8月2日 ・・


     × × ×     


 僕の叔父さんには奇行が目立つ。

 本人曰く、大学時代にボードゲーム同好会に入り浸り、ある時に66時間連続プレイ(満漢全席=部室の全ゲームを休みなく行う鬼のイベント)を敢行した結果、脳がおかしくなってしまったらしい。

 以来、朝目覚めて布団から起き上がるなり「手番ターン開始」と呟き、夜はおやすみなさいの代わりに「手番ターン終了」を宣言しなければ、まともに一日を終えられなくなった。


 2023年8月2日。

 今日も叔父さんは手番ターンを開始し、本人にしか見えない『特殊カード』を山札から1枚ドローする。


「ふむふむ……今日は仕事を早退することで『精神力コマ』を3つ回復できる、か。到底使えない能力だな。これなら冒険せずに通常回復を選んでおくべきだった。仕方あるまい。捨て札送りとしよう」


 朝っぱらから支離滅裂な言動が鼓膜を揺らしてくる。僕のような居候の辛いところだ。進学先が市内の高校でなければ、自宅から通えたのになあ。

 叔父さんはインスタントの味噌汁に冷や飯を混ぜたものを割り箸でかき込んだ後、やや大きめの使い捨てマスクで無精髭を隠し、くたびれたビジネスバッグの取っ手を掴んだ。

 僕はすかさず声をかける。


「叔父さん、会社から帰ったらトイレ掃除の当番よろしくね」

「すまんがあおがやっといてくれ。もう『精神力コマ』が無くなりそうなんだ」

「先週も同じ逃げ方したよね」

「頼む」


 そんな言葉だけ残して、アパートの鉄扉がガシャリと揺れる。

 何が『精神力コマ』なんだか。

 あの人にしか見えない架空のトークンがあるらしいだけど、ぶっちゃけ他人ぼくにとっては適当な言い訳でしかない。

 別に7つのコマが全部無くなったところで死ぬわけじゃあるまいし。誰かに負けるとか、そういう話でもないなら、自宅の便器ぐらいつべこべ言わずに洗ってほしいよ。

 僕は居候だから家主の指示には従うけれども。全くもう。


 というか『精神力コマ』が無くなりそうならカード引かずに通常回復(2回復)を選んでおけば良かったじゃん。

 そうしたらトイレ掃除でマイナス2判定になっても差引ゼロで……やめよう。あれをマジメに考えるとバカらしくなってくる。


 僕は1年4組・小野蒼おのあおと刻印された名札をカッターシャツの胸ポケットに引っ掛け、学校指定のズボンにベルトを通した。

 わざわざ夏休みの中盤に「夏期講習」を設けるような意地の悪い高校に進学するべきじゃなかった。今日で終わりだけどさ。



     × × ×     



 エアコンの効いた教室でみっちりと授業を受け、ものすごい枚数の課題プリントを鞄に詰め込み、シャツの襟元をパタパタさせながら叔父さんのアパートまで戻ってくる。

 郵便受けの『201号室・尾藤びとう』には地元の不動産屋の広告が挿し込まれていた。


 僕の叔父さんは会社では尾藤君と呼ばれ、僕の母親からは勇樹ゆうきと呼び捨てされている。

 大学時代のボードゲーム同好会ではイサミという渾名で親しまれ、大変な人気者だったらしい。


 なので叔父さんが残業等で夕方まで不在だと、たまにアパートの玄関前で当時の関係者から「あお君おかえり。イサミ先輩はまだ帰ってないみたいよ」と話しかけられたりする。

 今日は汗まじりの笑顔が眩しい人だった。


「あたしも中で待ってていい?」

「は、はひ」


 僕は上手く返答できなかった。

 まあ、さっぱりとした容姿の若いお姉さんに待ち伏せされたら、知り合いとはいえ多少ドキドキしてしまうのは仕方ないと思う。

 夏のぬるい風に流され、制汗剤の混じった匂いが伝わってくる。摂氏35度超えの酷暑日でもパンツスーツなのか。社会人は過酷だなあ。

 僕はシャツの袖で汗を拭い、慎重に鍵穴をほじくった。


「お邪魔しまーす」


 玄関のタイル上で革靴が脱ぎ捨てられる。

 山名やまなちひろさんは叔父さんの一つ下で、大学時代はボードゲーム同好会の部員だったらしい。

 叔父さんがおかしくなった原因である耐久ボードゲーム大会『満漢全席』にも参戦していたものの、寝不足が祟って8時間でギブアップしたとのこと。おかげで叔父さんのような奇行に走ることなく今に至っている。


「蒼君、一緒にかんぱーい!」


 彼女はさっそく我が家の冷蔵庫から缶ビールを取り出していた。もはや勝手知ったる何とやらで、いつものことだ。

 ショートヘアの湿った毛先を掻きまわしながら、窓際の戸棚にあるボードゲームを物色している姿も見慣れてしまった。あれは『ウォーチェスト』だな。二人対戦用の戦争ゲームだ。


