第6話 嘔吐

 どうやら車の中のようだった。本当に今日は、というより、昨日から意識が飛んでばかりで自己同一性が揺らぎそうになる。意味不明で支離滅裂なことの連続。それに加えて腹部と後頭部が痛む。そこを手で探ろうとしたら手首には縄のようなものが巻かれていて、加えて足首にも巻かれていて、私はまるで芋虫のように車の後部座席に転がされていた。ため息が漏れた。どうやら、猿ぐつわはされていない。


「起きたか」

 バックミラー越しに男の顔が見えるが深く被った帽子が表情を遮っている。

「おかげさまでよく寝れました」

「肝の据わった娘さんだな」

 さっきまでの丁寧語はどこかへ消え去り、冷たく響く軍人のような喋り方に変わっていた。

「私なんかを連れてどこへ行くつもり?」

 私は敵意を隠さなかった。隠す意味もない。

「すぐそこだよ。カラスに追いかけ回されたから巻いていた。見えるだろ? あのビルの上にも、街灯の上にもカラスがわんさかいる。おまけに普通のやつらと区別がつかないからより厄介だ。やつらは賢く統率されている。やはり王家の眷属は別格だな」

「あなたが縛ってくれたおかげで見えないですけどね。それから、カラスってなんのことですか? 王家?」

 知らぬのか、しらをきるのか、あんたはルルとどういう関係なんだ。男は独り言のように言った。

「そもそも、あなたは誰なの?」

「名乗り忘れていたな。私はヘルシングと呼ばれている。吸血鬼狩りの俗称のようなもので、ヘルシングは無数にいるがね、まぁ教授とでも呼んでくれ。君くらいの年齢の学生からはそう呼ばれている」

「教授……」

 ほんとうにこの男は学者なのだろうか。屈強な体つき、軍人が着ていそうなコート。ハンドルを握っている手には無数の怪我の跡。よれた帽子。教授というよりは狩人だ。

「追いかけっこは一時、休止としようか。日が暮れるギリギリになったタイミングで安全な場所に案内する。だがその前に君の家に寄らなくてはな」

 さらっと男が意味不明なことを口走った。それから男は車に搭載されているプレーヤーで音楽を流し始めた。

「スターギター」

 私の口からそう漏れた。

「よく知ってるな」

「父が電子音楽好きだったから」

 男はある人名を口にした。

「橘一雄かずお

 父の名前だ。

「なんでそれを?」

「話せば長いことになる。簡単に言えば同僚だ。今は過去形でしか語れないのが悔やまれるがね」

「じゃあ、学者っていうのも?」

「信じてもらえてなかったかね。私は学者でもあり吸血鬼狩りでもある」

「それでルルを殺しに……」

「せっかくしっぽを掴んだというのに、まさか普通の人間がいるとはね、それもカズオの娘だったとは……」

 身元がばれているみたいだ。

「私のことも知っているんですね」

「ああ、まさか君に邪魔されるとはね。君、いや、橘さんはあの後のことを覚えているかね?」

 あの後……私が大声を出した後だろうか……。沈黙を覚えていないととったのか教授は続けた。

「いや、本当に驚いた。橘さんのすさまじい声を聞いてから急いで私は君を気絶させたのだが、君は私にへばりつくように動かなくなってね。意識が飛べば筋肉は弛緩するのだが、最後の瞬間に身を固めたのだろう。まるで子泣き爺につかまったような気分だった。部屋の奥では明らかに姫が逃げる音は聞こえてくるし、ビルの眠たそうな住人はでてくるしで、慌てて車に引きずり込むので精一杯だったよ……おかげで目的は達成できず……といったところか……」

 ルルは逃げられたみたいで、少し安心する。また沈黙。単調な電子音が流れる。こいつは敵なのだろうか……。父の同僚だとも言っている、もちろん嘘の可能性もあるわけだが彼の口ぶりはたしかに大学教授ないし、研究者じみたものを感じる。

 男は「これだよ」と新聞を投げてよこした。もちろん手足を縛られているので読めない。

「このところ、奇怪な殺人事件について聞いたことはないかね?」

 そういえば、噂になっていた。そう、まるで吸血鬼に襲われたような連続殺人。ネットなどでは血がなくなっていたなんて噂まで立っているが、あくまで報道によれば連続殺人事件。

「連続殺人?」

「そう。吸血鬼によるね」

「なんで分かるの?」

「それは職業柄だとしか言えないが、まあ直に分かるさ」

「その犯人がルルだと言いたいの?」

「本当に質問が多いが、まあいい。もはや君はこちら側の人間だし、カズオの娘ならば話しておこう。生きるためには情報が必要だからね。それにしても彼女について、なにも知らないようだな。彼女は王族の血を引くものだ。吸血鬼はドラキュラ伯爵の血筋を継いだ正統派とそうでない野良がいる。姫の親は正統派だった。したがって、吸血鬼の頂点にいると言ってもいい」

 お姫様。あの飲んだくれで、愛煙家で、少しエロティックな少女が? お姫様?

