第2話 潜木朋夜――二人の日々

 一応、断っておく。

 決して結夢の熱に押し負けたとかではない。ないんだけど、後日、俺は出羽家のリビングで、結夢と肩を並べてテレビゲームに興じていた。

 いや、この状況を『肩を並べて』なんて表現するのはちょっと違うかもしれないけれど。


「はい、わたしのまたまたまたまた勝ちです。朋夜くん、本当に弱っちいですね」


 目の前にある結夢の頭が動くと、甘い香りがぶわっと花開くように広がっていく。


「ぐぬっ。あまり調子に乗らない方がいいんじゃないですかね。次は俺が勝たせてもらいますから。その時、泣きべそかいても遅いですよ。この前だって――」

「敗者が何を言ったところで虚しいだけでーす。さーて、次の試合の前に罰ゲーム、罰ゲーム。これまでも何回かお願いしましたけど、そのきっしょく悪い話し方を今すぐやめてください」

「けど」

「けど、じゃないのです。友達相手なら、もっとフランクに話すべきでしょう」

「分かった。分かったよ。でもさ、結夢だって似たようなものじゃないか」

「わたしはこれがデフォルトなので」


 ふふんと上機嫌に鼻歌なんか口にしながら、結夢がふいっと視線を俺から画面の方へ切り替える。俺も同じようにするものの、視界の下半分が結夢の頭で埋められていて。

 今、俺は結夢の椅子になっているのだった。

 もっと具体的に説明すると、足の間のスペースに結夢の体がちょこんと収まっている。伸ばした二本の腕の先には、彼女の腹の前で結ぶように握られたコントローラー。


 結夢は顔がいい。

 加えて、体つきは同年代の平均より数段上だろう。出るとこ、めっちゃ出てるしさ。そんな奴が目の前に座って、『よっ』とか『ほっ』とか叫びながら体を動かす姿をイメージしてみてほしい。『ぽよん』とか『ぷよん』とか、そんな擬音が聞こえてきそうじゃね?

 抱き心地も、ぬいぐるみ顔負けだ。


 元々、ゲームなんて大してやったことのなかった俺がそんなハンデのある状態でまともにプレイできるわけもなく「いえーい、必殺コマンド入力成功」そんなことを考えていると、「これで、えーっと、またまたまたまたまたわたしの勝ちですよ」画面の中で俺が操作していた海賊少女が結夢の操るマッチョにKOされて「ぷくくく。ざーこ」いた。


「おい、誰が雑魚だ」


 両手が塞がっているので、顎でつむじにダイレクトアタック。

 あいたっ、と涙目になった結夢が頭をすりすり撫でている。


「もー、何するんですかぁ」

「イラッとしたから」

「ふへへへ」

「なんで笑ってるんだよ。打ち所が悪かったか?」

「なんかこれ、すごーく友達っぽいやり取りだなーって」


 熱で溶けたような、とろんと甘い声。


「一応、今は友達だし」

「えへへへ。そうですよね。わたしのお友達。えへ、えへへへ。ふへへへへへへ」


 若干、ヤバい顔をしていた。


「うわっ、気持ち悪い」


 途端、「ふへへへ」と続いていたはずの笑顔は「うえぇぇぇん。ひどいぃぃぃ」ひと息で泣き顔へ。ほんと、騒がしい奴だ。


「いや、悪かった。こんくらいで泣くなって」

「ぐす。案外、優しいんですね」

「面倒だから流そうって思っただけなんだが、結夢がそう受け取るなら反論はしない」

「ふわっ。全然っ、優しくないっ‼ ちょっとくらい言葉をオブラートに包むことを覚えてくださいよっ‼ わたしのっ、メンタルはっ、豆腐より柔いんですからっ‼」

「それを自分で言っちゃうのかよ」


 そのまま結夢は不満そうな声を上げ続けていたけれど、少ししたら満足したのか、俺の腕の中で態勢をイジイジズリズリとずらし、座る位置の調整を始めていた。


「もっとキツく抱きしめてくれていいですよ。わたし、そっちの方が好きみたいです」

「てめっ。こっちがどんだけ気を遣ってやってると思って」

「あ、そーゆーの、いらないんで。というか、敗者に発言権があるとでも?」

「しかしなぁ、これはもう『友達』の範疇を超えてると思うんだが」

「わたしは長いこと友達がいなかったので、そーゆー距離感とか分からないです♪」

「嘘つけ」

「まぁまぁ、いいじゃないですか。早く、ぎゅーってしてくださいって。それとも、これくらいでどうにかなっちゃうほど、朋夜ともやくんのは低いんですか? まぁ、わたしの魅力にメロメロになったって認めるなら、これくらいでやめてあげてもいいですけど?」


