第二章 共にあるということ
第12話 秘密基地
ルルを秘密基地に押し込んで改めて周囲を見渡す。針葉樹が生い茂っている。風が立ち、木々を揺らす。足元には夜露に濡れた枯葉が落ちている。私はほっと息を吐いた。それから慌ててクロウに問いかけた。
「誰かつけてきてない?」
「ご心配するほどではないでさぁ。ちよこさんが逃げる時、実は他のカラスたちも集めてあっしたちと同じように逃げさせたんでさぁ。だから追手は今頃、全然違うところに行ってるでしょうねぇ」
そこまで頭が回らなかった。クロウを改めて見直す。ブラックに怪我をさせ、二度もナイフを弾いてくれたのだ。私の驚嘆が伝わったのか、少し首をかしげるようにしてたぶん照れ隠しでこう言った。
「なぁに。あっしのアイデアじゃござんせん。親鳥は幼鳥を助けるときにわざと大声をあげて、幼鳥から遠くに行くんでさぁ。習性みたいなもんでさぁね」
「助かった。ありがと」
そう自然に言ってから、いつから私はこんな風にものを言えるようになったのだろうと思った。
それからがもう一苦労だった。クロウに穴から家の中に入ってもらって鍵をあけてもらうと、窓の隙間から太陽光が漏れていたのだ。私とクロウは慌てて、部屋にあった新聞紙やらテーブルクロスやらで目貼りした。あれだけ必死に動いて全身動かなくなっていたのに、そんなことも忘れて少しでも太陽光が入ってこないようにする。
それからルルをベッドに寝かせた。部屋は昔、姉と来たときとほとんど様子は変わっていなかった。ワンルームのなかにキッチンとテーブル、薄汚れた毛布。テレビや冷蔵庫などの電化製品はなく、簡素な机と椅子、その上に枯れきってなんの花かもわからなくなった植物が挿された花瓶が置いてある。家財道具はどれも埃をかぶっていたが、まるで住人が急に夜逃げしたようにきちんと残っている。
私と姉は時々ここに来てはたわいないお喋りをしたり、お菓子を持ってきて食べたりしていた。二人の年齢が上がるにつれ来なくなったが、それでも私が家出まがいのことをするときは場所がなくてよくここに来ていた。いつの間にか、家の横穴からも入れなくなってしまったけれど。
教授のコートに包まれたルルの様子を見ると、額からは脂汗が流れ息は荒い。どうしよう? とクロウの姿を探すといつの間にかいなくなっていた。代わりに別のカラスが部屋に入ってくる。瀕死のネズミを持って。それが数羽続いて、クロウもネズミの死骸を持ってくる。床にはまだもぞもぞと動くネズミの死骸の山が築かれた。
「これ、どうするの? ルルに飲ますんだよね……」
私はぞっとした。でもこれでルルが少しでも楽になるなら、と勇気を出してまだ暖かい死骸の一つをルルの方へ持っていったが意識が朦朧としているのか口にしない。私は半死のネズミを持ったままウロウロした。クロウが「こいつらから血を絞り出すんでさぁ」と言ったがどうしたらいいのか分からない。
「ゴミ袋を何重かに重ねてくだせぇ。そしたらその中にネズミ共をいれやす。後は叩き潰す」
クロウの指示には納得したが、身体が動かない。でも、しなきゃという思いから半分目を閉じて一匹ずつネズミの死骸を黒いゴミ袋に入れて、空気を抜きながら袋の口をしっかりと縛る。なかでネズミが悲鳴のような声をあげたり、袋から脱走したりする度に私の手は凍りついた。一生、トラウマになる……。
なんとか袋を縛り上げてから、家の外に出て手頃なコンクリートブロックを見つけてくる。水道の近くにあった苔で緑色に変色したコンクリートブロックを持ってその自重に任せてネズミの入った袋に叩きつけるが、潰れる気配がない。クロウが「もっと強く!」と後ろで言う。どうにでもなれ! と思いっきり力を入れて叩くと今度は、中でネズミが潰れる感触があった。
それでもたぶん生きているであろうネズミが袋の中で動いているのを感じて、それをめがけてコンクリートブロックを打ち下ろす。時々、袋が破れて血が飛び出し私の服を濡らした。次第に要領が分かって、最終的には袋がほぼ平らになった。ところどころ破けて血や小さな骨が飛び出ている。袋の耳の部分をポケットに入っていた剃刀で切り落として、ルルの口元に袋を運んだ。
「ルル、血だよ」
と言うと、ルルも状況がわかったようで口を開けた。まだ子どものような歯並びのかわいい口には吸血鬼の牙が生えている。そこにそっと生暖かい血を流し込む。途中でルルはむせたが、ゆっくりと血を垂らすようにして少しずつ少しずつ口の中に入れていく。袋は重く、手も痺れてきたが一気に流し込めばまたルルがむせるであろうと思って、なんとか歯を食いしばる。
三〇分くらい続けただろうか。いや、もっと短かったのだろうか。時計もないし、あったとしても何時から始めたかなんて確認してないから意味もない。血を飲んでいたルルはみるみるうちに回復した。もともと血相が悪いので、その変化は微妙だったが血相がよくなるのがわかり、呼吸が落ち着いてきた。
