8月3日 ・・・・・


     × × ×      


 2023年8月3日。

 目が覚めた時にはお昼を回っていた。

 登校日でもないかぎり早起きしたくなかったし、早朝の奇行に巻き込まれたくなかったから「二度寝」を選んだわけだけど、さすがに1時起床ともなると後悔の念に駆られてしまう。

 朝を無駄遣いしてしまった。


 僕は掛け布団代わりのタオルケットを脇に追いやり、腰を捻って枕に右肘をつく。

 妙な感覚があった。昨日よりシャツが窮屈に感じる。洗いすぎて縮んだのか、寝汗で張り付いているのか。

 まるでシャツの中に何かを詰め込まれているかのようだ。

 うつぶせになると、それらを押しつぶしたような肉感に加え、乳首のれが鮮明に伝わってくる。


 僕は起き上がり、枕元にある黄ばんだリモコンを指先で拾った。

 窓際のエアコンに赤外線を送る。

 送風口のフラップが「今日も頑張るぞ」とくるくるしているのを尻目に、僕はパジャマを脱ぎ、シャツの襟元を覗き込む。

 少し汗っぽい匂いがする。

 谷間が出来ていた。


「え」


 背筋が凍りついた。

 僕は枕元のケースから眼鏡を取り出す。なぜか、微妙に焦点が合わない。それでもスマホのインカメラが捉えた姿が「自分とよく似ている」のは把握できた。

 似ているだけで同じではない。

 若干髪が伸びているし、少し前に戻った気もする。何よりシャツに乳首が浮いている。中三の時の文化祭クラスTシャツに。正面の『情熱たこ焼き』の文字が引っ張られて読みづらくなっている。


 勉強机の充電器にスマホを立て掛け、インカメラの様子を確かめながら、僕はシャツをめくり上げる。

 手のひらに収まる程度の膨らみと、どこか見覚えのある先端があった。

 指先で触れると、如実に触れた感覚がある。なるほど。目が醒めても一生忘れずにいたい感覚だった。間違いなく夢だろうし。

 下のほうは見なくていいや。今の記憶を上書きされたら困る。何より勇気が出ない。


 ふすまを開けると、リビングの食卓にはワイシャツ姿の叔父さんが座っていて、なぜか僕の財布に手を突っ込んでいた。


「何やってんの!?」

「あっ……起きていたか」

「なんで僕の財布を……えっ。財布を机から持ち出したってことは、僕が女の子になっちゃってるのも、ていうか叔父さん、仕事は?」

「部長に頼んで早退させてもらった。こうなるとわかっていたなら、昨日の『特殊カード』を捨てずに持っておいたんだが。今はお前の財布に金を入れてやろうとしていたところだ。約束通りにな」

「絶対抜こうとしてたよね。いくら夢でも酷いよ、叔父さん」

「違う。断じて違う。高校生にしては随分持っているから、少し中身を確かめていただけだ。お前10万も持ち歩いていたのか」

「10万円?」


 僕は叔父さんから財布をひったくる。

 たしかに万札が束になっていた。これだけあれば、夏休みが終わるまで友達と好き放題できる。

 いっそのこと、ずっと欲しかった電動自転車でんちゃりやノートPCに注ぎ込んでやろうか。

 相次ぐ脈絡のない展開が「夢の中」であることを保証してくれる。醒めないうちにもう少し揉んでおこう。


「『拡張』だな」


 叔父さんは窓際の戸棚に詰まった『ドミニオン』の紙箱の列を眺めつつ、やや断定めいた口調で呟いた。


 ボードゲームの『拡張』とは、遊びの幅を広げるための追加要素を詰め込んだ別売り商品のことだ。

 例えば、昨日の『ウォーチェスト』なら単純に兵隊の種類が増える他、勅令というアクションで戦局を変えられるようになる。


 叔父さんの場合は一例として飲酒時に『アルコールマーカー』が追加され、トークンが赤いエリアに入ると眠たくなってしまうらしい。昨日も山名さんが帰る前にいびきをかいていた。仕方なく僕がプレイを引き継ぐことになり、夜中まで付き合うはめになった。


 まさか「遊んでくれたお礼」に彼女がこっそり万札をくれたとか?