 先日のことだ。どうにも俺から『女の子扱い』をされていないと急に怒り出した結夢からのスキンシップが激しくなった。

 とはいえ、最初は可愛いものだったんだ。

 ろくに男慣れしていなかった結夢にできるのは、せいぜい手を繋いだりとかそのくらいで。


 立場上、俺は大人しく従ったさ。


 問題は、出羽結夢という女が調子に乗りやすかったってことである。

 要求は段々と過激になり、それはもはや『友達』の範疇を超えているのでは、と疑うものにまであっという間に到達。


 さすがにマズいと断ったものの、むくれる結夢。

 そこで仕方なく『ゲームで負けた方が相手の命令を聞く』という条件を呑ませたのだが、蓋を開ければ全戦全敗となっていた。


「ほら、早く早く」


 急かされるままに腕に力を入れていく。ぎゅっと体が強張って、俺の胸が結夢の背中に一層密着していって。

 同じ人間だというのに、どうしてこんなに違うんだろうな。

 綺麗な髪、陶器のような首筋、日の光を知らないみたいな白い肌、そういうものが目と鼻の先にある。


「お、おう。これは、なんというかいいですね。すっごくいい。ふへへへ」


 結夢の白かった首筋が、熱を発してほんのり赤に染まっていた。


「結夢が恥ずかしくてしょうがないって言うなら、これくらいでやめてもいいけど?」

「そんなこと言ってないじゃないですか。わ、わたしはまだ余裕です」

「お前さぁ」


 思わずため息を吐くと、びくっと腕の中で小さな体が痙攣した。


「ひゃう。いきなり首筋に息をかけないでください。びっくりしちゃったでしょう」

「いや、照れてんじゃん」

「違いますよ。これは、あれです。なんか、そう。あれなんです」

「語彙力なさ過ぎんだろ」


 と、一方的にやられているのが悔しかったのか、結夢は何かを思いついたかのように唇をにんまりとさせ、俺の胸に頬をすりすりと擦りつけてきた。

 驚きなのかなんなのか、鼓動が強く速くなっていく。


「……何してんだよ」

「あっれー? あれれ? めっちゃドキドキしてますよ。も・し・か・し・て。照れてんじゃないですか? ようやくわたしの魅力に気付きましたか? メロメロですか?」

「なわけあるか。ただ、やっぱりこれはやり過ぎだって思う」

「そんなことないですよ。やり過ぎっていうのは」


 そして、結夢は一度言葉を切って。

 首の腱を、すんと伸ばして。


 目と鼻の先にあった端正な顔が、もっと近付いてくる。甘い匂いが強くなり、頭がクラクラし出し、心臓が一層強く鳴って、口を開けるだけで吐息が唇にかかってしまいそう。

 結夢の瞳は、熱に浮かされたみたいに潤んでいる。


「ここから、更に一歩を踏み込んだことを言うんです。実践、してみます?」


 匂いも温度も、全てが甘い。甘ったるい。

 結夢の放つ熱に侵されて、思考とか常識とか、そういう本来ストップをかけてくれるはずのあれこれがトロトロに溶かされていく。


「わたしは、構わないですよ?」

「あ――」


 乾いた口で、俺は一体、何を紡ごうというのか。

 と、そこで救いの主は現れた。セットしていたスマホのタイマーが鳴って、震えて、俺と結夢の『友情』の終わりを告げていた。


「……どうやら終わりみたいだぞ。

「むぅ。今日は少しくらいドキッとしたんじゃないですか?」

「そんなことないって。それより、金」

「はいはい。急に現実に戻っちゃうんだもんなぁ」


 なんて言いつつもあっさり腕の中から立ち上がった結夢は、財布から既定の金額を取り出して俺に手渡してくれた。

 数枚の千円札を秒で数え終え、礼儀として俺は頭を下げる。


「確かに。ちょうどいただきました。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。明日もよろしくお願いしますね。


