8月6日 ・・・・・・ 買い物


     × × ×     

 

 2023年8月6日。

 窓の向こうには澄んだ空が広がっていた。昨夜の淀川花火大会ですすだらけになったはずなのに、少しももやが掛かっていない。

 僕は食卓のリモコンに触れる。テレビをつけると高校野球の全国大会が始まっていた。別のチャンネルでは広島の慰霊式典の説明が終わり、のど自慢大会に変わった。


 正午を過ぎても叔父さんが起きてこない。

 僕は台所の様子から推理する。空き缶が詰め込まれたビニール袋、踏みつぶされた『じゃがりこ』の空箱、水切り台にあるステンレスのタンブラー。どうも夜中に起きて、独りぼっちで酒盛りをしていたらしい。

 食卓にはソロプレイ可能な『ロビンソン漂流記』と『テラフォーミング・マーズ』の四角い箱が並んだまま。

 叔父さんの体内時計がめちゃくちゃになるのは別にどうでもいいけど、今朝の『特殊カード』が見られないのは困る。もうすぐ出発の時間だし。


 僕はあの人を叩き起こすことに決めた。

 普段なら叔父さんの私室に足を踏み入れるのは掃除の時ぐらいだ。

 扉を開き、敷居を踏み、床に散らばる衣服やコピー用紙を踏まないように気をつけつつ。ベッドに横たわる中肉中背の男性に声をかける。


「叔父さん。月曜日なのに仕事行かなくていいの?」

「やめろ。あお。そのウソだけはやめてくれ。心臓が破裂しそうになる」

「早く『特殊カード』を引いてほしいんだけど。昨日のカードの効果で3枚引けるなら、元に戻れるかもしれないじゃん」

「わかったから二度と同じことをしないでくれ。手番ターン開始」


 叔父さんは布団に包まったまま、目に見えない山札のカードを引いていく。

 1枚。2枚。3枚。

 ルール上(?)引いたカードは手札やリザーブに回すことが原則できないらしい。めくるごとに一つずつ処理していくことになる。

 叔父さんは小さく咳をした。


「おほん。1枚目は早起きしたら300円ゲット。捨て札にする。2枚目は甲子園に行けば『精神力コマ』1回復。チケットを持っていない。捨てる。3枚目はシャワーを浴びると夕方まで二重瞼ふたえまぶたになる。浴びてきていいか?」

「はあ、どうぞ」

「すまない」


 布団の中からパンツ一丁の叔父さんが出てきた。そのまま風呂場へ走っていく。

 やがて部屋まで戻ってきた時には、面白いくらいパッチリした目になっていた。僕は思わず吹き出してしまう。

 あの豆粒みたいな目をあんな風に仕上げてしまうなんて。ただのアイプチではありえない。

 叔父さんの「奇行」がまたもや現実を捻じ曲げてしまった。


「風呂の中で引いたが、休日カードはアルコールの摂取を控えると『精神力コマ』が月曜日の夜まで減らなくなるというものだった」

「叔父さんの肝臓が気を回したんだろうね」

「男に戻してやれなくてすまないな。あお。代わりといっては何だが、今日はお前の財布になってやるぞ」

「え?」


 なぜかジーパンに足を突っ込んでいく叔父さん。白シャツの上から灰色のワイシャツに袖を通している。一応余所行きの格好だ。

 どうやら今日の件にこの人もついてくるらしい。てっきり山名さんと二人きりだと思っていた。


 別に本気で「デートに誘われた」と思い込んでいたわけではないけど。

 ただその。用件が用件だけに叔父さんに来てもらうのは恥ずかしいというか、見られなくないというか。どうしよう。


 僕が悶々と悩んでいると、不意に叔父さんが布のようなものを肩にかけてきた。

 やや落ちついた薄青っぽい色合いのストールだった。カーディガンと呼ぶべきか、バスタオルくらいの大きさがある。生地が薄く、透けるほどではないが、風通しが良くて心地よい。

