第4話 渡りガラス

 夢だろうか……。街が寝静まってから随分と時間が経ったようだ。地上にはぽつりぽつりとしか光がない。それを見渡すように巨大な黒い鳥が旋回している。一見するとカラスのようなのだが、その大きさは普通のカラスの数倍ほどあり、くちばしも鋭い。カラスがあるビルの周囲を回り始めた。どこかで見たことのあるビルのようだ。そうだ、私のいるビルだ。この鳥はここを目指している!

 ヴィジョンだ。そう思った瞬間に目が覚めた。ルルは? と見渡すと、ルルは私の太ももを枕にしてスースー寝息を立てていた。ロウソクの炎はまだ健在だが、それはだいぶ短くなったようだった。ルルの寝顔はほとんど子どもで、さっきまで酒を飲んだりタバコを吸っていたりしていたようには思えない。私が動くと白銀の髪がサラサラと動いた。髪は細く繊細で、まるでシルクにでも触っているかのような手触りで……ってそんなことしてる場合じゃない! 怪鳥がここへ来るのだ!

「ルル! 起きて!」

「んん……なんだ……?」

 気がつけば、ルルは私の太ももを枕にしただけでなく、腰まで抱きしめて寝ている。そんなに寝心地がよかったのだろうか……。

「ルル! 大変なの! たぶんもうすぐ来ちゃうんだけど!」

「来るまで放っておけ」

 でも……と言って、立ち上がろうと思ってもルルは私を離さないし、強引に引き離すのも気が引ける。あと、ルルの枕にされて足が痺れている……。

 コンコンと事務所の窓ガラスが叩かれる。きっとあの鳥だ。あんな大きな鳥は見たことがない。襲ってきたらどうしよう。

「ねえ、ルル。お願いだから起きて、窓の向こうにたぶん大きな鳥がいる」

「ふぅん。チョコの未来視かぁ……流石だなぁ……」

 まだ眠いのか、ろれつがあまり回っていない。これはこれで可愛い……じゃない!

 また、コンコンと音がする。さっきよりも強い。下手したらこのまま窓ガラスが割れるんじゃないだろうかと思うほどの強さだ。

「ルル! 起きてってば!」

「鳥が見えたんだろう? それも大きくて黒い」

 ルルはまぶたを半分ほど開いてこちらを見てくる。それがにやっと笑った。

「チョコ、窓を開けてやれ。大丈夫だ」

 えっ……大丈夫なの? ルルはこの鳥を知っているというの? 私は半信半疑だったが、ルルの頭をそっとどけて窓に近づく。安物のカーテンを開けると、さっき見た鳥がその場でホバリングしている。やはりでかい。そして怖い。後ろから追い打ちをかけるようにルルが開けてやれと言ってくる。きっと大丈夫なのだろう。

 私が恐る恐る窓を開けると、その巨大な鳥は音もなく風のように入ってきて、私は急いで身を引いたがその鳥は一直線にルルの方へ向かった。

「姐さん。窓は開けておく約束でしょう?」

「すまないな。昨夜はそれどころではなくてな」

 鳥が、しゃべっている。まだ私は夢を見ているのだろうか? 羽を広げれば二メートルはあるのではなかろうかという巨大な黒い鳥が、どこか江戸っ子のような訛りのある甲高い声で喋っている。

 これまた恐る恐る、ルルと鳥の方へ近づく。鳥はルルの肩の上にとまって、ルルはその頭を撫でてから、首元を猫をなでるようにかいてやっていた。鳥はルルの顔に気持ちよさそうにくちばしをこすりつけている。


「あ、あの……」

 私、コミュ障全開な感じだ。どう話しかけていいのかも分からない。

「ふふ。クロウ、お前は大層怖がられているようだぞ」

 ルルが笑いながら、その鳥に話しかける。クロウと呼ばれた怪鳥は翼を大きく広げたので、私はまた身を引いてしまう。

「まぁまぁお嬢さん、そこにかけなさいな」

 お嬢さんって私だよね。部屋は暗いので腰をかがめながら、ソファーを探すように手をのばすとテーブルの上のなにかに触れた。感触としてはなにかの布だろうか? そう思ってもう少し触って、よくよく見てから悲鳴を上げてしまった。

