな。なるほどな。それでお前の友達がウチに」


 僕は何も言わずに部屋を出た。

 叔父さんを甘やかす作戦は続いている。

 だから今はまだ何も言わない。何もしない。


 でも、いずれ元に戻れたら。

 その時は本当にぶちのめしてやる。

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