 ご覧の通り、俺と結夢の間にある絆は『友情』という契約ではない。もっと事務的に、もっと現実的に、『お金』という契約で作られたはりぼてだ。

 故に、俺と出羽結夢との関係ゆうじょうを一言で表すとこうなる。


『ビジネス』


 結夢にとって俺は、金で雇っているだけの一週間限定偽物の友達なのだった。


   φ


 そもそも、どうしてこんなことになっているのか。

 話はもう一度、数日前プロローグに遡る。


潜木くぐるきくん。この案件、君に任せたから」


 バイト先である事務所に着いてすぐ、所長がそんな言葉を発した。


「はぁ。別にいいっすけど、俺は何をするんですか?」

「まぁ、行けば分かるから」

「そんな適当な」

「いつものことでしょ? 依頼人は君のクラスメイトじゃないかな、これ」


 高校に入学して、ようやくバイトが解禁された。

 はっきり言って貧乏である我が家の家計を支える為に俺が選んだのは、拘束時間が長いものの、その分、手当もいい『便利屋』の事務所だった。


 便利屋、つまり何でも屋であるその仕事の内容は、害虫駆除からパソコンの初期設定、墓掃除に保育園の送り迎え、爺さん婆さんの話し相手まで多岐にわたる。

 目の前で椅子に座ってくるくる回っている年齢不詳の美しい女性は、俺のボスだ。


「そんな嫌そうな顔しなさんな。バイト代は弾むからさ。よろしくぅ」


 所長は、なぜか唇の端を吊り上げるようにして笑っていたっけ。幼い子供が悪戯を仕掛ける時に浮かべる笑顔に、とてもよく似ていたことが印象的だった。


 果たして指定された家の玄関で俺を出迎えたのは、出羽結夢という女の子。


「え? もしかしてあなたが――」


 そのまま彼女が確認の為に俺の職場の名前を出したので、頷いておく。


「そうです。ご依頼されていた件で来ました」

「おっふ。まさかまさか、男の子が来るなんて。いや、でもこれはこれであり? 顔も結構タイプですし。えへ」


 と俺を値踏みするようにちらちら視線を飛ばし、ぶつくさ一人で盛り上がった後、「わたしと友達になってくれますか?」なんていう契約の言葉を彼女は選んだ。

 当然、仕事に来ているわけなのだから断ったさ。


「嫌だけど」

「嫌なんですかぁ⁉ な、ななな、なんでですか。どーしてですか」

「なんでって言われてもな」


 ポリポリと頬を掻く。

 しかし、結夢はこう続けたのだった。


「だ、駄目です。あなたは、わたしと友達になるんです」

「……はぁ?」

「それが、わたしが依頼したお仕事の中身だから」


 所長がしてくれなかった業務内容せつめいを、通されたリビングで初めて聞くことになった俺である。

 依頼人――出羽結夢は俺と同い年の女子高生。学校どころかクラスまで奇跡的に一緒だったのに、今日まで俺たちが互いの顔すら知らないでいたのは、結夢が入学してから一度も登校していないせい。二年ほど前に交通事故で両親を亡くして以来、現在は遺産を元手に一人暮らしの不登校引きこもり生活を実施中なんだとか。


「違いますよ。引きこもりの不登校じゃなくて、自宅警備員です。訂正してください」

「勝手に人の頭の中を読まないでくれるか? つか、胸張って言うことかな」

「うう。お気に召さないのであれば、一級在宅士でも代表戸締役社長でもいいです。でも、でもぉ。引きこもりの不登校はやめてっ」

「いや、どれも変わんないから。譲歩したみたいに言うなって」

「変わるんです。わたしのテンションがめーっちゃ変わるんですよ。潜木さん」


 閑話休題。


 結夢がうだうだとうるさいので、説明まとめ役をバトンタッチすることに。


 出羽結夢は、潜木朋夜さんと同い年である十六歳の美少女女子高生。キラッ。彼女は進学した高校に通う代わりに、日々、自宅警備員の業務に誇りをもって励んでいるのだった。しかーし、そんな結夢のもとに、危機が訪れていた。後見人であるおばが仕事せいかつぶりを視察チェックしにくるというのだ。もし経営状況せいかつが基準値を超えていなければ、取引ひとりぐらしは打ち切り。代表戸締役社長も解任されてしまう。だから、彼女は戦うことにした。己の自由を守る為の聖戦である。


 というわけなのです、ちゃんちゃん、と結夢は説明にとても雑なピリオドを打った。

 なんだよ、『ちゃんちゃん』って。


「いや、可愛いかなーって思って」

「こいつ、また勝手に思考を読みやがった。はぁ。まぁ、いい。で、なんとなく状況は理解したけどな。俺が出羽の友達になるってのと、どう繋がるんだ?」

「いや、だから。わたしってもう何年も学校に行ってないんですよ」


 途端、さっきまでの態度とは裏腹に、居心地悪そうに結夢が視線を逸らす。

 そんで、こしょっと力ない小声を漏らした。


「友達とか、いるわけないじゃないですか」


 ついでに、落ち着かない感じで指をくるくる。


「知らんけど、それで?」

「でもですね。あまりにおばさんが『ぼっち、ぼっち』ってうるさいものですから、売り言葉に買い言葉でつい言っちゃったんですよね。わたしには『わたしのことが大大大好きなお友達がいます』って。で、今度様子を見にくるときに紹介するって流れになってしまい……」