 ネズミの死骸だ。

「な、なんで……」

「お嬢さん、ネズミも知らないんですかい?」

 いや、そうじゃなくて。

「それはこうするんだ」

 とルルはネズミの死骸を掴み取ると、そのままかぶりついた。ネズミにはまだ息があったようで、断末魔の声をあげたがすぐにおとなしくなった。どうやらルルはネズミの血を吸っているようだった。それを見て、ソファーにも座らず、固唾を飲んでいる姿をルルは呆れたような顔で笑う。

「吸血鬼だと言ったのを忘れたのか?」

 そんなことはない。先程の戦闘は人間業ではなかった。でも、こうして生きた動物から血を吸う姿は、怪物と形容してよかった。

「怖くなったか?」

「怖く、ない」

 ここで怖いと言ってはいけない気がした。

「チョコの血は甘美だったが、ネズミの血もまたいいんだ。人間のように生ぬるい生き方をしていない分、生命への執着心が感じられる。吸う前に半殺しにすればより香りが引き立つ。人間もまた死に際の血がうまいがな」

「姐さんは昨夜、結構やられたので血が必要だったんでさぁ。そんなに怯えなさんなお嬢さん。とって食ったりはしねえでさぁ」

「あ、ありがとう」

 カラスは話を続けた。

「改めまして、あっしは姐さんの眷属、ワタリガラスのクロウっていいやす。お嬢さんは?」

「たちばな、ちよこ」

「そうですかい、ちよこさん。昨晩は大変でしたなぁ」

「知ってるの?」

 私は驚いて声を大きくしてしまった。

「知ってるもなにも、お嬢さんが飛び降りたところから、ルネが襲うところ、ここへ逃げ込むところまで全部、見てやした。それが仕事なんでね」

「助けには来てくれなかったがな」

 とルルが横槍を入れる。

「あっしだって、大変だったんですから! 知ってるでしょうルネの野郎の犬を」

「わかってるよ。助かってる」

 とルルは優しく言って、またカラスの頭を撫ぜてから、立ち上がり「少し疲れた」と言い残して奥の部屋に行ってしまった。

 気まずい沈黙。

「え、えっとクロウさん? あなたはなんで喋れるの?」

 かぁかぁかぁと甲高い声で笑われた。

「ちよこさん、あなたぁ、さっきまで吸血鬼と一緒にいたんですよ。この世に存在するかもあやふやなやつと。そこへきて、カラスが人の言葉くらい話したっておかしかぁないでしょう? それよりも、なんでちよこさんはここにいるんですかい?」

 それは……自殺しようと思って、ルルに助けられたかと思ったら、弟のルネだっけ?に襲われてそのままここに連れてこられたから? 私の沈黙を返答なしととったのか、クロウは続けた。

「いやぁ……珍しいんでさぁ。姐さんが誰かをこうやって連れ込むなんてね。性欲を満たす時くらいですから」

 さっきまでのことを思い出して、どきりとした。

「かぁかぁかぁ、冗談でさぁ。そんな驚いた顔しなさんな。姐さんはちよこさんを脅かしたかもしれやせんが、実際のところそんなに人間の血を欲しているわけではないんでさぁ」

「どういうこと?」

「吸血鬼ってのは、人間の血を吸いやす。吸血鬼にとって一番、都合がいいのが戦時中でさぁ。戦死しそうな人間の血は甘美らしく、特需といっていいくらい戦場には吸血鬼が現れるんでさぁ。でもその代わり、その分だけ多くの死を見ることになりやす。それに姐さんは過去に、愛した人間を自分の飢えを抑えつけられずに殺したことがあってですねぇ。以来、あまり人間の血は吸わないんでさぁ」

