なぜ僕たちは勉強しなければならないのか

六野みさお

第1話 なぜ

『学生の本分は勉強である』という言葉があります。しかしながら同時に『子どもの仕事は遊ぶことである』という言葉もあります。子どもがどれだけ勉強すべきかという問題は、ずっと昔から子どもたちと大人たちによって議論されてきました。ところが、現在受験競争はますます加熱し、多くの学生たちが勉強することの意味に疑問を唱えています。僕は現役の受験生ですが、自分の経験も交えながら、この問題について考えていこうと思います。


 まず、学生たちが勉強を嫌う理由の一つに、『自分が行う勉強がどのように役立つのかわからない』というものがあります。これはある意味で正しいです。数学の公式や英単語や化学式や歴史上の人物を覚えたところで、その多くはすぐには役立ちません。しかし、全く役立たないというわけでもありません。もしかすると将来外国人と話す機会があるかもしれないし、もし理系的な進路に進んだ場合、数学や化学の知識は必須です。歴史的認識に欠けていると、不用意な発言をしてしまいネットで炎上することもあります。少なくとも、現在学校で教えられているカリキュラムは、先人たちが努力して推敲を重ねてきたものです。もちろん完璧なものではありませんが、それを履修すれば一定程度の効果が得られるでしょう。


 しかしそれでも、おそらく多くの学生たちにとっては、自分の学んでいることが将来役に立つとは思えないのではないでしょうか。そこで僕はある例を挙げます。それは『文章を読む』ということです。おそらくこれを読んでいるみなさんは、文章が読めると思われます。ところが、全ての人がこの文章が読めるとは限りません。なぜならこの文章を読むにはもちろん漢字の知識が必要ですし、ある程度の読解力も必要であるからです。もしあなたが生まれてからほとんど国語を学んでいないなら、この文章を読むことはできないはずです。まあ、これは極端な例ですが、もしめちゃくちゃ難しい語彙を使いつつも良いことを言っている文章があるとすれば、それを読める人だけがその恩恵を受けることができます。具体的には明治の文豪の文章などです。


 ここまで考えてくると、勉強することは絶対的な正義のように思えてきますが、実は必ずしもそうではありません。これは、勉強することは『ある技能』を伸ばすことにすぎないということに起因します。たとえばある人がある数学の公式を覚えたとすると、その人はその公式が使えるようになります。しかし、もしその人がその公式を覚える時間を別のことに使ったならば、その人には別の道が開けていたかもしれません。野球を練習すれば野球がうまくなったでしょうし、絵を描けば絵がうまくなったでしょう。周りの人と話せば自分の知らない経験を得られたかもしれないし、運が良ければ恋人ができたかもしれません。その人は果たして数学を勉強すべきだったのでしょうか?


 要するに、この世界はいわゆる学校のカリキュラムのみで成り立っているわけではないということです。大谷翔平の収入はほとんどの日本人を上回りますが、大谷翔平は学校のカリキュラムで習うことを使って稼いでいるわけではありません。もちろん全く使っていないわけではないでしょうが、少なくとも彼は一般的な勉強よりはるかに多くの時間を野球に捧げてきています。そしてそれで生きていくことができているのです。


 これも極端な例ですが、僕たちが学校で勉強することだけで生きていないことは事実です。もし本当に社会的なスキルがゼロのまま、勉強ができることを理由にある人が就職したとすれば、その人はすぐにクビになるでしょう。ですから僕たちは勉強ばかりすべきではないのです。花火大会くらいならむしろぜひ行くべきです。本当に優秀な人であれば、少しくらい遊んでいても大して成績は落ちません。むしろ暇があれば何が何でも勉強すべきだと考えている人の方が危ないです。


 さらに、勉強することのデメリットとして『受け身である』ということがいえます。なぜなら受験は与えられた問題を制限時間内になるべく正確に解く競技であるからです。これは非常に受動的なものです。受験改革とよく言われていますが、これでは創造性は育ちません。なんなら勉強している時間にカクヨムの小説を読んで、フォローして星を入れて感想を書いている方がはるかに創造的です。自分で書けばますます創造的です。受験もトーナメント形式にして、互いに問題を出し合って勝った方が合格することにすれば人気が出そうです。


 とはいえ、繰り返しますが、現在の学校のカリキュラムは僕たちが社会で必要な知識や技能を効率的に身につけられるようになっていて、いわゆる『良い大学』に入れば将来経済的に恵まれる可能性が高いということは事実です。その観点から見れば、勉強することに意味はありますし、僕たちも心の底ではそれに気づいているような気がします。ただし、僕たちは『今やっている勉強は、本当に自分が将来人生を捧げたいと思っている仕事につながるものなのか?』ということをよく考える必要があります。必ずしも僕たちは学校の勉強をもとにした職業につくとは限らないわけで、野球を練習すれば野球選手になれるかもしれないし、小説を書けば大ヒット小説家になれるかもしれないわけです。


 しかし、僕たちが一番見落としがちなことは、たとえ僕たちが学校の勉強を捨てたとしても、僕たちが楽になるとは限らないということです。もしあなたが小説に人生を捧げるとするなら、あなたは朝から晩まで小説のことを考えなければなりません。それだけでなく、どうすれば自分の小説が評価されるのかについて日々考え、努力しなければなりません。正直、その過程は『知識を入れさえすれば成績が上がる』学校の勉強より難しいともいえます。少なくとも僕はそんなことはできません。


 というわけで、僕たちの将来のためには、僕たちは結局勉強するのが一番安全であるようです。しかし、勉強はやはり苦しくつらいものです。


 そこで、僕はある考え方をするようにしています。それは勉強を部活のように考えるということです。毎日の勉強はただの練習で、テストや模試は大会です。そして勉強という部活の最大の特徴は、学生であれば誰でも参加しなければならないということです。『こんなにたくさんの人が参加する部活で、自分は上位に入るんだ!』と考えると、なぜかやる気が湧いてくるのではないでしょうか。


 僕は今日も補習に行きました。暑かったです。みなさんも暑さに気をつけてお過ごしください。

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