8月4日 ・・・


      × × ×     


 2023年8月4日。

 新しい朝が来た。

 僕は叔父さんが起きてこないうちにシャワーを浴びる。

 寝汗を落としたい。さっぱりしたい。そう自分に言い訳しながら、流水で身体を清めていく。

 柔肌を水滴が伝う。生身の気怠けだるさが洗い流される。しかしながら心の中までは清められなかった。

 今日の『特殊カード』で元に戻るかもしれないし、今のうちに──という我欲を否定しきれず、僕は力強く目を開き、視界に映るものを全て記憶に焼き付けることにした。


 一連の作業を終え、脱衣所でバスタオルと仲良くなっていると、和室の方から「手番ターン開始」の声が聞こえてくる。叔父さんだ。

 僕は早速叔父さんの部屋に向かう。


「ねえ叔父さん。今朝の引きはどうだった?」

「お前なんつう格好で。風邪ひいても知らんぞ」

「いいから早く」

「ああ『特殊カード』をドローだったな。よし任せろ」


 叔父さんは本人にしか見えない山札に手を添える。

 指先で引いたカードは初めて見る内容だったらしい。目を細めて入念に読み込んでいた。


「ふむふむ……会社で上司のイヤミに言い返したら『特殊カード』を追加で2枚ドローできる、か。使いものにならん。捨て札送りだ」

「小声で言い返せば良いじゃん」

「蒼。我が社の小高井こだかい部長を舐めるな。昨日早退を申し出た時にどれだけ詰められたか。あれで『精神力コマ』を3つ持っていかれたんだぞ」


 叔父さんに力説される。いまいちピンと来ないけど、少なくともトイレ掃除(-2)より辛かったらしい。

 叔父さんのメンタルはあまり強くない。ついでに潔癖症でもある。


 僕が脱衣所に戻ると、叔父さんは朝飯も食べずに猛スピードで出社してしまった。忙しいみたいだ。


 僕はドライヤーで髪の毛を乾かしてから衣類に袖を通す。ゆったりサイズの黒シャツ。気の抜けた短パン。

 普段通りの格好で、いつものように味噌汁をすする。


「ふう」


 今日は何をしよう。

 部屋で独りになると「暇」を実感する。昨日みたいに夕方まで寝転がるのは不健康の極みだ。かといって今の身体では外出できない。

 リビングの戸棚には新しく一人用ボードゲームが立て掛けられていた。少し気になるけど、プライベートな時間まで叔父さんの趣味に手を染めたくない。


 どうせなら学校の宿題でも済ませておくか。僕は勉強机に向かった。



     × × ×     



 玄関のチャイムが鳴った。

 叔父さんのアパートにはオートロックなんて上等なものは付いていない。誰でも鉄扉の前まで来られる。

 僕は居留守を決め込む。他者に今の姿を見られたらマズいから。


 二度目のチャイム。三度目。四度目。急用かもしれない。

 仕方なく鉄扉のドアスコープを覗いてみたら、外廊下にシャツとスラックス姿の社会人女性が立っていた。叔父さんの後輩・山名やまなさんだ。まだ昼過ぎなのに遊びに来たらしい。


