8月5日 ・


     × × ×     


 僕の叔父さんは東成区ひがしなりくの印刷工場で働いている。社内では雑用係のようなポジションらしい。

 近年の社会的なペーパーレス化の進展により工場の経営状態は芳しくないそうで、注文が少ないだけに残業や休日出勤が滅多に発生しないのが「数少ない魅力」だと叔父さんから力説されたことがある。

 あれは僕がまだ小学生で、叔父さんが年始の挨拶に来た時だったと思う。懐かしい。金剛こんごうニュータウンの実家で、家族みんなで旭ポン酢片手に河豚鍋てっちりを囲んだ。

 それも今は昔。先輩社員の退職が相次いだ結果、叔父さんは土曜日もネクタイを絞めるようになった。


 2023年8月5日。

 叔父さんが洗面所で歯磨きしながら『特殊カード』を引いた。


「もご、もごもごぉ……おええっ。なるほど。仕事を休むかわりに『精神力コマ』を1回復し、『特殊カード』『休日カード』を1枚ずつドローできる、か」


 洗面台に水を吐き出す音が聞こえてくる。

 叔父さんは不器用な人間だ。案の定ネクタイを湿らせていた。取り替えるために部屋へ向かう背中には平日の疲れがにじんでいて、リビングに戻ってきた顔には無精髭が目立つ。


 僕は居候として言っておくことにする。


「休めばいいじゃん」

「昨日飲みすぎた。ボードゲームでの『精神力コマ』回復分が二日酔いで差引ゼロになった。我ながら自業自得だが」

「残りのコマは?」

「1つだ」


 叔父さんは台所で味噌汁を器によそい、その場で一気飲みしてしまう。無作法だ。僕の母親が見たら怒鳴り散らしていたと思う。


 叔父さんの『精神力コマ』は気力の充実ぶりを示しているらしい。ゼロになっても死なないが、酷く疲れた状態になるとのこと。

 例えば道端でしゃがみ込んでしまったり、喫茶店で注文したアイスコーヒーが来る前に気絶したり、ほとんど頭が回らなくなるそうだ。

 以前は僕を含めた周囲に面倒事を押し付けるための言い訳だと見ていたけど……今は奇行が現実リアルになってしまった。


 叔父さんが玄関で革靴を履こうとしている。

 僕は座布団から立ち上がり、叔父さんのシャツの袖を引いた。


「ねえ。今死なれたら困るんだけど」

「……死ぬことはないが、あおの言うとおりだな」


 叔父さんはズボンのポケットからスマホを取り出すと、誰かに何かしらのメッセージを送ったようだ。

 そして、ようやく僕と目を合わせてくれる。


「熱が出たと言っておいた」

「それがいいよ。今日こそトイレ掃除お願いね」

「うっ」


 僕の要望に叔父さんが目を逸らしてくる。

 明らかに『精神力コマ』が回復した様子だったのに、一気にやつれてしまったあたり、よほど掃除したくないみたいだ。潔癖症にも程がある。


 叔父さんはネクタイを外し、リビングに戻ると──さっそく戸棚のボードゲームを漁り始めた。

 この人にとって休日=ボードゲームだ。

 付き合わされる身としては判断を誤ったかもしれない。どうせ暇ではあるけど、朝から晩まで同席するのはイヤだし。

 僕は開かれようとしていた『世界の七不思議・デュエル』の箱を押さえつける。


「待って叔父さん」

「なんだ。今日は夜までゲームして全回復するぞ。付き合え」

「そうじゃなくて『休日カード』と『特殊カード』。さっきの効果で手に入れたでしょ。まだ引いてないよね」

「ああ、そうだったな」


 叔父さんの左手が見えない山札に触れる。

 休日にしか引けない『休日カード』には主に『精神力コマ』の回復につながる効果があるらしい。

 叔父さんが目を細めている。


「ふむふむ。朝食を食べてから夕方まで布団の中にいたら『精神力コマ』が4回復するらしい」

「おやすみ叔父さん」

「待て待て。ボードゲーム三昧のほうが楽しいだろ。ほら蒼。次は『特殊カード』を引いてやるから」


 今度は右手で山札に手を伸ばす叔父さん。

 出てきたカードは予想外のものだったらしい。小さな目が珍しく見開かれている。


「これは……プレーヤーが夕方まで布団の中で眠っていた場合、日本円3000円を手に入れ、翌日の朝に『特殊カード』を3枚引くことが出来る、だと」

「もう眠るしかないじゃん」

「くそっ。こんなにも俺はボードゲームがしたいというのに……」


 叔父さんはカード同士のシナジー効果に頭を抱えながらも自分の部屋に戻ると、ほんの数分もしないうちにいびきをかいていた。

 何だかんだで疲れていたみたいだ。


 考えてみれば、もしかすると山札のカードは叔父さんの内なる望みを反映しているのかもしれない。

 一昨日の「早退しろ」にしても。昨日の「上司に言い返せ」にしても。今日の「眠れ」も。

 待てよ。だとしたら、僕が女の子になってしまったのは……やめよう。何事も例外はあるし、あまり考えすぎると叔父さんのアパートにいられなくなる。


 今日の予定が無くなった僕は、麦茶のペットボトルを勉強机まで持ち込んだ。

 卓上カレンダーの「8月11日」が眩しく光っている。同級生の可愛い女子とプールで遊べるかもしれない日。

 逆に明日の日付は油性ペンで塗りつぶされていた。

 僕はため息をつかずにいられない。明日の買い物が憂鬱すぎる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る