第4話 博多屋台物語ー4

 そんなやり取りで、尚子は屋台を始めることになった。

その1カ月の間に老人は、老人と云っても、背筋もちゃんと伸びて、頭は白いが、毛もたっぷりあり、声も張りがある。名前を大根(おおね)さんと云った。

「いい名前だろう、地面に根を下ろしたような。ところが下の名前が颪(おろし)ってんだ。本当の名前だ。親父が大のタイガースファンで六甲颪から付けたのだ。子供には読むのも、書くのも大変。何より読みがね、〈大根おろし〉だろう。子供時代は随分からかわれたよ」

「息子の名前は、太(ふとし)にしたんだ。これななら文句はあるまい」

「息子さんがおられるのですね。息子さんは継がれないのですか」

「ここは今、権利は一代限りと云う決まりになっている。しかし例外として一親等、つまり自分の子供には1回だけその権利を渡すことが出来るんだ」

「息子だがね、あの向かいに銀行があるだろう。あそこの支店長をしているよ」

「立派な息子さんが居られるのですね」

「何が立派なもんか、3年前にあの支店に転じて来たんだが、来やしない。一度だけ来たときにどう言ったと思います…」

「どう云われたのですか?」

「もー、こんなとこやめて、どっか店持ってやらないかってね。それぐらいのことは出来るからってね。こんなとこってないだろう!ここで稼いで、彼奴は育って大学まで行けたのさ。俺のことを思ってもあるだろうが、自分の店の前で、自分の親爺が屋台なんぞされるのが目障りなんだろう」

「そんな…、きっとおじさんのこと思ってだと思いますよ」

「彼奴は出世するだろうが、いい銀行マンにはならないだろうさ」

親子の間にどんな葛藤があったのだろうか、自分などが口を挟む世界ではないと、尚子は思った。


 1カ月が終わって、

「いいね、お前さんならやれるよ。味は変えるなよ」

「はい、絶対!」

「ついては、話があるんだ、嫌なら嫌で続けていいんだよ。俺が生きてるうちはね。養女になってくれないかってことだ。何も俺の世話をしろってわけでもない。失礼な言い方だが、ごめん、古い家と少しの貯えがあるが、お前さんは養女でもその権利はない。権利はこの屋台を受け継ぐだけだ」

尚子は全てを理解した。大根老人の厚意を受けようと思った。しかし、籍が変わるのである、父の承諾、理解は要った。

「どっちみち結婚すれば籍は抜けるし、名前も変わる。信用に応えるように頑張るんだ」と父は理解を示してくれた。


 それから、大根老人はは2,3回来て、大根とコロを注文して、一杯飲んで「実は、客で来たかったのさ」と笑って、何も言わずに帰った。それから姿を見せなくなった。住所も、電話も聞いていなかった自分のうかつさを恥じた。戸籍が変わっている筈だからそこからの線もあるが、身元調査をするようで嫌だった。多分、大根老人はそうしたかったのだろうと尚子は思うことにした。

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