 これを羽織っていれば、公園にいても熱中症にならず、女児から「乳首」と指摘されずに済むかもしれない。あれはトラウマになりそうだった。


 ふと、叔父さんの二重瞼ふたえまぶたと目が合った。


「その布は山名が忘れていったやつだ。返すついでに使わせてもらえ」

「え、なら女性用じゃん」

「店に入るまでを隠せたら何でもいいだろ」

「際どい……ところ……」


 叔父さんの言わんとするところを察して、僕は羞恥心で破裂しそうになった。

 


     × × ×     



 梅田には人が多い。西日本でいちばん人目につく街かもしれない。

 叔父さんのアパートがある福島区から環状線で1駅しか離れていないのに、JR大阪駅を中心にわんさか人が溢れかえっている。宇宙人が見たら「地球人の巣」呼ばわりされてもおかしくない。

 おのずと人類の止まり木たるスタバとユニクロもあちこちにある。


 山名さんとの待ち合わせ先は、ヨドバシ梅田の新棟「リンクス」1階のエスカレーターを降りたあたりだった。

 笑顔で手を振る彼女の姿が見える。

 今日の彼女は普段の仕事着スーツではなく、淡い色のブラウスに紺色のロングスカートを合わせていた。前にも見たことのある格好だ。


「おっす、あお君。さっそくだけどさ、あそこの棚から好きな……あれ、イサミ先輩も来て……めっちゃ二重ふたえですね!?」

「今日の『特殊カード』の効果だ。面白いだろ」

「いやー……以前ならふざけてないで早く脳の病院行けって言うところでしたけど、マジでヤバいですねー……すっげえー……」


 山名さんが感心した様子で叔父さんのまぶたを摘まんでいる。


 僕は指示された棚を見てみることにした。

 女性用インナー。ブラキャミソール。ブラタンクトップ。あまりに場違いな文字列に居たたまれなくなる。友達にもらった野球帽を被ってきて良かった。

 ツバを目深にしつつ、僕は不明領域の探索を続ける。


 一つ手に取ってみると布の中に少し固い部分があった。多分胸のあたりだ。これが突き出た部分を守ってくれるらしい。

 僕の背中に変な汗が流れていく。自分は良くないことに手を染めようとしている。

 一線を越えてしまう。止めたほうがいい。


「蒼君。良いのあった?」


 山名さんが声をかけてきた。

 振り返れば、彼女の傍らに叔父さんの姿が見当たらない。代わりに彼女の右手には万札が挟まっていた。


「おっす。こいつで何でも買えるからね。イサミ先輩には5階に行ってもらったし、自由に選んじゃって」

「5階ですか」

「ボードゲーム売り場」

「あはは」


 見事に予想通りで笑っちゃった。

 僕は少しだけ気が楽になった。勇気を出そう。肌の露出が少ないデザインで、目立たない色のタンクトップに手を伸ばす。


 視界の端で山名さんの反応を窺うと、なぜか首を捻っていた。

 変な商品を選んでしまった? 自分には相応しくなかった? 不正解だった?