 最後に、察してとばかりに上目遣いを一つ。


「誤魔化す為に友達のふりをしてほしい、と」


 分かってくれたー、と唐突に万歳を始める出羽結夢さん十六歳なのだった。


「ですです。駄目もとで、ポストに入ってたチラシで見つけた便利屋さんに『これだー』って電話してみたら、軽い感じで『オッケー』って言われました」

「あの、くそ所長。なんでもかんでも、気軽に引き受けやがって」

「あうっ。駄目、でしたかね?」


 結夢がちらっと再度、見上げてくる。ちらっ、ちらっ。とはいえ、もちろん駄目なわけがなかった。

 これが仕事だというなら、きっちりこなしてみせるさ。


 もちろん、その代わり。


「しっかり報酬はもらうからな」


 我ながらぶっきらぼうに了承の意を示すと、結夢がほっと息を吐く。


「ありがとうございます。では、今日から一週間よろしくお願いします」

「い、一週間?」

「今は夏休みで時間もあるでしょう? おばさんの前でボロが出ないように、一週間かけてお友達になってもらいます。楽しい日々にしましょうね、潜木さん。いえ、仕事の間だけはこう呼ばせてください。朋夜くん、と。友達ですから」


 開け放たれた窓の傍で、チリーンチリーンと風鈴が揺れていた。

 熱い風に乗って、近所の小学生たちが走っていく足音まで聞こえてきた。


 一度しかない高校一年の夏休み。

 このようにして、『不登校になったクラスメイトの友達になる』なんていう俺の奇妙なバイトが始まったのだった。……ちゃんちゃん。


   φ


 さて、日用品の買い物すら基本的に通販で済ませるという真正の引きこもりである結夢との生活は、そのほとんどがインドアだった。

 一緒に飯を食べたり、ゲームをしたり、配信サイトでアニメや映画を見たり。


 たとえば、バイト生活二日目。


「結夢。牛乳も飲みなさい」

「ぷいっ」

「自分で『ぷいっ』とかって言うな。頬を膨らますな。顔を背けるな。『むすー』も言うな。てか、なんで飲まないのに牛乳なんて買ったんだよ」


 同級生なんだけど妙に子供っぽいところがあるんだよな、こいつ。

 たまに、友達っていうより父親にでもなったような気分になる。


「久しぶりに、フレンチトーストを作りたくなったんですよ」

「で、余らせたと。消費期限近いぞ」


 まだ八割以上残っている牛乳パックは、ずしりと重い。

 どうすんだよ、これ、と視線を送る。


「そうだ。朋夜くんが飲んでくださいよ」

「……構わないけどさ。牛乳嫌いなんて珍しいよな。ホットミルクとか美味いじゃん」

「美味しくないです。それにわたし、牛乳とか飲まなくてもちゃんと育ってるんで」


 言って、結夢が発育のよさをアピールしてきた。

 柔らかそうな胸を手のひらで寄せて、「ほらほら」と見せつけてくる。しかし、俺は紳士故、即視線を逸らした。偉い。

 なので、一瞬のうちに脳裏に刻み込まれた映像について、感想など深く聞かないでほしい。


 体については、全然子供っぽくないんだよなぁ。


「こほん。こ、今度、俺が特製ホットミルクをご馳走してやる。牛乳を見る目が変わるぞ」

「ノーサンキューです」


 べぇっ、と結夢は赤い舌を出していた。

 続いて、バイト生活五日目。


「この映画、めっちゃよくなかったですか?」

「ぐすっ。まあまあだな」

「とか言って、朋夜くんってば号泣してたじゃないですか。わたし、知ってんですよ」

「泣いてなんかいないから」


 そう言って、俺は目元をぐいっと拭った。ちょっと濡れているのは、汗だ。ほら、夏だしさ。暑いんだよ。

 この部屋の冷房がガンガン効いてるのはこの際、見ないふりをする。


「なーんで、男の人って涙を隠すんですかね」

「当り前だろ、そんなの。男は傷を誇って、涙を隠す生き物なんだ。女は逆だよな。傷を隠して、涙を武器にする」

