第8話 ホテル

 教授は怒りも隠さずに私を強引に家から引きずり出して、その勢いのまま車に向かった。まだ雨は降っていたが、教授のコートのおかげで濡れないで済む。車はよく見ると、少し古ぼけた角張ったフォルムでダークグリーンのステーションワゴン。フロントにボルボのマークが入っている。後部には荷物が沢山入りそうだ。一昔前の高級車だったのかもしれない。吐いたのまずかったかなぁ……と的外れなことを考えていると、エンジンがかけられた。車が低く唸ってガソリンの臭いが微かに車内に入ってくる。

 急なバックからの旋回、家を後にした。なんとなく家の窓からTがのぞいているような気がして私は座席に深く腰掛けた。

 教授はまた音楽をかける。

「ドヴォルザーク、交響曲、第九番。新世界より」

 私は楽曲がすぐにわかった。

「有名だが名曲だ。これもカズオのお気に入りだったか……」

 そうだった。最初、聴いた時は不気味だった。

「父さんはよく言ってた。この曲はな、ドヴォルザークがアメリカに渡って、そこで書き上げた。故郷、ボヘミアに向けて。って……」

「故郷か」

 教授は独り言のようにつぶやいてハンドルを切った。

 第二楽章に入って音楽がゆっくりになる。それに合わせるように車もゆっくりと走らされた。どこか懐かしい響きだ。私たちは古いカーステレオから流れる音楽に身を委ねた。途中、教授はコンビニに寄った。逃げるなと念を押されたが、もうそんな気力はなかった。姉の最期の光景、Tとの会話が頭のなかでぐるぐるしていたからだ。教授はすぐにもどってくると、車はまた動き始めた。

 車は市内で最も高級であろう大きなホテルに停められた。川沿いで立地も良い。日が暮れかけるなか、ボーイがボルボを運転して車庫に入れていくのを眺めながら、私は教授の後に続く。今だったら逃げられるかもしれないが、逃げようとしてもどこへ行ったらいいかわからなかった。


「部屋は二つ借りた。安心しろ。だが、まずは私の部屋に来たまえ」

 そう言われてホテルの最上階にある部屋に案内された。スイートルームというのだろうか、やたらと広くて豪華な部屋だ。晴れていれば川越しにうちまで見えるかもしれない。雨が川の水を濁らせている。

 教授は大きなテーブルの上に、先程コンビニで買ってきたであろうものを次々と並べた。

「安心してその辺りに座りたまえ。殺すならとうに殺している」

「それ、安心できない」

「君の精神は理解に苦しむ。強いのか弱いのか。Tが興味を持つのもうなずける」

「T……」

 あの歪んだ笑顔が脳裏をよぎる。

「大丈夫だ。やつは私を自分の犬かなにかだと思っている。だからやつは簡単に君を手放した。好きなものを食べるといい」

 私は机の上に丁寧に並べられた品々を眺める。サンドウィッチが三種類ほど、メロンパン、ソーセージパン、おにぎりが四つ、カップラーメンが三つ……ゼリーやらプリン、ヨーグルト、カロリーメイト、飲み物はミネラルウォーターからお茶――それも数種類――ジュースもペットボトル入のものから、紙パック入のものまで揃っている。

「なんで?」

 私はわざと曖昧に聞いた。教授にしてみれば、なぜ私を助けたのかとも、なぜこんなに買ってきたのかともとれる。

 教授は深いため息をついた。

「なんでだろうな。私も君に興味が湧いたから」

「興味」

「私の家族は、私が殺した。あまり楽しい話じゃない。いまお湯を沸かそう」

 そう言って、教授が席を立つと私のお腹が鳴った。

 最新式のケトルが即座に水を沸騰させた。それを持ってきて、どれにするか? と身振りで聞かれたので、もっともスタンダードなカップ麺を指差す。教授は手早くカップ麺のフィルムを剥がし、お湯を入れた。