「すまない」
ルルがここへ来て初めて口にした言葉。
「そんなことはいいから」
今は休んでと言おうとしたが、もう一つ頼みたいことがあると言われてルルは自分の服を脱ぎ始めた。私も慌てて手伝う。ノーブラだった。いや、今はそんなことは関係ない。肌が白く透き通っているようだった。左腹部のあたりから出血している。急いでその血を指で拭うとルルがうめいた。部屋を見渡して、埃まみれのタオルを軽く払って持ってくる。本当に家財道具があったのが幸いだ。この調子なら……と思って部屋中を物色すると、救急セットがあった。
さてどうする。とりあえず布で傷の周りを拭うと、まるで火傷の痕のように弾痕の周りの皮膚が焼けただれていた。銀の弾丸だ。「そいつを抜いてくれ」とルルは言う。嘘でしょ。こんな汚いところでそんなことしたら危ないというか、そんなことできない。
「まず傷口を広げるんだ。そしたらピンセットか、なければ箸で構わないから抜き出してくれ」
冗談がきつい。さっきのネズミ殺しだってかなりきつかったのに。ああ、神様。そんな言葉が漏れ出る。
「私は吸血鬼だ。やわな人間とは違う、消毒などもしなくていい」
そんなこと言われたって気休めにもならない。でもここは覚悟を決めるしかない。まず傷口を広げろって? ただでさえ痛々しい傷口を見るのも嫌なのに、それをもっと広げるってどうしたらいいんだ。
剃刀。役に立つなぁ……幸い、弾丸は奥までは達していないようで、なんとか目視できる。ルルごめん! と昔の武士のように言うと、傷口に剃刀を押し入れ強く引く。こんな時、リストカットしててよかったと思う。人間の皮膚の表層は思っているよりも薄いが、そのなかの繊維は固い。筋があればほぼこんな剃刀では切れない。腹部を切るときも筋がなさそうなところを選ぶことができた。血が滴る。これも想定範囲内。血を見慣れていなかったら卒倒していただろう。
ルルはうめく。
「なにか噛ませてくれ」
と言うのでガーゼを与える。それをルルは強く噛んで食いしばっているようだった。早く終わらせなきゃ。弾丸が見えてくる。ピンセット! と思って救急箱を漁ったがない。焦る。箸! 箸! キッチンを漁ると菜箸があった。
でもこれじゃあ長すぎると思ってすぐに半分に折る。竹でできているのか、なかなか折れない。足で踏みつけてテコの原理を使う。およそ数十秒。我ながら的確な判断。箸をもってすぐにルルの元へ駆けつける。ごめん。と言いながら傷口に指を入れる。ねっとりと血がからみつく。でもその血は冷たい。箸を強引に突っ込むと、ルルの身体がひきつるように跳ね上がった。
慌てて、箸を引き抜いてしまう。私の呼吸も上がっているのが感じられた。汗が止まらない。だめだ。この箸の太さでは弾丸が逃げてしまってつまみ出せない。またもや剃刀。それで箸の先端を薄く削り出した。鉛筆削りの要領だ。剃刀はだいぶなまくらになってきていたが、なんとか先端の平たい箸を作り上げた。
その間も傷口から血が流れ出ている。だが思ったよりも出血は多くない。少ないと言えば嘘になるが、スプラッタ映画のように血しぶきが上がったりはしない。呼吸に合わせて、血が出てくるのだ。私はそれをガーゼで拭きながらまた指を入れる。
ルルの身体が硬直するのが分かる。今度は痙攣はなかった。意志の力で身体をコントロールしているのだろう。先を平たくした箸はうまく機能した。こんなときに、正しい箸の持ち方を知っていてよかったと思う。小さい頃、母親から厳しくしつけられたおかげだ。弾丸は少しずつ姿を現した。それは潰れていて意外と箸に引っかかってくれた。私の汗が傷口に垂れる。ルルがまたうめいた。まだか。と言ったような気がした。もう終わるから……と無言で集中する。
引っ張り出した。私は深呼吸した。息ができていなかったのだ。すぐにガーゼを押し当てて、テープで固定してから包帯を強めに巻く。このあたりの要領がいいのは私がリストカッターだったからだろう。リストカッター万歳。なんて言っている暇はないが、とにかく処置は終わった。ルルは口に含んでいたガーゼを吐き出す。
二人ともぐったりだ。クロウは右往左往していたが、処置が終わるとすぐにルルの顔にくちばしを押し当てた。まるで泣いているようだ。私もグロッキーだった。大丈夫かな? とクロウに聞くと大丈夫そうとの返答が返ってきた。私はその声を聞いて、床に転がった。服は血まみれだし、床は埃まみれだし、酷い状態だが睡魔が襲ってきた。そのまま私は気を失うように眠った。
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