 いくら山名さんが対戦相手に飢えているからって、そこまでしてくれなくても。やっぱり夢には脈絡がない。


「俺の奇行が現実を変えてしまった」


 映画のような台詞。

 叔父さんは自分がおかしいとわかっている。

 わかった上で、ボードゲームのようなルールに沿った生活を続けている。

 正確には続けざるを得ないらしいが、僕には関係のないことだ。叔父さんのゲームは叔父さんの中で完結している。 


「ひとまず『奇行変動きこうへんどう』と呼ぼう。あのカードの効果が現実を歪めた。恐るべき事態だ。川畑たちに連絡しないと……」

「叔父さん、あのカードって?」

「昨日、山名にお前の件で怒られた時、目の前で山札がシャッフルされた。新たな『拡張』に伴うランダムイベントだろう。稀にあることだ。あの時、俺は山札から『特殊カード』を引いた。その上であおに訊ねたな。お金がたくさん欲しいか。ちょっとでいいか、と」

「どういうこと?」

「あれは正しくは……『左隣のプレーヤーは7万円を得るかわりにランダムイベントが発生する。または3万円を得る』という内容だった。その結果、お前にランダムイベントが起きてしまったようだ」


 叔父さんは目元を抑え、天を仰いだ。

 あの時、僕が「たくさん欲しい」と答えたせいで女性化イベントが引き起こされたと言いたいらしい。

 僕は脱力してしまう。


「あのさ。カードの効果を相手にきっちり伝えないのゲーマー的にギルティだよね」

「すまなかった」

「いや待って。ていうか全部叔父さんの妄想じゃん。ランダムイベントとか。僕に起きるわけないよ。こんなの夢に決まって──」

「見ろ。これが今日、蒼の財布に入れてやるつもりだった7万円だ。さっきコンビニのATMで下ろしてきた。全てここにある。なのにお前の財布はすでに膨らんでいた。現実に効果があったんだ」


 叔父さんから7枚の万札を突きつけられる。

 自信たっぷりに出してきたわりに、申し訳ないけど証拠能力が低すぎる。三十路前の大人なら日常的に持ち歩いててもおかしくない金額だ。到底納得できそうにない。


 僕が7万円を受け取ろうとしたら、叔父さんに手を引っ込められた。


「くれるんじゃないの?」

「申し訳ないとは思っている」

「叔父さんのせいでこんな姿になったんだよ」

「申し訳ないとは思っているが、これだけあれば欲しいゲームがいくつも手に入る!」

「えええ……」


 叔父さんの大人げない言動に、僕は危うく絶句しそうになった。

 叔父さんとしては結果的に7万円もらえたんだから別に自腹を切らなくてもいいだろ、というスタンスのようだ。


「なら、せめて元に戻してよ。2学期までに戻らないと学校行けないじゃん」

「それは任せろ。明日の『特殊カード』がきっとお前の状態異常を治療してくれるはずだ」

「状態異常って……大体、叔父さんってどんなゲームでも引きが良くないからなあ」

「何を言う。だったら試してみるか」


 叔父さんは戸棚から『ウォーチェスト』の箱を取り出してきた。

 昨日山名さんにコテンパンにされたのが余程悔しかったように見える。叔父さんたら、攻勢を仕掛けたいタイミングでことごとく使えないコインを掴まされていたっけ。ざまあみろ。


「やめとく」


 僕は寝床に戻ることにした。

 そろそろ現実に帰りたい気分だ。ついでに布団の中で名残を惜しみたい。


 振り返れば、叔父さんが寂しそうに箱を棚に戻していた。


「蒼が居ないとゲームができん」

「僕が元に戻るまで禁止だね」

「そんな。せっかくの早退、自由時間が……俺の『精神力コマ』が……」

「おやすみ」


 僕は襖を閉めた。

 そのまま布団の上で俯せになる。少し息苦しい。

 仰向けになり、エアコンの冷風を遮るようにタオルケットを四肢に巻き込み、枕元のケースに眼鏡を戻し、より良い未来を信じて……僕はまぶたを閉じた。



      × × ×      



 空腹。喉の渇き。脳髄の倦怠感。首筋のり。若干の尿意。

 二度寝と三度寝を経て、もうすぐ時計は6時を回ろうとしていた。過度の睡眠が引き起こす諸症状に耐えきれず、僕は布団から起き上がる。


 僕の身体は女子のままだった。

 正直そんな気がしていた。夢にしては妙にリアルだったし、叔父さんがあまりにも叔父さんすぎた。


 僕は眼鏡をかけ直す。どうも焦点が合わない。

 レンズをにらみつけていたら、スマホのディスプレイが光っているのに気づいた。部活仲間の庄司晶しょうじあきらから着信があったらしい。

 何の用だろう。


「んんっ……あーあー」


 僕は改めて自分の声を確認する。小学生の頃を彷彿とさせる調子だった。かけ直したら庄司に怪しまれてしまう。

 とりあえずメッセージで『何?』と返しておく。

 すぐに反応が来た。


『来週の金曜日にクラスの奴らとプールに行くんだけどさ、お前も来ねえ?』


 行けるわけあるか!

