Q5.下の名前はなんですか?
「……ねえ、周防くん」
両親を簡単に庭に埋葬し、家に残っていた食料を食べて人心地付いた頃には、外はとっぷりと日が暮れていた。ひとまず今日は灯里の家に一泊していくことにして、二人は客間に布団を並べて横になる。
どこで寝るかについては多少議論の余地があったが、寝ている間にゾンビに襲われる可能性と、流石に両親があんな事になっていた自分のベッドを使う気にもならないという理由で自然と落ち着いた形だ。
「今更なんだけど、周防くんの名前ってなんだっけ」
「どっちのだ?」
本当に今更だと思いつつも、思い出せないものは仕方ない。恥を忍んで灯里が尋ねると、そんな質問が返ってきた。
「どっちのって……下の名前だけど」
「
短く答える名前は、やはりいまいちしっくりと来なかった。まあ彼が他人と話しているところも見た覚えがないし、最初の自己紹介の時くらいしか聞いたことがないとなれば、名字を覚えているだけでも十分頑張った方と言えなくもない。
「どっちのってどういう意味?」
「……僕には前世の記憶があると言っただろ」
言われてようやく、そんな事も言ってたっけ、と灯里は思い出す。にわかには信じがたい話だ。しかしまだ短い付き合いだが、彼がそんな嘘を言う人間では無いということもなんとなく感じられていた。
「前世の名前って?」
「スオウ。スオウ・セインツが前世の名前だ」
「え? 前世の名前が今世の名字になってるってこと?」
そんなことある? と首を傾げる灯里に、周防は頷く。
「名と魂は密接に結びついている。名前に魂が引かれるのか、魂が名を誘引するのかは分からないが、生まれ変わっても名前の音や意味は似通う傾向がある」
「ふうん。まあ日本語と英語で全然関係ないのに名前とネームで音が似てるみたいなものかな?」
「面白い仮説だ」
正人という名前もセイトと読めなくはない。そう思うと妙にしっくり来る気がした。
「じゃあ、正人って呼んでいい?」
「好きにしろ」
「うん。そうする」
散々無遠慮な言葉を投げかけてくる正人に対し、遠慮しているのも馬鹿馬鹿しくなった。名前を呼び捨てにするくらいでちょうどいいだろう、と灯里は思う。そもそも彼女が所属していたのは、同い年のクラスメイトを君付けするような文化圏でもなかった。
「正人も別にわたしの事灯里って呼んでもいいよ」
「断る」
ついでに歩み寄ってみれば断固とした拒否が返ってきて。
やっぱりこいつとはあんまり相容れないかも知れない、と思いながら灯里は瞼を閉じた。
* * *
翌日。自衛隊の駐屯地に向かう前に最低限の食料を確保する必要があるという周防の言い分で、二人は近所のスーパーにやってきていた。その入口は荒れ果て、見る影もない。
「今からあの中を探索する。気をつけろ」
「はいはい」
その入り口を指さして言う周防に、灯里はいい加減に返事をする。寝る前のやり取りは些細な事ではあったが、未だに心に燻るような感覚があった。
多分、懐きかけた猫に引っ掻かれたような気分なのだろう。
そんな事を思いつつも、灯里は無造作にスーパーに足を踏み入れる。さほど大きくもない店舗の中に学校ほどゾンビが群れているはずもなく、仮に対処しきれない量がいた所でこちらの方が足が速いのだから逃げればいいだけの話だ。隠れて不意打ちしてくるほどの知能もゾンビたちにはない。
「瀬名! 待て!」
ズカズカと踏み込んでいく灯里を、いつになく大きな声で周防が制止した。そんな風に呼び止めるくらいだったらさっさと入ってくればいいのに。そんな風に思いながらも、灯里は一応足を止めて振り返る。
──そして、その喉笛に、腕に、足に、飛びかかってきた大きな犬が齧り付いた。
「ぎゅっ……」
奇妙な音が首から漏れて、視界が赤く染まる。灯里はあっという間に地面に引き倒され、かじりつかれた。
「まざ……ど……」
視界の先で周防はゆっくりと後退り、そして逃げ出す。
──見捨てられた。
目の前が真っ暗になるような錯覚を、灯里は覚えた。痛みも苦しみもない。ただ身体が噛み砕かれ、咀嚼される不愉快な感触だけが身体のあちこちを這いずるように感じられる。野犬たちに群がられ、食われながらも灯里は明瞭な意識を保っていた。
だからこそ、わかる。見間違いでも勘違いでもない。周防は食われる灯里を見捨てて逃げた。
なんとなく、そんな事はないんじゃないかと思っていた。灯里がピンチの時には、きっと彼が助けてくれるのだと。初めてであったときのように。しかしそれはとんだ思い違いだった。彼はほとんど迷う素振りすら見せず、灯里を見捨てて逃げ出したのだ。
これからわたし、どうなるんだろう。と、灯里はぼんやり考える。普通ならとっくに死んでいる傷を受けながら、しかし灯里の意識ははっきりしていた。元々死んでいるのだから、これ以上死ぬことはない。けれど全身食われたら? それでもこうして意識を保っていられるのだろうか。
だとしたら。今こうして考えている自分は、一体何なんだろうか。
「……野。瀬名。聞こえるか?」
気づくと、周防が灯里の顔を覗き込んでいた。いつもとまったく変わらない、無表情で。
「わだ……ごほっ、わた、し、どうな……って……」
張り付いたような感覚のある喉を何度か咳き込みつつ、灯里は身体を起こす。起こすことができた。腕も足もちゃんとついているし、赤く染まっていた視界も元に戻っている。早朝だったはずの空には、高く登った太陽が煌々と輝いていた。
「まずは着替えろ」
「え……わっ、ちょっ、見ないで!」
綺麗に折りたたまれた服を渡され、灯里は自分の体を抱きしめる。着ていた服はボロボロに引き裂かれ、酷い有様だった。
「あの犬たちは……?」
「君の身体を食べて満腹になったんだろう。どこかへ行ったがまた来るかも知れない。急いで着替えてくれ」
あまりの何事もなさに、もしかして夢だったんじゃないかと思ったがそんなことはないらしい。引き裂かれた衣服と地面に残った血溜まりがそれを証明していた。
「この服どこから持ってきたの。わたしのだよね?」
「君の部屋からだ」
「そう……」
悪びれもせずに告げる周防に、灯里は深くため息をついた。確かに油断していた自分も悪いが、見捨てておいて謝罪の言葉の一つもない。それどころか人のタンスを勝手に漁って服を取ってきている。下着までばっちりと用意されているのも、ありがたくはあるがそれ以上に不愉快だった。
「食料も回収した。長居は不要だ」
食料が必要なのはあなただけじゃない。思わずそんな嫌味が口をついて出そうになって、灯里はうんざりした。彼は命の恩人なのだ、と心の中で唱える。たとえ人が食われているときに悠長に人の下着を漁ったり、食料を調達しているような奴でも。
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