「でも、今日の朋夜くんの涙も中々の武器でしたよ。ちょっとキュンってなっちゃったな。一緒に映画を見れてよかったです。あなたがやっぱり優しい人だって分かったから」


 そんな風に過ごしていたら、俺の隣に結夢という存在が自然に馴染んでいった。

 すると、彼女の事情なんてものもいくらか知るようになる。

 母の妹であるおばから、これまで何度も一緒に住もうと誘われているにも関わらず、断り続けていることとか。


「おばさんって、嫌な人なのか?」

「いえ、厳しいのは厳しいですけどね。基本的に優しい人ですよ」

「じゃあ、一緒に住めばいい」

「いやいや、一人暮らしってめーっちゃ気楽なんですよ。この天国を知ってしまった今、誰かと一緒に住もうなんてもう思わないですね」


 にへへへと笑う結夢は、どこか嘘くさい。

 言葉か、表情か。

 本音ではないだろう。

 けれど、雇われて友達をやっているに過ぎない俺が、彼女の事情に深くまで付き合う義理もなくて。


 結局、「ふーん」と流すことにした。


 あとは、リビングが妙に綺麗な理由だとか。

 もちろん、頻繁に掃除をしているっていうのもあるのだろうが、そういうのじゃなくて生活の気配がやたらと希薄なのが気になった。

 モデルルームでも見せられているって感じ。


「結夢って、普段はどこで生活してるんだよ」

「どこ、とは?」

「リビングを使ってない感じがするから」

「自分の部屋に決まってるじゃないですか。一人でこんなひろーい空間は必要ないですし。あー、もしかして同級生の女の子の部屋に興味津々な感じですか? 朋夜くんのえっちぃ」


 言われて、すぐに顔をしかめる。

 意識してのことではない。感情が表情に勝手に表れたんだ。


「あ、その顔やめてください。本当に軽蔑してるじゃないですか。やめて、やめろぉぉぉ」

「いや、だってウザいし」

「その言い方もヤダぁ~‼」


 一週間が、あっという間に過ぎていく。


   φ


 最後の日は、二人で朝から家の掃除をすることにした。

 とはいえ、根が綺麗好きであるらしい結夢は日頃からこまめに掃除をしているようで、そんなに大変ってわけでもない。


「朋夜くん、手際がすごくよくないですか?」

「あー、仕事で頻繁にやらされるから。所長に仕込まれてんだ」

「くっそー。ここでテキパキ掃除して朋夜くんの尊敬を勝ち取ろうって作戦が」

「そんなことしなくても、結夢がちゃんと毎日掃除してるのは知ってる」


 ふえ? と、世界中で結夢の時間だけが止まったかのように彼女は固まって。


「そういうとこ、嫌いじゃない」

「な、ななな、なんですか急に。そんな褒められても嬉しく。いや、嬉しいな? うん。もっと褒めてくれていいですよ。さあさあ」

「そーゆーとこはほんと駄目だなって思う」

「言い方ぁ」

「残念美少女なんだよなぁ」


 途端に、今度は瞳が輝いた。なんでさ。


「今、美少女って言いました? 言いましたよね。わたしのことですよね? ね? ね?」

「残念って部分だけ聞き逃すとは、都合のいい耳してんなぁ」

「そりゃ、そうですよ。わたしの耳ですもん」

「もういい。テキパキ働け」

「はーい」


 俺がベランダ側から、結夢が家の中から、透明な窓ガラスを挟むようにして拭いていく。すすす。右へクリーナーを動かしたところ、なぞるように結夢も同じ方向へ。すすす。左に動かせば、ぴったりついてくる。すすす。やたらと可愛い影法師である。すすす。


「おい、真似するなよ」

「えー? なんのことですか?」

「分かってるくせに」

「全然、分かんないです。わたしたちの気が合うだけのことでしょう?」

「そうかい」

「この一週間で、すっごく仲良くなれましたよね」


 鼻歌交じりに掃除を続けていく結夢。

 それで、俺がどうしたかって?