 山名さんが宝箱状の紙箱を掴んだまま、ニヒヒと笑いかけてくる。


「ねえねえ。イサミ先輩が帰ってくるまで蒼君に付き合ってほしいなー。あたしの槍騎兵ランサーで串刺しにしてあげたいなー」

「す、すみません。僕は夏休みの課題あるんで」

「そっかー」


 少し残念そうな彼女を尻目に、僕は自分の勉強机に向かい、自室のふすまを閉める。

 山名さんのことは嫌いではないけれど、個人的に叔父さんの関係者とは出来るだけ関わらないようにしている。山名さんは全然マシなほうだとしても、他の人たちは『満漢全席』で叔父さんの対戦相手を務めていたわけで──つまりはそういうことなのだ。


 しばらくして叔父さんが帰ってきた。


「ただいま」

「お先にエビスいただいてます先輩」

「お前なあ」

「あっ。もしかして今『精神力コマ』減りました?」

「減ってたまるか。あと2つだぞ」

「あたしと『ウォーチェスト』やったら回復するかも」

「だな」


 襖越しに両者の親しげな様子が伝わってくる。

 僕の知るかぎり、叔父さんと一緒になれそうな女性は山名さんくらいだ。

 もし本人たちがその気なら心の片隅で密かに応援したいけど、二人の目には缶ビールとボードゲームしか映っていないように思える。


 シュコッとアルミ缶が封印を解かれ、紙箱から取り出されたカードが一枚ずつボード上に並べられていく音がする。ペタペタ。


「ううっ……やっぱワクワクする……いつもながら大学の部室に戻りたくなりますねー、イサミ先輩」

「あそこにいたら、遊ぶ時の面子には困らなかったな」

「今は滅多に会えないですもん。イサミ先輩が関西に残ってくれて良かったー」

川畑かわばた住道すみのどうにいるだろ」

「あの人、家に奥さんいるじゃないですか」

「そうか」


 叔父さんがコロン、とボードの上にコインを転がす。

 ボードゲームはアナログだ。マリオカートのようにCPUが対戦相手を演じてくれたりしない。仮に将棋盤の歩兵が勝手に動き出したら、対局以前に神社でお焚き上げしてもらうことになる。

 原則、卓上のコマは常に人間の指先で操られる。

 それゆえに大抵のボードゲームは「必要な人数が集まらなければ、何も始められない」という宿命を帯びている。

 一人用ボードゲームも存在するけど、叔父さんのコレクションには数少なかった。


 山名さんが「ぷはぁ」と気持ち良さそうにアルミ缶との口づけを終える。


「先輩は良いですねー、いつでも可愛い甥っ子が相手してくれますし」

「ああ。そのために預かっている」

「またまた。素直じゃないんだから」

「本当のことだ。本人も折り込み済みだ。初日にそれは伝えている。あいつがルールを理解できない、しようとしない人間だったら間違いなく預からなかった。他人との共同生活で減る分の『精神力コマ』よりボードゲームのプレイで回復する分のほうがわずかに大きい。俺にとって利のある選択をしたまでの話だ」

「ええと、ですね……そういうの本人の前で言わないほうが。年頃の子って、大人の何気ない言葉で強めにショック受けたりしますよ」

「それもそうか」


 叔父さんはそれきり黙り込んでしまう。

 パチパチとコインが並べられ、ずらされ、拾われる音ばかり、こちらの部屋まで伝わってくる。


 別に今さらショックなんて受けませんよ。本当に折り込み済みなので。叔父さんのことだし。僕が叔父さんのこと大好きっ子だったらショックだったかもしれませんけど、僕は叔父さんのこと、さほど好きではないですから。


あお


 いきなり名前を呼ばれ、自室の襖を開け放たれた。

 叔父さんの灰色の靴下が敷居を跨いでくる。踏み込まれる。顔色が読めない。

 何を言うつもりなんだ。


「お前……お金たくさん欲しいか。ちょっとでいいか」

「え?」

「どっちだ」

「そりゃ……たくさん欲しいけど……」

「そうか」


 叔父さんは小さくうなづくと、何もなかったかのように食卓の座布団に座り、『ウォーチェスト』のプレイを続けてしまう。

 盤面を見るかぎりでは山名さんが攻勢を仕掛けていた。傭兵と軽騎兵が中間線を飛び出している。


 彼女と目が合った。睫毛まつげが長い。上気した頬に右手の指先が添えられ、薄紅の付いた唇がわずかに動く。


「……イサミ先輩ってああいうところあるよね」


 叔父さんの言動に呆れてしまったみたいだ。一応フォローしておかないと叔父さんが将来独居老人になってしまう。末期を見守りたくない。

 僕は胸の内から言葉を捻りだす。


「でも、良いところもありますよ」

「それは知ってる」


 山名さんは白い歯を見せた後、槍騎兵の突撃で叔父さんの弓兵を墓地送りにした。

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