 僕は対応に困ってしまう。鉄扉の向こうから午後の陽気がじわじわと伝わってくる。炎天下で彼女を待たせたくない。熱中症になったら大変だ。

 彼女と顔を合わせることなく室内に引き入れるにはどうすれば──入れ替わってしまおう。


 僕は財布とスマホを短パンのポケットに入れる。次に玄関の鍵を解錠し、脱衣所に身を潜める。


「あれ? 蒼君、今ドア開けてくれた?」


 山名さんが室内に入ってきた。

 彼女がタイル上で靴を脱ぎ、フローリングの廊下を進み、リビングに足を踏み入れたタイミングで、僕は脱衣所を脱出。

 あらかじめ玄関に並べておいたサンダルに足を差し込み、一目散に炎天下へ駆けだした。

 途中のアスファルトの継ぎ目で転びそうになりながらも、どうにか目的地の鷺洲中公園さぎすなかこうえんまで辿りつく。


 僕は成功した。

 逃げた先は公衆便所と遊具があるだけの細長い公園だ。地元民以外は寄りつかない。後は叔父さんの帰りを待つだけ。完全勝利だ。

 蝉の音がファンファーレのように鳴り響いていた。


 それにしても恐ろしく暑い。日差しが痛い。おまけに全力で走ったせいで乳首が擦れて痒い。生きるのが辛い。


「ふう」


 僕は日陰のベンチに座らせてもらう。木製なのに尻が焼けるように熱かった。今年の夏はどうなっているのやら。

 そんなサウナみたいな空間を小学生たちが平気で走り回っている。子供連れのママさんは木陰で汗を拭っていた。


「乳首」


 突然の指摘。僕は全身が強張るのを感じた。いつのまにか近くにいた女児が、こちらの胸板を指差していた。

 今日はゆったりサイズのシャツ(黒)だけど。たしかに汗をかいたせいで肌に張りついている。突起は否応なく目立ってしまう。


 僕は咄嗟に腕を組んだ。さながらヤンチャなラーメン店のごとく。女児の指摘を二の腕で跳ね返す。

 そして、そのまま近くのコンビニへ逃げ込む。


「ICOCAで払います」

「あいよー」


 僕は店員の視線に怯えながらも涼しい店内でスポーツ用の長尺タオル(白)を入手できた。

 ついでに共用トイレも借りておく。おしっこがしたいわけじゃない。守りを固めるためだ。 


 やり方は簡単。汗まみれのシャツを一旦脱ぎ、入手したばかりのタオルを胸周りに巻いてしまえば……ものすごくゴワゴワした。

 おかしいな。漫画でよく見る「サラシ」って、こんな感じだったはず。

 上からシャツを被せてみても違和感が否めない。着込んだタオルの厚みで胴体に謎の段差が出来てしまっている。


 僕は悩んだ末にタオルを首にかけることにした。

 ライブ帰りの音楽好きみたいな格好だ。タオルの先っぽで胸のあたりを隠せる。


 問題解決。

 僕は冷房の効いた店内から灼熱の路上に戻る。身体が焼きつくされそうになる。

 すぐにとんぼ返りして、アイスカフェオレを片手にイートインエリアのお世話になることにした。熱中症にはなりたくない。


 ひ弱な紙ストローを咥えつつ、僕は改めて決意を固める。

 元の身体に戻るまで二度と外出しない、と。



      × × ×     



 暗くなる前にアパートの外階段を上る。

 玄関でサンダルを靴箱に入れていたら、リビングの方から叔父さんと山名さんの笑い声が聞こえてきた。

 陽気な飲み会が始まっている。

 叔父さんも酷い人だ。なにも今日遊ばなくても良かっただろうに。

 きっと本人を問い詰めても、もっともらしい言い訳が返ってくるだけ。あの人の性格は熟知している。全くもう。


 とはいえ、居候ぼくの一存で客人を追い返すわけにもいかない。

 僕は出来るだけ早足でリビングを通り抜けようと試みた。

 挨拶したら声でバレる。立ち止まったら体型を怪しまれる。何も言わずに自室へ駆け込むしかない。


「おかえりあお君。外めっちゃ暑いのに、どこ行ってたのー」


 山名さんは部屋の出入口ふすまを背もたれにしていた。

 僕が食卓の前で立ち往生するのを見るなり、彼女の目が丸くなる。


「わっ……ガチじゃん! ウソでしょ!? やっべぇ!!」


 座布団から飛び上がる人を初めて見た。テンションの上がり方がおかしい。

 そんなお姉さんにあちこち凝視され、ついには抱きしめられてしまう。彼女の首筋は柑橘系の匂いがした。

 恥ずかしさが込み上げてくる。


「あの……放してください……」

「おっぱいあるね!」


 心無い指摘に僕は泣きたくなった。

 辛すぎる。あるから困っているのに。もう山名さんとは関わりたくない。


 隙を見て奥の部屋の布団に逃げようとしたら、彼女にグイッと袖を引かれてしまった。


「待って待って。今日は蒼君に会いに来たんだよ。あたし」