 否定せず黙って掃除を続けたさ、もちろん。


   φ


 ゲームで散々負けた時に撮られた俺とのツーショット写真をこれ見よがしにリビングに飾った結夢が「これでよし」と満足そうに頷いたところで、この日のバイトは終わった。


 幸せいっぱいって感じの家族写真の横に俺との写真を置かれるのは、少しくすぐったい。


「細かいとこまでやったから、思ったより時間がかかったな」


 もうすっかり夜になっていた。


「じゃあ、明日は朝一からお願いしますね」


 バイト代を俺に渡しながら、結夢が言う。


「了解した。おばさんの前でも上手くやるよ」

「来てくれたのが、潜木さんでよかったです」

「そのセリフはまだ早いんじゃないのか?」

「ですね。あっ」


 その時だった。強い光が窓から部屋に射し込まれたかと思うと、追いかけるようにして激しい音が轟いた。

 雷だ。

 遠く近く、連鎖するように響いている。

 そういえば、今晩って大雨の予報になってたか。


「ひやわあああぁぁぁ」


 なんとも形容しがたい叫び声を上げてうずくまったのは、当然、結夢。


「何してんの? お前」

「か、かかか、雷苦手なんですよぅ」

「ふーん。そうだったのか。じゃあな。また明日」


 そのまま身を翻したところで、「ぐえっ」とカエルのような悲鳴を上げて急ブレーキ。

 結夢が、ちょこんと俺のシャツを引っ張っているせい。


「嘘でしょ。こんな状態の女の子を一人残して帰るなんて正気ですか?」

「いや、でもバイトはもう終わったし」

「うううっ。そうでした。じゃあ、追加料金をお支払いしますからもう少しだけ一緒に」

「冗談だ。少しだけなら金なんてなくても付き合うって。アフターサービスって奴だな。それにまだ、約束も果たしてないし」

「ふえ?」

「こういう時、いつもはどうしてたんだ?」

「部屋の布団にくるまって、じっと耐えてました」

「じゃあ、しばらくそれで我慢してなさい。すぐに俺も行くから」


 実は、結夢の部屋に入るのは初めてだった。

 パソコンとベッドとテーブルと本棚と、そういうのだけが置かれた普通の空間なのに、女の子の部屋ってだけで少し緊張しちまう。


「雷、イヤぁぁぁ」


 毛布お化けが、ベッドの上でぶるぶる震えていた。

 さすがにベッドに上がる度胸はなくて、その縁に俺は立つ。


「出羽、ホットミルクを入れてきたぞ」

「牛乳もイヤだぁぁぁ」


 びゃーっと一層激しく泣き出す出羽結夢ちゃん、十六歳。

 牛乳が嫌で泣いたのか、雷が怖くて泣いているのか。


「いいから、飲め。前に約束した通り、滅茶苦茶美味しい奴を用意したからさ」

「美味しくないっ」

「まだ飲んですらいないじゃないか」


 ぐぬぬぬと警戒しつつも毛布の下から伸ばしてきた指先に、マグカップを渡してやる。結夢は、すんすんと訝しげに鼻を鳴らしていた。


「毒とか入れてないですよね」

「そんな食材がもったいないことするか」

「実に潜木さんらしい言い分。で、では、飲みます」


 そうして結夢は、ダラダラと文句を吐き出していた口におそるおそるカップをくっつけていった。否、ちょっとだけ舐めたって感じ。

 途端、「あれ」と大きな目が見開かれる。


「味がすごく柔らかい。なんで?」

「ミルクパンで温めてあるからな。感謝しろよ。この為に、わざわざ持ってきたんだから。電子レンジでチンするのとは違うだろ。熱がちゃんと全体に行き渡っているっていうか」

「あと、なんだか甘いですね」

「そう。そうなんだよ。よく気付いたな。蜂蜜を入れてあるんだ。高級なトチの蜂蜜が、未開封のままさっきの掃除中に出てきたから。使わないともったいないし」

「ああ、この匂いはトチの花のものなんですか。美味しいです」

「なら、よかった」

「これ、すごくすごく美味しい」


 結夢の柔らかそうな喉を、ホットミルクが流れ落ちていく。コクン、コクン。何度も何度も喉が鳴る。

 同時に、強張っていた表情もようやく少しだけほぐれていって。


「ねぇ、潜木さん。そんなところにぼーっと立ってないでこっちに来てくださいよ。二人でくっついてホットミルクを飲みましょう」


 来い来い、と結夢が手を振っている。


「それはさすがにさ。一応、男と女だし」

「もー。そーゆーのはいいですから。この一週間で、あなたがどういう人なのかは分かってます。絶対にエッチなことはしないです。これで、スタイルには自信があったのになぁ」


 あのな、と言いかけた言葉をぐっと喉の奥に押し込んだ。

 結夢には言ってないけれど、言うつもりだってないけど、こちとら滅茶苦茶我慢してきたんだぞ。俺だって十六の男で、すぐ傍に可愛い顔したスタイル抜群の女の子がいたら、グラつくのは当然で。


