8月7日 ・・・・


     × × ×     


 2023年8月7日。

 パラパラと雨が降り出していた。

 久しぶりの灰色の空に紛れるように、僕は恥を忍んで外に出る。


 アパートの集積所までゴミ袋を捨てに行く。

 月曜日の恒例行事ルーティンワークなのに気負ってしまうのは、自分が相応しくない格好を強いられているからだ。

 僕は顔の紅潮を自覚する。むさ苦しい雨合羽のせいじゃない。内側にまとった女性用のタンクトップが、嘔吐えずきそうなほどに心拍数を高めている。誰にも見られていないのに。バレないはずなのに。道行く人々の視線が怖い。


「はあ」


 僕は部屋に戻り、呼吸を整える。

 叔父さんのせいで朝っぱらから変態の気分を味わうはめになった。許しがたい。出社する時にゴミ袋くらい持って行けたはずだ。全くもう。


 玄関扉の金具に雨合羽を引っ掛ける。薄暗い廊下を蛍光灯が照らしてくれる。

 あくびついでに背筋を伸ばすと、ちょうど洗面台の鏡にタンクトップ姿の自分が映っていた。

 綺麗に整えられた膨らみを引きちぎりたくなる。

 散々揉んでおいて何だけど。僕自身が選んだ服装で胸の形を整えているという事実に耐えられない。

 一方でパッドなしの生活にはもはや戻れず、苦悩しながらも現状を許容することで「今」を生きられている。


 僕は女の子になってしまった。


「……やっべえ! あそこの子、すっごい可愛いんだけど! めっちゃ好みだわ!」


 ヤケクソで吐いた台詞が虚しく消えていく。

 洗面台の鏡に映る、ボサっとした洒落っ気のない髪で、眼鏡を外すと裸眼視力が0.3しかなくて、しかめっつらでこちらをにらみつけている女子が、みるみるうちに赤くなっていく。

 羞恥心が胸に突き刺さる。冗談でも言うべきではなかった。うわあ。トンカチで側頭部を殴りたい。


 無かったことにしよう。

 僕は食卓の麦茶を飲み干し、唇についた水滴を手甲で拭い、卓上に残された「書き置き」を読み直す。

 叔父さんの記述によると今朝の『特殊カード』も期待外れだったらしい。


「……夕飯にハンバーガーを食べたら、お盆明けまで英語が話せるようになるとか、何なのさ」


 メモ用紙を左右に引き裂く。

 僕は夏休みの課題を進めることにした。暇つぶしにはもってこいだ。



     × × ×     



 雨音が聞こえなくなり、エアコンの音が耳についてきた。

 僕は英語の問題集を切り上げる。


 ポケットからスマホを出してみると、おやつの時間だった。

 他には友達の名前が表示されていた。部活仲間の女子・石生千秋いしゅうちあきからメッセージが届いている。

 週末のプールの件だろうか。今のままだと行けそうにないけど、ひとまず内容を確認しておく。


『読んだ?』


 端的な問い。

 僕は記憶を遡る。勉強机の辞書棚に彼女から借りた本が挟まっていた。たしかアステカの神々にまつわる犯罪小説だという触れ込みだった。


「まだ読んでない、と」

『小野君は焦らすの好きだよね。ずっと』


 文字列の向こうに石生の蠱惑こわく的な笑顔が浮かぶ。

 彼女には思わせぶりというか、真意の読みづらい発言が多い。おかげで出会った当初は散々に振り回された。

 実際は深く考えずにその時の気持ちを素直に吐いているだけだ。

 素敵な男性を見たら「好き」と言い、足の速い男子を見たら「格好良いね」と告げ、綺麗な景色を観たら「あなたと観られてよかった」と微笑む。

 他人の美点を見つけるのが上手く、誰もが好きになり、誰も好きになる。


 言葉と美貌で教室中の男どもを虜にした彼女は、入学式から夏休みまでの間に様々な諍いに巻き込まれた末、小野蒼と庄司晶しょうじあきらという冴えない男どもとつるむようになった。

 ちなみに彼女のクラスには「石生千秋に話しかけたら男女問わず村八分」という鉄の掟があるそうだ。

 彼女に話しかけられて答える分にはOKらしいけど、十分にいじめの範疇はんちゅうだと思う。


 僕たちは部活仲間なので自由に話せるし、メッセージも送信できる。


「先週まで夏期講習で忙しくてさ。お盆休み中に読ませてもらうよ」

『小野君の感想聞きたい』

「読み終えたらね」

『会いたい』


 僕は眉間を押さえる。素朴な気持ちなのは理解しているけど、勘違いしないほうがおかしいだろ。実際は僕以外にも、それこそ庄司に対しても似たようなことを言っているんだけどさ。全くもう。

 プールの時に会えるよとは言えず、僕は手持ちの適当なスタンプでごまかすことにする。


 すると石生は自撮りの写真を送ってきた。


「おお……」


 バチバチのキメ顔に思わず声が漏れる。

 相変わらずの美貌に加え、後ろ髪の臙脂えんじ色のインナーカラーが映えていた。夏休みだなあ。

 背景のファンシーな空間はカラオケルームみたいだ。

 それにしても目鼻立ちの整いぶりが際立つ。胸もデカい。男受けしそうなレース付きのブラウスがはち切れそうになっている。すごい。


『小野君も送って』


 送れるわけないだろ。

 試しに同じポーズを取ってみたら、彼我の格差と恥ずかしさで悶絶しそうになった。



     × × ×     



 やっぱりプールまでには元に戻りたい。

 僕は気持ちを新たにしつつ、どうすれば適切な『特殊カード』を引き出せるのか、お風呂の中で思案する。

 あれが叔父さんの内なる希望を反映しているのなら、僕が男子高校生に戻ったほうがあの人にとって利益になる状況を作り出せばいい。

 例えば「元に戻るまでボードゲームに付き合わない」と完全に決めてしまうとか。


 問題は繊細すぎる叔父さんの『精神力コマ』の回復が追いつかなくなることだ。叔父さんが『特殊カード』をドローせずに通常回復(+2)ばかり選んでしまう状況は本末転倒だし。

 このジレンマをどうしたらいいのか。


 例の自撮りには写っていなかった石生の腰回りの曲線美に想いを馳せつつ、僕は脱衣所でボクサーパンツを引き上げる。

 タンクトップについては多めに買っておいたおかげで助かっているけど、下の方まで妥協するつもりはない。


 リビングでは叔父さんが英語の教科書を読みふけっていた。僕の部屋から勝手に持ち出したらしい。

 ハンバーガーの包み紙を片手に「読めるぞ!」と満面の笑みを浮かべている。

 僕は訊ねてみる。


「叔父さんって英会話に興味あったんだ」

「当然だ。ボードゲームの原産地は海外だからな。これでルールが読めず未開封のままだった海外版の『サンファン』を遊べるようになるぞ。さっそくやろう」

「へえ」


 やはりボードゲームのことになると叔父さんは必死になる。

 僕の脳内に「勝ち筋」が浮かび始めた。いよいよ元に戻るべき時が来た。

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