第15話 リストカット
太陽の下に広がる世界が眩しい。私はけっこうな時間をかけて市内にふらふらとさまよいでた。やはり血が足りないのだろう。まるで酔ったように時々、めまいがする。
でも私にはしたいことがあった。薬局に寄る。剃刀の入った紙パッケージとガーゼ、包帯を買って、裏路地に座り込んだ。
「出ていけ」という言葉が頭のなかを反響している。こんなときにやることは一つしかない。服の袖をまくりあげて、新品の剃刀のパッケージから剃刀を一本取り出して切ろうとした瞬間に、クロウがそれを弾き飛ばした。
「やめなせぇ!」
「私がなにしようと勝手でしょ!」本気で怒ったが、頭に血が上る感じはしなかった。やっぱり血が足りないのかなぁ、でもどうでもいいや、と思って叩き落された剃刀を拾おうとするとその前にクロウが立ちふさがった。
「邪魔しないで!」
「お願いだ。やめてくだせぇ。これ以上、血は見たくねぇです」
クロウがなかば懇願するように言う。私は少し冷静さを取り戻した。なんとなくクロウを悲しませたくなかったのだ。
「ルルは……私なんて不要だって……」
若干の沈黙が横たわる。
「あれは本心じゃねぇです。とにかくその剃刀を置いて、話をきいてくださぇ。お願いしまさぁ」
私は素直にそれに従った。
「姐さんは昔……」クロウはとてもゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「といってもあっしが眷属になってからのことですがね。荒れてやした。父、つまり姐さんを吸血鬼にした吸血鬼を恨み脱走。ルネとも喧嘩別れ。たった一人でした。家族も頼れる人間もいねぇ。だからでしょうかねぇ。あっしに血を少しだけ分け与えて眷属にしやした。あっしもあん時は死にそうでやしたから助かりやした。
それから少しして、心が安定したんでしょう。あるパン屋に毎晩、毎晩通うようになりやした。そのパン屋は少し変わっていて遅くまでやっていたんでさぁ。それからそのパン屋の息子と仲良くなりやした。何がきっかけかは知りやせん。ある夜、店が閉まってから二人は、デートって言うんでしょうかねぇ、公園まで歩いて、少し話してやした。その時、パン屋の息子がベンチのささくれで指を切ったんでさぁ。そっからは酷かった。姐さんはそれを治してやろうと軽くその血を舐めたんですが、そのときになにかスイッチが入ってしまったんでしょう。姐さんは彼の首に牙を立てて血を吸い続け、彼は翌日には死体になってやした」
私にはそれが容易に想像できた。あの時のルルはルルじゃなかった。ただ飢えた動物のようだったから。
「以来、姐さんは極力、知り合いは作らず、人間の血が必要になったら見ず知らずの人間の血を襲って、でも決して牙は立てずに出血した血をほんの少しだけ吸って生き延びてきやした。吸血鬼っていうのはやっかいで、血を吸うとその人間の記憶が入ってくるらしいんでさぁ。よく、うなされてやしたよ……姐さんは優しすぎて吸血鬼に向いてないでさぁ」
私はそっか……としか言えなかった。
「姐さんがちよこさんに怒ったでしょう。吸血鬼になりたいと言ったとき。あの時、たぶん姐さんは本当のことを言いやした。本当のことを言えば理解してもらえると思ったのかもしれやせん。でも初めてあんなことを言われても戸惑うのは仕方ありやせん。あっしは随分と長く一緒に居させてもらって分かりはじめていることですからね。吸血鬼にとっての代償は日の目が見れないなんて生やさしいもんじゃございやせん。多くの死を、自分以外のものの死をただ受け入れる喪の作業に耐え続けなければならない生、それが吸血鬼なんでさぁ……だから吸血鬼の最期の多くは悲惨でさぁ……気が狂って真っ昼間に外に飛び出すか、自分から命を絶つか……不老不死ではありやすが、魂の部分だけは人間と変わらないんでさぁ……」
沈黙が横たわった。
「私もね」
私はなんとなく話したい気持ちになった。
「私もね、ほんとはリストカットなんて止めたいんだ。初めて切った日はよく覚えてる。中学生に上がってすぐ。同級生と喧嘩したんだ。なんで喧嘩したのかなんて覚えてないけど……で、同情されたかったから切った。思ってたより、血が出ないんだよね。でも次の日にはガーゼして包帯でぐるぐる巻きにして登校した。みんなの注目を集めたかった……でも、不気味がられた。今考えれば、そりゃそうだよねって感じだけどさ。それから本格的に切るようになった……もう儀式みたいなもので。血を見ると安心した。私はまだ生きているってね……」
今度はクロウが「そうでしたかぁ」と相づちを打つ番だった。私は大きく深呼吸した。ルルの話を聞いて、自分の話をして気分が落ち着いたのかもしれない。
「あー! もう切る気はなくなったよ。なんかしよ! そうだルルの喜ぶことしようよ。そしたら許してもらえるかもしれない」
「なにをするつもりでさぁ?」
「うーん。今、ルルが欲しい物ってなんだと思う?」
服とかは必要かもしれないと思ったけど、なんか違う……なんだろ……ルルが欲しい物……ルルの横顔とそれからルネのことが思い浮かんだ。
「そうだ! 教授のところに行ってみよう」
私は無邪気にそう言い放った。
「そう、今は昼だし、ルネは動けない。ルネがどこにいるか探そうよ!」
「そりゃぁ……そうですが……あっしたちも総力をあげて探してまさぁ……でもしっぽすら掴めていやせん。もちろんファミリーも」
ファミリーか……たしかに、どこにいるんだろ……最後にファミリーと遭遇したのは、ホテルだ。
クロウが反論する。
「そりゃぁ無茶だ。危険すぎまさぁ。たしかに今、あそこにはファミリーの連中がいやすが、危険でさぁ」
「ザ・バーズって映画知ってる?」
「あいにくと……」
「ヒッチコックの名作なんだけどなぁ……まあいいや、作戦名はザ・バーズ。そのためにはあなたたちの力が必要。どれくらい集められる?」
「五十なら……」
「充分ね! むしろ充分すぎる。助けてくれる?」
「でも、危ねえ真似はしねえでくだせぇ」
「じゃあ、切る!」
私は剃刀を構えた。
「分かりやしたって」
クロウはお手上げのサインなのか、翼を大きく広げた。こうやって改めてみると、クロウは大きい。
「どうやってホテルに忍び込むんでさぁ?」
「正面突破」
清々しかった。そしてこれは必ず成功すると思った。私のヴィジョンとクロウ、そしてその仲間がいればできること。
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