「ではなんで私を救ったの?」

 ごく自然と疑問が湧いた。

「さぁ、なんででしょうね……とにかく人死にが嫌いな方ですからねぇ、それじゃないですかねぇ」

「さっき言っただろう。お前をドナーにするんだ。それからクロウの言う通り、性欲を満たすのも悪くない」

 急に耳元でルルが囁いた。ルルは寝室に行ったはずなのに。彼らは音も気配もなく移動することができるらしい。

「やってみるか? 私も我慢ができない」

 とルルが挑発的に囁く。

 私から出た言葉は意外なものだった。

「いいよ。吸って」

 ルルが身を引くのを感じる。

「私、お姉ちゃんが死んじゃったのを見たの。それで、もうこれで、ほんとに私には居場所がないんだなって。この世界中のどこにもない。誰の役にも立たない。私なんて死んじゃえばいいんだって」

「冗談だ。けが人から血を吸うような真似はせんよ」

 ルルは明らかに嫌そうな声を出した。瞬間的に頭に血が上った。パニックに近い。

「さっき吸血鬼だって自分で言ってたじゃない! 血が欲しいんでしょ?」

 私は制服の袖をまくりあげて自分の爪で腕の内側を切った。もちろんそんなに出血はしない。剃刀でもあればよかったんだけど……。

「やめろ!」

 ルルの怒声とともに、腕を殴りつけられた。

「なんでよ? 殺すためにここに連れてきたんでしょ? 傀儡にするんでしょ? 性欲を満たすんでしょ?」

 頭のなかが真っ白になって自分でなにを言ってるのかも分からない。

「誰かの役に立つなら死んだっていいよ……ねえ、私も吸血鬼にしてよ……」

 私はなにかに取り憑かれているようだった。吸血鬼というアイデンティティが欲しかっただけなのかもしれない。途中からは泣いていた。ルルは少し押し黙ってから、先程の激怒とは打って変わって、重くゆっくりと言葉を紡いだ。

「腕を切ったかと思えば、次は吸血鬼か……残念ながらチョコ、君の思っている吸血鬼と実際の吸血鬼は全く別物だ。太陽光、特に紫外線に弱くなるからお天道様もまともに拝めなくなるし、映画のようにコウモリに変身することもできない。跳躍力は自分の身長の七倍ほどになるし、腕力も人間とは比べ物にはならなくなる。たしかに不老不死だが、その代償は大きすぎる。多くの者たちの死を横目で見ながら、自分だけは生き残る。彼らと紡いだ貴重な絆はいずれ無くなり、自分だけが覚えていることになる……この血は呪われたものだ。君に私と同じ苦痛は与えられない」

 ルルの冷静な言葉になぜか悲しい気持ちがやってきた。拒絶されたように感じられたのだ。勝手じゃないか。これじゃあ命だけは助けられたが、まるで連れて行かれた先は牢獄のようなものだ。

「なんでよ。なんでよ。これならあの時、死んだ方がよかったよ……」

 ルルが苛立ったのを感じる。

「バカ者。命を粗末にするな。お前はさっき、居場所はどこにもないと言ったが、それは世界中を旅でもして回ったのか?」

 ルルはもう怒りを隠さない。

「その腕をもう一度、見せてみろ」

 と言われて、強引にさっき切った腕を見られる。そこには私がずっと行ってきたリストカットの跡がある。ふっ、とルルは不機嫌そうに鼻をならしてこう言った。

「二度と同じような真似をするなよ。これは命令だ」

 初めて会ったときのような冷たい、軍人のような声。あのときも怒ってたのかな。

 ルルは泣き崩れる私をそのままにして、奥の部屋に行ってしまった。私はただただ悲しかった。役立たずで、無意味な自分、無力な自分が腹立たしかった。

 そっと羽音がして、隣にクロウが来たのを感じる。

「ちよこさん、姐さんを嫌わんでやってくだせぇ。姐さんは昔から感情表現が苦手なんでさぁ。こと、人間の血の話は嫌がるんでさぁ……いずれ分かりまさぁ」

 ありがとう。私はクロウに抱きついた。おっきくてあったかい。それから少し脂みたいな鳥特有の臭いがした。くっくっくっとクロウはルルみたいに笑った。

「あっしぁもう一回りしてきやす。少し眠んなせぇ」

 そうクロウは言って私に毛布をかけてくれた。クロウが飛び去ってから私はまた泣いた。

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