「飲み物は?」

 私は無言で、紙パック入りのオレンジジュースを手にする。まるで乞食みたいだと思ったので「ありがとう」と小さく口にした。オレンジジュースは思った以上に甘く、粘り気があった。それだけ口が乾いていたのだろう。甘さで口が痺れる。一気に飲み干してしまった。目でどれを食べようかと追ってしまい、気まずくなり、教授を見る。

 彼は手を広げて、どれでもどうぞとジェスチャーして、自分はミネラルウォーターとカロリーメイトをとった。

 私は、カップ麺が出来上がるのを我慢できず、サンドウィッチに手を伸ばす。レタスがシャリシャリと音をたて、ハムの塩辛さが全身に染み渡る。

 それから紅茶を開けて、少し飲んで落ち着いた。

「なんで、その、家族を……」

「まさかなぁ……カズオにも最初にそれを聞かれたよ。普通はもう少し相手を気遣って聞かないと思うんだがな……親子か」

 そう言って、ミネラルウォーターを少し口にしてから話し始めた。

「私はもともと、この国の出身じゃない。キルギスだ。あまり有名な国ではないから知らないと思うが。とりあえず、中央アジアで生まれた。私の一族は吸血鬼狩りの一族で、小さい頃から戦い方、殺し方を教わって、実際に両親と殺しに行ったこともある。だが、私はその生活が嫌だった。誰だってそうだろう。血の匂いはいつまで経っても慣れないものだよ」

 そこで教授は話を区切って、軍隊が使っていそうなごついクロノグラフつきの腕時計を見た。時間だ、と言って私にカップ麺を渡した。蓋を開けると、匂いが部屋中に広がったかのようで、私はフォークで無心に食べた。

 教授はその様子を少し眺めてから話を続けた。

「私は一族から抜けようと何度か試みたが、だめだった。仕方がないので研究をすると言ってロンドンに渡った。私が専攻したのは分子生物学だ。同じ研究室にいた女性に私は恋をした。一目惚れだったよ。彼女は聡明で、大学からも一目置かれていたがその研究スタイルは変わっていた。研究室で寝泊まりしていたかと思うと、夜遅くになってから研究室に来たこともあった。彼女には個人研究室も与えられていて、行ったことがあったがカーテンは締め切られ、デスクスタンドだけが灯されていた。ほとんど真っ暗だったんだ。これで君にも彼女の正体が分かるだろう?」

 急に話題を振られて、私はすすりかけていたカップ麺を一気に喉に押し込んだ。少し気恥ずかしい。

「その人は、吸血鬼だった?」

 私は確証こそなかったが、教授の口ぶりからなんとなく察した。

「そうだ。それから私たちは関係をもった。彼女の身体は冷たかったよ。そして彼女は私の出自を知ってか知らずか、自分が吸血鬼であることを打ち明けた。それからその不死の肉体が憎いともね。彼女の研究はテロメアと呼ばれる人間の寿命を司る遺伝子を対象にしていた。周りからは万能薬の研究をしていると思われていただろうがね。皮肉なものさ」

 私はカップ麺を汁まですすったがまだ空腹が癒えなかった。そこで今度はゼリーに手をのばすと、教授は笑った。買ってきた甲斐があったと。私はますます恥ずかしくなったが、それでも食欲を抑えきれなかった。昨日からなにも食べていなかったのだから。

「ある晩、私が彼女の家を訪ねると血の匂いがした。懐かしくもあったし、嫌な予感もした。蹴破られたドアから入ると、何人かの吸血鬼狩りが彼女に杭を打ち込んでいた。そしてその中に私の両親がいることに気がついた。その時は、その街に吸血鬼が出ると噂になっていたから来たのだろう。私に気がつくと、彼らは言ったよ。良かったと。私たちが先に処理したと……」

 私はゼリーを食べる手を止めて、話に聞き入ってしまっていることに気がついた。一瞬、教授と視線が交わって、今度は教授が顔をうつむけた。

「その後は、酷かった。両親としては久方ぶりの再会だったのだろう。私にハグしようとした。そのまま私は彼らの武器を奪い、その場で全員始末した。自分たちが教えたことがこんなふうに役に立つなんて、思ってもみなかっただろうな。人を襲う吸血鬼も人間も恨んだ。彼らが彼女の存在を知るきっかけとなった大量殺人を繰り返していた吸血鬼も始末した。私は吸血鬼からも吸血鬼狩りからも命を狙われた。だがその度毎に、私は彼らを殺した。私の心は壊れていたんだろう。本来ならば感じる恐怖や高揚がなかったのだから」

