第3話 出羽結夢――ひとりぼっちの広い部屋

 朝、いつものようにリビングの床を裸足で踏みつけた出羽結夢は、部屋の広さと静けさにびっくりした。たった一週間だけ一緒に過ごした男の子の気配が、そこここに残っているせい。

 気を張っていないと、「朋夜くん」なんてつい呼んでしまいそうになるほど。

 心臓が痛くて、体が重くて。


 つまり、怠い。


 いつもなら自室に戻っている時間に、朋夜と二人で座っていたリビングにあるソファの上で膝を抱えながら、チクタクと律儀に仕事をしている壁掛け時計の音を聞き続けた。どれだけ時間が流れても、彼が出羽家のチャイムを鳴らすことはもうなかった。


 ぼーっと過ごしていたら、一日が過ぎ、二日が過ぎていって。

 貴重な十代の時間が、無駄に浪費されていくばかり。


「うー、駄目駄目。こんなんじゃ駄目だよね。せっかく勝ち取った一人暮らしなのに」


 気分転換に、おしゃれをして外に出ることにする。普段引きこもっているとはいえ、外に出ること自体は嫌いじゃないし。


 ただ、外の世界は『誰か』と一緒にいる人たちで溢れかえっているから、ひとりぼっちの結夢がいつからか一方的に苦手意識を持つようになってしまっただけ。

 町を歩いていると、朋夜と動画配信サイトで見た映画の続きが公開されていた。せっかくだから見ることにした。あれほど面白くて何時間も二人で考察を語り合った映画だったのに、一人だとちっとも面白くなかった。

 涙を浮かべていた、あの優しそうな横顔が見たかった。


 ずっとずっと、彼のことだけを考えている。

 会えない時間が、その存在を結夢の中で大きくしていく。


 だから映画館で偶然、姿を見かけた時、ついに妄想が現実を侵食してしまったんだと思った。目を擦っても彼は消えなくて、でも、それが妄想ではないと気付いたのには別の理由があった。

 彼は、潜木朋夜は、結夢の知らない女の子といた。とても可愛い子だった。仲良さそうに腕なんて組んでいて。

 楽しそうに笑っているし。


 クラスメイトだろうか。

 あるいは、恋人?


 もし、あれが妄想なら彼の隣にいるのは自分のはずだ。

 そうじゃないから、現実なんだ。


 ズキン、とこれまでよりも鈍く結夢の心臓が痛んだ。

 痛くて痛くて、泣きたくなった。


   φ


「どうしたの? 潜木くん」


 不意に視線を感じて足を止めたものの、違和感の元を見つけることは終ぞ叶わなかった。気のせいだったんかな。


「いや、なんでもないよ」


 俺は首を横に振って答えた。


「そう? にしても、ありがとうね。付き合ってもらって助かっちゃった」

「別に構わないって」

「じゃあさ。もう一回、行ってもいい?」

「もちろん」


 俺が頷くと、傍らにいる同い年の女の子が嬉しそうに笑った。


   φ


 どうしたらまた朋夜と出会えるのか、結夢は考えて、考えて考えて考えて、そしてとても簡単なことに気付いた。


 もう一度、彼に仕事を依頼すればいい。

 友達として遊んでほしいって頼めばいいのだ。

 仕事であるなら絶対に断らないだろうし。


 そして、今日一人で見た映画を彼ともう一度見よう。昼間の女の子みたいに腕を組んで、町を歩いて、オープンテラスのあるカフェでお茶をしながら映画の感想を話す。帰りに、買い物に付き合ってもらったりもいいな。そうしよう。