 何もわからない。僕は不安でいっぱいになる。


「や、やめたほうがいいですか」

「いや……今の蒼君の身体だとSサイズか、Mサイズか、どっちがいいのかなって。とりあえずXLのそれは戻そっか。SとMを試着してみて」

「ボードゲーム見に行きたくなってきた」

「あたしたちも後で行こうね!」


 山名さんに手を引かれ、ボックス状の試着室に放り込まれる。

 奥の姿見には僕の全身が映っていた。

 衣料品店なので当然ではあるけど、鏡が視界に入るたびに女子になってしまった「事実」を突きつけられてしまう。気が狂いそうだ。


 僕は目をつぶった。

 まずはストールをハンガーにかける。次にシャツを脱ぎ、どちらかのサイズのブラタンクトップを胴体に被せていく。

 肩紐を通し、胸元の固い部分パッドを膨らみの形に合わせる。ハマるまでズラす。僕は感動を覚えた。

 肌のフィット感がすごい。これなら問題なく動ける。際どいところも擦れないぞ。


 目を開いてみると一発で感動が吹き飛んだ。

 まずい。これは良くない。明らかに胸の膨らみが強調されてしまっている。

 乳房の形が整えられたせいかな。友達の石生いしゅうみたくデカいわけではないけど、小ぶりなりに目立ってしまう。

 わかるんだ。以前の僕なら間違いなく一瞬だけ目がいく。よろしくない。そういう対象になりたくない。


 僕は借り物のストールで身を包む。努めて猫背になる。

 持ち込んだ野球帽も相まって、何だか映画の狙撃手みたいな立ち姿になった。


あお


 一番聞きたくない声がカーテンの向こうからひびいてくる。

 叔父さんには今の姿を見られたくない。恥ずかしすぎる。本当におかしくなってしまう。

 僕は声を張り上げる。


「ま、まだ着替えてるから!」

「そうだったか。実は評判の良いゲームを仕入れてきた。後で3人でやろう」

「叔父さん、僕はね、男に戻ったら格闘技を始めようと思ってる」

「健康的で良いな」


 脳内にボードゲームを詰め込まれた叔父さんには皮肉が通じない時がある。

 いつかぶちのめしてやる。


 僕はカーテンの向こうに気を配りつつ、商品のタンクトップを脱いだ。Mサイズだった。多分これで大丈夫だ。

 元々のシャツに身を包み、サンダルに足を突っ込んで店内のセルフレジに向かおうとしたら、傍らにいた山名さんに待ったをかけられた。


「Mでいいの? なら、同じブラトップをあと2つ持っていくから試着室で待っててね。お店の人にお願いしてくるからさ」

「3つもいらないですよ。1つで十分です」

「そう言わないの。せっかくだし着替えていこうよ。ごめんね。さっき覗いちゃったけど、蒼君似合ってたよ」


 山名さんはニヤニヤしながらタンクトップを抱えていった。

 ぶちのめしたい奴が2人になってしまった。



     × × ×     



 地下街の生ぬるい空気が人波に切り裂かれていく。

 縦横無尽。右往左往。各々が別の目的地に向かう中、時に絶妙な間合いで交差している。

 僕の視界には叔父さんの背中しか映っていない。帽子のツバを目深にしていれば、なるべく視線を落としてやれば、すれ違う人たちの目つきなんて気にしなくて済む。

 周りにどう見られているか。以前は深く考えなかったな。


 地下道を少し歩き、山名さんが「約束通り美味しいものだよ」と連れていってくれたのは、ノースゲートビル・ルクア地下2階のビアホールだった。

 ちなみにビアホールのビアとはビールのことだ。

 僕はきちんと申し上げておく。


「未成年なんですけど」

「まあまあ。ここは骨付き唐揚げが最強なんだ」

「専門店より美味しいですか?」

「あたしのランキングでは堂々の1位なんだよねえ」


 お姉さんの自信まんまんぶりが気になり、3人で入ってみたら、たしかにジューシーで美味しかった。

 高校1年生の僕には確認できないけど、きっとビールにも合うのだろう。

 山名さんは「があ、うんめえ!」と幸せを噛みしめていた。


 一方で、叔父さんは本日分の『休日カード』の記述に悩まされており、一時の快楽でアルコールを摂取するか、『精神力コマ』の保全期間を取るか、本気で選びがたい様子だった。

 ついには泣きそうになっていた始末。ざまあみろ。


 僕は唐揚げにかぶりついた。女子になってから少し食が細くなった。味わえるうちにしっかり味わおう。

 コーラで喉を洗い流し、何気なく店の外に目を向けてみれば、さっきとは別のユニクロが営業中だった。本当にどこにでもあるらしい。

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