第5話 教授

 夢を見ていたことだけがぼんやりと、思い出される。お姉ちゃんがいた頃の夢、この場所も姉と来たビルだったからか。どこか悲しげな余韻として残っている。

部屋はほとんど真っ暗で携帯を探したが見つからなかった。たぶんとうにどこかで落としたか、壊れているのだろう。そういえば、昨日からあまりにもめちゃくちゃすぎて、携帯のこともなにも意識していなかった。今までなら、携帯が見つからなかったらパニックになっていたのに今はもうどうでもよくなっていた。

 あれだけ騒がしかったクロウもいない。何時なのかも分からない。カーテンの縁に沿って雑に目貼りされた隙間から日光が差し込んでいることから、朝ないし昼であることが分かる。


 事務所の入口の方でなにかが動く気配がした。誰かが入ってこようとしているのだ、ヴィジョンが入ってきた。男は屈強そうで手にはなにか小さな工具のようなものを持っている。鍵を開けるつもりだ。昨日からヴィジョンの回数が急激に増えている。なんでだろうとは思うけど、今は現状に対応しなくちゃならない! もしルルの敵ならば……と頭をフルに回転させる。もし昨夜の敵ならば、もっと派手に登場するか、そもそもあいつも吸血鬼なら昼間に出歩くとも思えない。ヴィジョンの男は別人だ。だとすれば人間の公算が大きい。


 私はとっさに飛び起きて、壁を弄った。カチャリと音がして電気がつく。その眩しさで一瞬だけ怯む。だが怯んだのは入口の男も同様のようだった。もし室内に暗闇を好む吸血鬼がいるとしたら、そんなことをするはずがないからだ。

 牽制は成功。だがどうしたものか……。突如として、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。はっとする。ここで、この男を入れるわけにはいかない。なんとか帰らせなくては。かといって無視すればより怪しまれる。

 通信手段もない。戦う術もない。逃げる? どこへ? ルルを起こしに走る? もしその間に後ろから襲われたら? ルルは日光に弱いはずだから逃げられないかもしれない。あらゆる可能性が頭をよぎる。もうどうにでもなれ。そう胸の奥でつぶやいて、声をだした。


「はい」

 知世子。冷静になれ、少しでも時間を稼ぎ、可能なら追い返すのだ。

「私は大学で研究をしている者なのですが」

「どういった御用で?」

 押し殺した声をだす。

「このあたりに少し危険な野生の動物がいると報告がありまして」

「特に見ませんでしたけど?」

 声が若干上ずるのを感じ、冷や汗がでる。

「ちょっと中に入って確認させてください」

 一度、ドアを開ければ終わりだ。ルル、早く気がついて!

「お断りします。どこのどなたか分からない方をお入れすることはできかねます」

「貴女は誰ですか?」

「ここの者です」

「この事務所は当の昔に使われなくなっているはずですがね」

「最近、入ったのです。しつこいと通報しますよ?」

 相手が沈黙した。

 ばれている? いや、もしそうだとして、ならばなぜ入ってこない。ヴィジョンでは忍び込もうとしていたのに。


 そうか、相手はなにかを気にしているのだ。誰だって真っ昼間から吸血鬼はいねーか! とランタンを灯して歩いてる狂人になりたくはない。なにか彼には裏があり、事を荒立てたくないのだ。そして暴力的にドアを蹴破るといった力尽くでの侵入は望んでいない……私が何者かおしはかっているのだ。敵であると見なせばすぐさま排除しに来るかもしれないが、敵ではなく一般人であればできるだけ穏便に済ませたいはずだ。相手はどこからか私たちの居場所についての情報を得ており、向かったが想定と異なり足踏みしている状態。


 私は自分でも意外な行動に出た。

 ゆっくりとドアの鍵をひねった。相手が身構えるのが伝わってくる。ドアを開ける。すぐにドアの外に出て、わざと大きな音を立てて閉める。ルルに気づかせるためだ。

「嘘をついてすみません。実はあまり記憶がないのです。ただ、その変なものを見た気がしていて……。あなたは何かを知ってる口ぶりでしたので」

 血相を変えて声を震わせて言う。もちろん演技だが、この男が急に私を襲ってくるかもしれないと思うと、血の気も引くというもの。

 だが男は動かなかった。むしろ、一歩引いて私と距離をとる。男の年齢はわからなかった。私よりも、遥かに大きく、屈強な体躯をしている。モスグリーンのミリタリーコートとボロボロの帽子を被ってメガネをしている。ほんとうに大学の教授なのかもしれない。

「貴女は何を見たのですか?」

「あまりに怖かったので」

 私は跪く。

「どうされました?」

「目眩がひどくて」

 どうか騙されてくれ。

「何かに襲われたのでは?」

「そんな気がします」

 ちょっと失礼。と男は私の口元に顔を近づけてたぶん私の息の臭いを嗅いだ。

「どこか痛むところは?」

「特には……」

「どこか奇妙だ。あなたは誰かに操られているわけではないようだが、被害者でもないようだ。かといって、私に襲いかかっても来ない」

 疑われている……。

「つまるところ、協力者といったところか……なにか脅されているのか?」

 こうなったら隠し通せないから本当のことを言おう。

「脅されてはいません……」

「脅されていないなら逃げればいいでしょう? 私も手助けしますよ」

「でも戻る場所もないんです」

「たしかに吸血鬼はそういう人間を捕まえてはドナーにする習性がある。私にはバックがいるのでそのあたりも保証しますよ。おおかた、吸血鬼に家族でも奪われたのでしょう……」

 まるで私のことを全部知っているかのような口ぶりだ。それとも類型的なパターンなのだろうか。

「もし連れ出してもらったとして、ルルはどうなりますか?」

「私はハンターだ。連れ出す前にここの吸血鬼には引導を渡してくる」

 ルルが殺される?! 頭が真っ白になった。

 ドアを思いっきり音を立てながら開けて叫んだ。

「ルル、危ない逃げて!」

 その途端、私の腹部が痛んだ。思いっきり蹴り上げられたと分かる。

 それでも絶叫は止めない。ルルを起こさなくては。

 私は遠のく意識で「ルル逃げて!」ともう一度、怒鳴った。

 次の瞬間、首元への激痛とともに意識が飛んだ。

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