 電子音とともに窓の外の景色が流れていく。このハンターのような出で立ちをした男、肩書としては教授なのかもしれないが、それにしては意外なチョイスだった。ドライブには相応しいチョイスかもしれない。なんとなく空を見上げると雲行きが怪しくなってきた。そろそろ一雨来るかもしれない。そんなことを考えていると見慣れた、見慣れきった景色が見えてきた。ほんとうに家に近づいてきている。

「私の、家?」

「そうだ。雨が降れば痕跡も消えるちょうどいい塩梅だ」

 私はあの血の海を思い出して気持ち悪くなってきた。というよりも、たぶんこの体勢と疲労からか実際に嘔吐した。

 私は身動きままならないまま白い革張りのシートの上に吐瀉物をぶちまける。最悪だ。血に加えて吐瀉物。そういえば尿意もしてきた。ウェットアンドメッシーか。

 私が嘔吐するとすぐに車が止められて、男が私の縄をほどき座席にもたれさせた。


「悪かった」

 彼は心底、すまなそうに私の吐瀉物を自分のハンカチで丁寧に拭きながらそう言った。私が自分自身にぶちまけてしまった吐瀉物も、ウェットティッシュで綺麗に拭いてくれた。その動作にはなんのためらいも淀みもなく、彼の性格を窺わせた。

「他人を乗せるのは不慣れでどうしたらいいかわからなかったんだ。運転中に襲われる可能性もあったのでね。とりあえずこの水を飲んでくれ」

 男は助手席に置いてあったミネラルウォーターを私に手渡してくれた。私はそれを無言で受け取る。口をゆすいで、車外に吐き出した。

 一瞬の嘔吐だったためか、吐き気はすぐに収まる。そもそも昨日から何も食べていないのでほとんど胃液だった。室内に吐瀉物の臭いがすぐに充満したが、彼は嫌な顔ひとつしない。彼にとって悪臭などは日常のことなのかもしれないと思った。

 外に出ると、雨が降り始めていた。このまま行くと豪雨になるかもしれない。思わず、セーラー服の袖を引っ張ると、彼はそれを寒いと理解したのか自分のコートを私にかけた。お香のような煙の匂いがしたが、今の私にとってそれは暖かく感じられた。


「家はすぐそこだ。着替えもそこにあるだろう。とりあえず拘束は外すが逃げようとはするなよ。人間に対して手荒な手段はとりたくない」


 私は家に入るのが嫌だった。あの血の海が目の前に広がっているかと思うと目眩が舞い戻ってくる。私は咄嗟に逃げようとした。しかし次の瞬間に視界が逆転する。教授が私を羽交い締めにしているのだ。その初動さえわからなかった。

 逃げられない。咄嗟に判断して私は力を緩める。

「逃げるなと言えば、すぐ逃げようとする。なかなか根性がある。流石はカズオの娘だな」

 教授は少し笑っているようだった。

 警察。こんなときは警察だ。あたりを見渡すが、そうそう運良く警察がいるわけもない。かといってもし警察がいて、呼べたとしてもこれまでの経緯を説明したら病院送りに違いない。

 私は諦めて家の玄関まできて、不思議な静けさを感じる。教授はまるで自分の家に入るような自然さで、ドアを開けた。

 部屋に入るとそこは昨日とは様子が変わっていた。消毒液の微かな匂いを除けば、まるでなにもなかったかのような状態なのだ。キッチンも整頓され、机も整えられている。

 強引に教授に押されて二階へあがるが、そこもまた奇妙に整頓されていた。割れていたはずの窓ガラスは新品に置き換えられ、あれだけ破壊された部屋のほとんどが新調されるか、なかったことにされるか、修理が為されている。その窓の外はいよいよ雨が強まり、遠くで雷鳴もしている。窓の外を見るように、一人の白衣を着た少年が佇んでいた。

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