Q6.どうしてそんなことをしたんですか?

 空気が重い。日本語にはそんな慣用句がある。大気の質量が変わることなどないのだから、単にそれは気圧が高いとか湿度が高いとかそういう意味なのだとぼんやり思っていた。今までは。


 しかし今、なるほどこういうことか、と周防は実感していた。


 新しい服に着替えた灯里は、無言で周防の前を歩いている。話しかけても最低限の返事しか返ってこない。まるで周防が二人に増えたかのようだった。

 瀬名灯里はとても感情豊かで、怒ったとしてもそれをはっきりと口や表情に出す少女だ。今のように無言無表情でいるというのは、かえってまずいのだろう、と思う程度の機微は周防という男にも存在していた。


 問題は、それがわかったところでどうしようもないということだ。


 原因はわかっている。生きたまま野犬に食われるなどという体験は、周防だって一度しか味わったことがない。この平和な国で暮らしていた彼女が経験するのはさぞショックだっただろう。


 しかしそれを慰めるような気の利いたことを言う機能は周防にはついていなかった。

 結果として、二人で黙々と目的地を目指して歩くことになった。野犬のゾンビに遭遇しないよう気を張り巡らせながら、時折出会うゾンビを倒しつつ、夜が来れば安全そうな場所を見繕って眠る。そんな日々の繰り返しだ。


 幸か不幸か、優先的に考えるべきことは他にあった。灯里を襲った野犬のゾンビだ。思っていた通り、ゾンビは人間以外の動物にも感染するらしい。となれば犬以外にも様々な生物がゾンビ化していると考えていいだろう。むしろそうでなければこの広がり方は説明できない。


 そしておそらくゾンビ犬の反応から、感染した種が異なる場合は繁殖相手ではなく食料と認識するようだ。つまり感染目当てで噛み付いてくるだけの人間のゾンビよりも、最初からこちらを殺す気で来る犬のゾンビの方が遥かに危険ということだ。


 身体能力も中型犬以上であれば人間よりも遥かに高い。対人間であれば一方的に勝利できる灯里も、複数に不意を突かれたとはいえあっという間にやられてしまった。

 都市部では動物の個体数が少ないからか、あれ以来見かけていないこと。流石に虫までには感染しないらしいことは幸いだったが、周防はなんとなく非常に嫌な予感がしていた。


 それは前世で死霊術師をしていた時に幾度も感じたもの。


 人の、悪意だ。


 そして、そういった嫌な予感ほどよく当たる。


「何……あれ」


 目的地が目前へと迫ったその時。灯里が久方ぶりに自発的に声を上げた。

 そこにあったのは見るも無惨に破壊し尽くされた自衛隊駐屯地の入り口。そして、人と獣との無数の死骸だった。


 激しい戦闘があったのだろう。あちこちに弾痕が残り、トラックが横転し、ゾンビと思しき死体が折り重なっている。最初のうちは何とか弔おうとしたのだろう。死体が埋められた後や、綺麗に並べられた死体も散見された。だが、その上に積み重ねられた乱雑な死体の山が、そんな余裕はすぐに消えたことを示している。


「行こう」


 周防は灯里の腕を引き、駐屯地から離れることを促した。こうして壊滅している以上、この先に進む理由はない。


「行くってどこによ」


 しかし灯里はその手を振り払い、周防を睨みつける。


「奥から音が聞こえる。まだ戦ってるのよ。誰かが生きてる」

「だからだ」


 その音は周防にも聞こえていた。何より、死者たちの声が警告を発している。一刻も早くこの場から離れるべきだと。


「助けに行く」

「無茶はやめろ。確かに君は身体強化で常人より強い。けど、銃火器が負けるような相手に勝てるほどじゃない」


 だからこそ、周防はここを頼ってきたのだ。リビングデッドが圧倒的強者であるなら、そもそもそんな必要はなかった。


「好きにして。そんなに自分の身が可愛いなら、逃げてればいいじゃない」

「瀬名……!」


 灯里はどこか捨て鉢な様子でズンズンと進んでいく。


「待て! 今はまずい!」


 だが、よりによってこのタイミングで彼女を危険に晒すわけにはいかなかった。


「何がまずいっていうの」


 前に回り込んで行く手を遮る周防に、しかし灯里は歩を止めない。

 ──仕方がない。


「今君が大きく傷ついたら、その怪我を治すことは出来ない」

「それが何だって……」


 灯里の言葉は、途中で絶句に変わった。周防が己の服をめくり上げたからだ。


「野犬に食われた分の再生に使いすぎた。もうあまりパーツが残っていない」


 そこには、背骨と臓器以外がごっそりと失われた腹があった。

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