 けど、今の結夢は震えていて。

 まるで小さな迷子みたいで。


 仕方なく結夢の隣に腰かけると、ベッドが二人分の重みで沈んだ。途端にふわっと温かな風と感触が肩にかかって、結夢のかぶっていた毛布が俺にまでかけられたことに気付く。

 俺と結夢は、相合傘でもするみたいに肩を寄せ合い、一つの毛布にくるまっていた。

 触れた肩が熱かった。


「うぅ。この静かな時間が嫌ですね。何か、気の紛れるお話でもしましょうよ」

「何かってなんだよ」

「なんだっていいんですけど」

「しょうがないな」


 それで結夢のリクエストに応えるように、俺たちは明日には忘れているような、まるで夢みたいにどうでもよくて意味なんてなくて、けど、少しだけ楽しい話を繰り返した。

 何十分も、何時間だって。


「えーと、じゃあ、次。潜木さんが食べられないものは?」

「普通、好きな食べ物とかじゃないのか?」

「だって潜木さんてば、大抵のものは美味しいって食べるじゃないですか」

「ま、そうな。食えないものはない。出羽は牛乳が嫌いだもんな」

「あ、それはもう過去の話です」


 ふっふーん、と彼女は得意げに胸を張って。


「潜木さん特製ホットミルクは大好きになりました。毎朝、飲みたいくらいです」

「味噌汁じゃねーんだから」

「味噌汁なら、毎朝、作ってくれるんですか?」


 途端、結夢の目がキラキラと期待で輝く。


「そんなことは言ってない」

「ちぇー」


 それにしても、嵐ってのは随分と足が遅いらしい。たくさん話したはずなのに、未だに風はビュービュー。雷はピシャーン。窓はガタガタ。

 おかげで手元のマグカップはもう空っぽで、同時に話題の方も尽きてしまっていて。


 再びの沈黙。

 その時間を破るように、結夢が夜のしじまにぽつりと想いを投げ込んだ。


「もしですよ? もし、わたしが学校にちゃんと通えていたら」


 少しだけ驚いた。

 結夢とはなんだかんだ一週間過ごしてきたけれど、学校についてちゃんと話題に挙げられたのは初めてのことだったから。


「……いえ、やっぱりなんでもないです。あの、えっと、高校って楽しいですか?」

「楽しくはないな、うん。あ、学食は美味いぞ。安くて美味いって最強だと思う。あとはそうだな。担任は、いい人だよ。奨学金のこととか、世話になってるんだ」


 俺の言葉に、結夢は何度も「うんうん」と頷きながら。


「なんだかんだ、しっかり楽しんでるじゃないですか。なんか、こーしてると目に浮かびますね。みんなに囲まれてる潜木さんの姿。潜木さんって一見、ぶっきらぼうですけど、実はとっても優しくて気が利く人なので、わたしとは違ってたくさん友達がいるんだろうなぁ」


 俺は、それに答えなかった。

 なんて言えばいいのか、分からなかったせい。


「学校が気になるなら、出羽も登校してみればいいじゃないか」


 仕方なく、さっき結夢が丸めて捨てたはずの話題に逃げてしまう。


「ふんだ。リア充にこの辛さは分からんとですよ。今更、グループの出来あがってる教室に行っても、一人ぽつんと浮いちゃうだけです」

「俺がいるだろ?」

「潜木さんは今だけの友達でしょ?」

「そりゃそうだけど。ばっさり切り捨てるんだな」


 告白したわけでもないのに、振られた気分。

 地味にショックを受けているのはなんでかな。

 結夢は間違ったことは言ってないのにさ。


「ああ、すみません。別に嫌味とかで言ったつもりはないんです」


 少し考えるようにして「ねぇ、潜木さん」と結夢。


「これが最後になるから、聞いてくれますか? わたしが、学校に行かない理由」

「やっぱり、なにか理由があるのか?」

「怖いんですよ」


 意味が分からなくて首を傾げると、結夢は言葉を続けた。


「事故で前触れもなくお父さんとお母さんがいなくなって、世界が壊れてしまえって願うくらい痛くて、寂しくて、悲しかったんです。だから、誰かと親しくなることが怖いんです。あんな痛みをもう一度味わうくらいなら、もう誰とも『名前のある関係』を築きたくない。おばさんに『高校くらいは出なさい』って怒られて進学しましたけど、元より学校に通うつもりはなかったんです。友達が出来たら、別れるのが辛くなるでしょう?」

「おばさんと住みたくない理由も同じか?」


 いつか、『にへへへ』と嘘っぽく笑っていた結夢の顔を思い出した。


「バレてましたか。一緒にいたら、今よりもっともーっと好きになっちゃいますからね」


 言ってることの、理屈は分かった。想いだって理解する。まだ十六年しか経っていない人生だけど、俺だって辛い別れの一度や二度は経験してきたしさ。

 けど、本当にそれでいいんだろうか? 

 今日まで結夢を傍で見てきた。

 こいつは何をするにも楽しそうにしていた。

 本当は誰かと一緒にいたいんじゃないのか?


 そう思ったのは、ただの勘違い?