 私がすっかり聞き入っていることに教授は気がつき、まぁ食べろと言って、自分は部屋に備え付けのバーカウンターのようなところから小瓶に入ったウイスキーを取り出して、ロックにして戻ってきた。

 カラン、と氷の音がする。ルルは名も知れない酒を瓶から煽っていたが、教授はまるで愛おしむようにアルコールを口にした。


「日本に来て、カズオに出会った。研究内容が近かったから論文などではすでに知っていたがね。最初は研究者として接していたがどうやら彼もまた吸血鬼のような存在を理解しているようだった。というのは背後にファミリーがいたからだ。ファミリーは吸血鬼狩りの総本山と言って過言ではないほど、世界中の吸血鬼を殺していたが、同時に研究もしていた。たぶん秘密を解き明かして軍事転用するつもりなのだろう。私は距離をとりつつも、彼と接していた。去年、失踪してしまったのは君も知ってのとおりだ」

 教授はまたウイスキーの氷をカラカラと鳴らすようにグラスを回してから、一気に飲み干した。

「本題はここからだ」

 彼の口調が厳しいものに変わった。私が食べ散らかしたテーブルの上の食べ物を丁寧に片付けると、大きなバッグから革製の包みを取り出す。ガラス製のテーブルに音が響いた。

 中からは三つのものが出てきた。一つ目は、ダガー。二つ目はリボルバー式の拳銃と弾丸が入っているであろう紙箱。三つ目は銀色に光る懐中時計のようなもの。


「君をかばった理由はこれだ」

 なんのことか、全くわからなかったし、それらが凶器であることに恐怖を感じた。

 これは、と言って紐がしっかりと編むようにして巻かれた柄に手を添えて、鞘から取り出す。刃渡りは三〇センチほどだろうか……かなり長い。

「銀製のナイフだ。銀は吸血鬼にとっては毒のようなものだ。致命傷を与えるためには心臓を貫く必要があるだろうが、切りつけるだけでも火傷のような傷を負わすことができる。次はこれだ」

 教授は拳銃を手にした。カシャリと音がしてリボルバー部分が横に開く。中に弾丸を込めた。

「銀で作られた弾丸だ。これで当たれば幸運といったところだろう。彼らは弾丸より早く動く。最後はこれだ」

 銀色に光る懐中時計のようなものをパカリと開けると、中はコンパスだった。

「このコンパスは吸血鬼の方角を指す。半径一㎞ほどだが役に立つ。針が回転したら注意だ。すぐ近くにいる」

「これを?」

 私はどうすればいいのか分からなかった。


「君に託すよ。これはもともとカズオのものだ。失踪後、私が見つけた。持ち主として君は相応しい。Tの言うことがどこまで正しいか、私には判断がつかない。だが、君の両親の死と失踪に関係していた可能性は充分にある。姫はファミリーと対立していたし、橘はファミリーの一員だったから。そしてまたそれを知った君の姉も殺した。そういう可能性もありうる。したがって」

 そう言ってから教授は大きく深呼吸した。

「したがって、君が復讐したいのならこれを使うといい。だが、復讐をしても気が晴れないことは先に言っておく。後悔するかもしれない。だからそうだな、これはとりあえず君に渡しておく。使い道は自分で考えろ。君はすでに巻き込まれている。武器の一つも必要だろう」

 そう言って教授はそれらをまた革に包んで私に渡した。

「もう遅い、隣の部屋が君の部屋だ。長々と話してすまなかったな。なにかあればすぐに駆けつける。だからゆっくりと休むといい。最後に、吸血鬼は招き入れない限り入ってこられない。ウェイターであれなんであれ、相手が怪しいと思ったら絶対に中に入れるな。代わりに壁を叩け。私が行く」

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