 ふへへへ、完っ璧。


 しかし、シミの一つもないはずの青写真みらいよそうずは直後に挫折した。

 朋夜の事務所に電話をかけたところ『彼の予定』はひと月先まで埋まっているらしかった。


 その頃には、映画の上映は終わってしまっていて。

 夏休みだって終わっていて。


 仕方なく断りを入れる結夢の視線の先には、本当に最後の手段だけが残されていた。


 おばをあしらう為に買うだけ買って、一度も袖を通していなかった高校の制服。

 もし朋夜とまた会いたいなら、そこほど手っ取り早く、かつ確実に叶う場所はない。


   φ


 カレンダーが捲れて、暦が九月に入っても夏の暑さは依然として太陽の光を依り代に空から降ってきていた。

 蝉の鳴き声も健在で、扇風機はイヤイヤ期の赤子のように首を横に振っている。


 夏休み明けの新学期初日。

 おろしたての制服を身に纏う鏡に映る自分を見ると、結夢の胸はモヤッとした。変な感じ。笑顔だってぎこちないし。こんな顔をしていたら、朋夜は結夢を馬鹿にするだろう。

 でも、ちっとも嫌じゃない。

 だって、それは親しさの証明だから。


 朋夜と過ごした一週間で、結夢は変わったのかもしれない。

 いや、思い出したと言った方が正しいのかな。


 別れの時の痛み以上に、誰かと一緒にいることの楽しさを思い出していた。

 今も別れは怖いけど、傷ついてでも欲しいものがあるなら手を伸ばさないとね。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 学校に行くと決めてから、何百回と念じた呪文をまた口にして、結夢はクラスの扉に手をかける。

 誰もわたしを知らなくても大丈夫。無視されても平気。

 だって、ここには潜木さんがいるし。

 困っていても、彼がきっと助けてくれるから。


 けれど、教室の雰囲気は結夢が想定していたものとは全然違っていて。


「あなた、もしかして出羽さん?」

「え、えええ、は、はいぃぃぃ」


 初っ端で、テンパッた。


「す、すみません。すみませんすみません」

「どうして謝るの? そんな緊張しなくていいよ」


 クラスメイト達は、温かく結夢を迎え入れてくれた。結夢に興味津々でぐいぐい迫ってくる男子生徒は、キリッとした目が印象的な女の子がガードしてくれて。


「出羽さんが可愛いからって、がっつくな男子」

「いいだろ、これくらい。なー、結夢ちゃんって呼んでもいい?」

「あ、えっと、あうっ」

「怯えてるでしょ。やめなさいよ」


 すみませんとありがとうございますを交互に口にするだけで、結夢は精いっぱい。みんな優しいのにどうしてか、朋夜といる時みたいに自然に話せない。

 困ってしまって、キョロキョロと朋夜を探していると尋ねられた。


「ん? どうしたの? 誰か探してる?」

「あの、潜木さんはまだ来てないですか?」

「潜木さんって、ええっと誰?」

「潜木さんは潜木さんです。潜木朋夜さん。このクラスの生徒のはずなんですけど」

「それって、あれじゃね? バイトくん」

「ああ、バイトくんか。出羽さん、彼と知り合いなんだ。すごいね」


 彼らが何を言ってるのか、ちっとも分からなかった。


「あいつ、いっつもバイトバイトで、出席日数ギリギリなんだよな。学校に来ても放課後になるとすぐにバイトに行っちゃうしさ。仲のいいやつ、いないんじゃね?」


 その時だった。

 大きな足音と共に、盛大に扉が開いた。息を切らし、玉になった汗を額いっぱいに張り付けていた男の子が、チャイムと同時に教室に滑り込んでくる。


 彼の名前を、結夢は知っていた。


「潜木さん」

「なんで、出羽が学校ここに?」


 朋夜はクラスメイトたちに囲まれている結夢を見て、一瞬で顔をこわばらせて。

 彼が呟く疑問に、答える声はない。

 いつものことだ。

 物理的に見える距離より、朋夜とクラスメイトたちはずっと遠く離れている。遠巻きにひそひそと何やら話しているクラスメイト達の声だけが、ノイズに変わり風に乗って朋夜の耳に届く。


 いつものことだ、いつものことだ。

 もうすっかり慣れてしまった朋夜の学校生活にちじょう


 結夢も朋夜も言葉を交わさず、けれど共通の認識だけをもってお互いを見ていた。

 朋夜もまた、結夢と同じようにこの教室に友達なんて一人もいないってこと。

 それを、結夢が知ってしまったということ。

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