「どうして俺はよかったんだ? どうして、嘘の関係でも友達になろうなんて言った?」

「きっかけは前に説明した通りです。おばさんに、この町での一人暮らしを引き続き認めてもらう為。それに、嘘の関係なら、たった一週間だけの短い時間なら、どれだけ仲良くなっても耐えられると思ったからです」


 でも、と結夢が俺の肩に頭を預けてくる。サラサラの髪が揺れて、木々の隙間から零れる日差しのように眩しく柔らかな視線が俺に降り注ぐ。


「今は明日を想うと、ちょっとだけ胸が痛いです。想定していたよりずっと、わたしたちは本当の友達に近付いているのかもしれないですね」

「友達ってなんなんだろうな」


 結夢は少しだけ考えて、


「いろいろ定義はあるんでしょうけど、わたし的にはこれですかね」

「これって、どれだ?」


「Friendship isn't about who you've known the longest.It's about who came,stayed by your side,and never left you when you needed someone the most.」


「な、なんだって?」


 いきなりの英語に戸惑っていると、結夢は「ふっふーん」と得意げに胸を張った。うっざ。


「もう少し英語の勉強をしたらどうです?」

「いや、出羽の発音が悪いんだって」

「そんなことないもん」

「で、どういう意味なんだ?」

「友情っていうのは、知り合ってからの時間の長さが作るものじゃないんです。友達ってね、本当に必要な時に来てくれて、傍にいてくれて、そして去らなかった人のことをいうんですよ」


 誰の名言だよ、と重ねて尋ねてみた。

 どう聞いても、結夢のセリフじゃないしさ。


「敬愛なる白いビーグル犬です。チャーリーブラウンが得た最高の飼いパートナー


 それでピンときた。

 結夢の部屋の本棚には漫画『ピーナッツ』がたくさん並んであったから。『スヌーピー』って言った方が、分かる人は多いかもしれない。


「わたしが震えている時に来てくれて、傍にいてくれて、そしてなんのメリットもないのに去らないでいてくれる潜木さんに感謝します。ありがとうございます」


 いつの間にか、結夢の震えは止まっていた。

 代わりに、可愛らしいあくびを彼女は一つ。

 一日中動き回って疲れていたのか、そのまますやすやと寝息を立て始めた。


 Friendship isn't about who you've known the longest.

 友情に、付き合いの長さなんて関係ないんだ。


 It's about who came,stayed by your side,and never left you when you needed someone the most.

 友達ってさ。本当に必要な時に来てくれて、傍にいてくれて、そして去らなかった人のことをいうんだよ。


 まるで子守唄のように、霞んでいく頭の中でそんなセリフが響き続けている。

 そういうもんか、と腑に落ちるのと同時に、俺もまた結夢を追いかけるように夢の中へ落ちていった。


   φ


 結論から言うと、おばさんの視察とやらは思っていたよりすんなりクリアできた。


 というのも彼女が来た時、俺と結夢がベッドの上で仲良さそうにすやすやと眠っていたからだ。当然、おばさんは勘違いして焦り怒り、俺たちはたくさん叱られたのだけれど、半泣きになった結夢が懸命に『朋夜くんはそんな人じゃない』と叫んだのがよかったんだろう。


 三人で話して、ご飯を食べて、『また来るからね』と言い残した結夢のまだ若いおばさんは、昨晩のうちに去っていた嵐の後を追いかけるように颯爽と帰っていった。


「さっき、おばさんに何を言われてたんですか?」

「大したことじゃない。これからも出羽をよろしくってさ」


 本当は、ちょっとだけ違うけど。

 結夢のおばさんは、ちゃんと結夢が抱えている葛藤を理解していた。その上で、独りにならないでほしいと願っていた。


『あの子、年の割に子供っぽいところがあるでしょう? 元々甘えん坊の気質がある子だったんだけど、人との付き合いを拒絶するようになってから、一層、時間が止まったみたいになっちゃってて。本当は誰よりも他者を求めているはずなのに、傷つくことが怖いのね』

『本人もよく分かってるみたいです』

『そっか。君とはそういう話もちゃんとしてるのね。よかった。今日は結夢がまた誰かと一緒にいる姿を見られて、安心しちゃった。最初は驚いたけどさ。あんな幸せそうな顔を見たら何も言えないじゃんね。潜木くん。あの子のことをこれからもよろしく』


 当然、俺は『はい』と答えたさ。


 おばさんに対しての誠実さではなく、請け負った仕事への誠実さから。結夢の今の生活を守ることが、依頼されていた仕事だったから。

 とにかくこれで、長いようで短かった一週間バイトも終わりだ。


「今日まで本当にありがとうございました。潜木さん」

「またのご依頼をお待ちしておりますね、出羽さん」


 握手の代わりに金銭をもらい、形式的な言葉を交わしてあっけなく別れた。

 蝉がけたたましく鳴いていた。半袖短パンの小学生たちが、何人も俺を追い越していった。俺にしてはとても珍しいことに、帰りにコンビニでアイスを買うなんて贅沢をしてしまった。

 バイト代も入ったし、たまにはいいか。


「あっつ」


 日差しは衰えを見せず、夏休みはもう少しだけ残っている。

 貧乏暇なし。

 明日から、次のバイトだ。

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