 僕は否定的な台詞付きのスタンプを返す。

 残念無念。叔父さんのせいで楽しそうなイベントに参加できなかった。後で嫌味をぶつけてやる。別にプールとか好きじゃないけど。


蒼芝あおしば頼むよ。あんまり仲良い奴がいねえんだ。お前が来るなら石生いしゅうも来るらしいし』


 庄司が食い下がってくる。蒼芝とは僕の渾名あだなだ。

 石生は部活仲間。僕たちにとって数少ない女子の友達だったりする。

 僕には考える時間が必要だった。

 あいつの水着姿に興味がないと言えば虚言吐うそつきになってしまう。見てみたい。

 来週金曜日となると11日だ。それまでに元の姿に戻れば、あの男受けだけを目指して作られたかのような身体の全貌を拝むことができる。


 やがて電話が掛かってきた。


『よう蒼芝。悩んでやがるみてえだな』

「別に悩んでないし」

『え、どちらさま?』


 失敗した。反射的に応答してしまった。

 庄司の訝しげな言葉に対し、僕は脳内で言い訳を練り上げる。


「僕だよ。実は叔父さんがボードゲームで負けた腹いせにヘリウムガスをぶっかけてきてさ」

『スカンクみてえな叔父さんだな……てっきり蒼芝の姉ちゃんが出たのかと思ってビビったぞ』

「うちは一人っ子だよ」

『それでどうなんだ。石生の水着、お前も見に来るのか?』

「当たり前だろ」


 健全な男子なんだから。

 僕たちはひとしきり笑い合ってから通話を終えた。


 卓上カレンダーの当日に赤ペンで印を付けておく。

 あと8日以内に元の姿に戻らないと、せっかくの誘いをドタキャンすることになってしまう。


 今の姿でクラスメートに会えるわけないし。

 それ以前に外出できない。


「あと何日……叔父さんの『引き運』次第だけど……まさか一生ってことは……むむむむむ……」


 僕ははやる気持ちを抑えるために早足でトイレに向かう。おしっこがしたい時は脳内が焦ってしまう。人間の性だ。

 パンツを下ろして便座に腰を据える。ドアの鍵を閉める。

 右手で押さえるべき蛇口が見当たらず、僕は天井を見上げたまま「致す」ことにした。


「ふう」


 昔、父さんの本棚にあった下ネタ漫画で「おしっこがビクザムのビームみたいに!」という台詞があった。なるほどね。思わず膝を打ちそうになった。

 僕の人生に要らない経験が増えていく。


 首を傾げながらトイレから出ると、全ての元凶である叔父さんがちょうど玄関の鉄扉を閉めていた。

 叔父さんは外出していたみたいだ。手持ちの紙袋から新品のボードゲームを取り出している。


「どうだ蒼。オタロードのイエサブで『ロビンソン漂流記』を買ってきたぞ。これで俺一人でも生きていける」


 叔父さんの手には一人用ソロプレイのボードゲームがあった。


「えっ……なに。もしかして僕に出ていけってこと?」

「そんなことは言っていない。これから毎日『特殊カード』を引くとなれば『精神力コマ』の消費が激しくなる。出来るだけボードゲームで回復しないとな。お前のためにも」


 叔父さんは額の汗を拭い、力強い足取りでリビングのエアコンに近づいていく。

 ボードゲーム約3時間プレイで1回復だったっけ。

 叔父さんは奇行が目立つし、紛うことなき変人ではあるけど、やっぱり少しくらいは良いところもある。


「そういうことなら、僕が遊んであげないこともないけど」

「だったら『ウォーチェスト』だ!」


 叔父さんはものすごいスピードで対戦の準備を進めていく。

 よく見ると、ゲームショップの紙袋の中には一人用ゲームの他に『ウォーチェスト』の拡張セットが入っていた。


 仕方ない。わだかまりやモヤモヤはボード上で晴らすとしよう。

 僕は叔父さんの対面に座った。

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