「どう見ても酒飲みながら叔父さんと『バトルライン』してましたよね」

「これは蒼君の帰りを待ってたから……」


 バツが悪そうに含羞はにかむ彼女の足元には、敗北に頭を抱える男性(28歳)が転がっていた。

 卓上を見るかぎり僅差の勝負だったみたいだ。9つの旗を取り合うゲームで5対4とは。叔父さんが悔しがるのもわかる。ざまあみろ。


「実はイサミ先輩から頼まれたの。蒼君のこと。手助けしてあげてって」

「え……そうなんですか」

「たしかにそれだと動きづらいよねー」


 山名さんの柔らかな視線が不穏な動きを見せる。

 すかさず僕は腕を組んだ。手のひらに伝わる汗っぽい肉感が今は気持ち悪い。


「蒼君。今度あたしと下着ブラ買いに行こっか!」

「間に合ってます。すぐ元に戻ります。いらないです」

「ありゃ。まっすぐ拒否られちゃった。ブラがイヤなら、そうじゃないのもあるのになー」 

「そうじゃないの……」


 山名さんの台詞に思わず心を掴まれそうになる。

 ひょっとしたら「サラシ」に近いものが手に入るかもしれない。

 でもでもでも。女子の下着であることに変わりはないわけで。

 僕は言い訳を捻り出す。


「お、お金が勿体ないです」

「それくらい素敵な叔父さんが出してくれるでしょー。ねえ、イサミ先輩?」

「おう」


 山名さんに問われた叔父さんがうなづいている。

 昔の仲間の前では良い人ぶって……いや、本当に僕のことを心配してくれているのかもしれない。

 わざわざ山名さんにお願いしてくれたわけだし。 


 どうしたらいいのやら。僕には考える時間が必要だった。

 しかし目の前の女性はせっかちなので、すぐに話を進めようとしてくる。


「しゃーないねえ。ここは我らボドゲ同好会の掟に則りましょうか。あたしと真剣勝負ガチバトルだよ、蒼君」


 山名さんの両手にはそれそれボードゲームの箱があった。

 どちらも彼女が好んでやまない「バチバチにやりあうバトルもの」ではなく、とても平和な拡大再生産系ゲームだった。

 あれなら僕でも勝てるかもしれない。


「……『アグリコラ』でお願いします」


 僕は二択のうち、自分の牧場に家畜を集めていくボードゲームを選ばせてもらう。短時間で終わるし丁度良いはずだ。

 叔父さんに散々付き合わされたおかげでルールは頭に入っている。

 何もない牧場に資材を持ち込み、柵を作り、小屋を建て、ヒツジやブタを飼い、繁殖させていく。

 平和でやりがいのあるゲームだ。正直嫌いじゃない。


「…………あれ?」


 終わった時には大差で負けていた。

 僕は家畜の数を指折り数え直す。いつもより少ない。わりと上手く進めたはずなのに。

 逆に山名さんは合計50点を叩きだし、お上品に缶ビールを飲み干していた。


「くふふ。バチバチで脳みそたぎるよね。だから『フタリコラ』大好き」

「も、もう1回お願いします」

「えー。除け者にされたイサミ先輩が泣きそうになってるからダメかなー。あれじゃ『精神力メンタルコマ』が減っちゃいそうだし」


 お姉さんの言うとおり、リビングの片隅で叔父さんがしょんぼりしていた。三角座りで缶チューハイをすすっている。

 僕は冷蔵庫からキンキンに冷えた缶を持ってきた。


「叔父さん。あと1戦だけやらせてほしいんだけど、耐えられる?」

「お前はもう少しゲーム全体を見たほうがいいな。もっと楽しくなるぞ」


 叔父さんの右手が『アグリコラ』のメインボードを指差した。

 ゲーム内では資材や家畜が搬入されるエリアだ。

 各プレーヤーは労働者ワーカーを配置し、それぞれ自分の牧場に仕入れていく。


「自分の手元ばかり見ていたら相手の動きが読めない。逆に山名は蒼の牧場をつぶさに見ていた。だから、お前の『最善手』は常に阻まれていた」

「僕が欲しい時にウシを仕入れられなかったのは……そういうことか」

「視野を広げろ。相手にどう見られているのか、考えてみろ。ウチにはちょうど良い教材があるぞ」


 叔父さんは戸棚から多人数プレイ用の元祖『アグリコラ』を出してくる。

 他人のプレイを見ていたら自分もやりたくなったらしい。わかりやすい人だ。

 対する山名さんは「そうこなくちゃ」とばかりにさっぱりした笑みを浮かべつつ、僕の方に目を向けてくる。


「対戦ありがと。それじゃあお君、今度の日曜日は梅田のユニクロだね。ついでに美味しいものでも食べよっか」


 ショートヘアのお姉さんからデートに誘われた。僕は目の前の現実を都合良く解釈する。

 明後日までに元に戻れたらなあ。

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