第3話 血と愛撫
一〇分ほど走ったのだろうか。いや、実際のところ、正確には分からない。頭はパニックだったし、足も痛かったし、バイクの轟音とルルから発せられる血の臭いのせいで時間感覚がなくなっていたからだ。バイクがゆっくりと停められた。そこは、私がさっき飛び降りた雑居ビル。奇遇。そう言うべきか。
旧式の小さなエレベーターで二階まで上がると、金属のドアに曇りガラスがはめられたドアがある事務所のようなところがあり、ルルは当然のように中に入って、ソファーに横になった。部屋は真っ暗でほとんどなにも見えない。私は恐怖を感じる。昔から暗いところが苦手なのだ。暗闇にいると否応なく自分と向き合わないといけなくなってしまう。寝る前に電気を消すのが嫌いだった。その日の出来事を反芻させるこの重たい空気が嫌いだ。
ルルはすぐになにかを飲んでいるようだった。それからライターをつける音がして、ルルがタバコを吸ったのだと理解する。
私も手探りでルルの向かいにあるソファーにへなへなと座り込む。その拍子に埃が舞い上がるのを感じたが、今はどんなところであっても腰を下ろしたかった。私とルルはちょうど向かい合うように座る。たぶんこの部屋が応接室で、奥に事務室があるのだろう。
「すまなかった」
ルルの最初の言葉。
「わたしこそ」
「真っ暗だな。これで我慢してくれ」
ルルは先程のライターの火をつけて、テーブルに置いてあったロウソクを灯した。ポケットから小さなキャラメルでも入っていそうな濃紺の箱を取り出した。手にすっぽり隠れるくらいの小さなものだ。そこからタバコを取り出して、机にトントンと叩きつけてからロウソクの火をタバコに移した。それで少しだけ部屋の様子が見え、おぞましいほど汚いことだけが分かる。散らかっている書類や、キャビネット、コピー機など……どれも現役とは思えない。それからルルが飲んでいるのもたぶん酒だ。瓶から直接飲んでいるが、その匂いだけで酔いそうなほど高濃度のアルコール。少女には似つかわしくなかったが、ロウソクの灯りのなかで、その粗野な姿にはどこか説得力のようなものがあった。
「チョコ、怪我は?」
「少し」
自然と、相手のことが心配になる。
「ルルは?」
「君が思うほど悪くはない。危ないところだった」
「病院とかには……」
「少し寝れば元にもどる。吸血鬼だと言っただろう」
「そうだけど……」
言葉につまった。姉の死、より具体的に言えばあの光景はまだ脳裏に焼き付いていたし、どう反応すればよいのかもまだ分からない……。
ルルは沈黙を破るようにして、そしてたぶんさっきの乱入者や姉のこと以外の話題を振ってきた。
「チョコ、君の最後の動きには感心した。あの反射神経は尋常ではなかった」
また言葉につまる。これを言ってもいいのだろうか。でも不思議と言葉がでてきた。
「あれ。私の体質なの。私、ときどきだけど、ほんの少し先の未来が見える時があるの」
「ならばもう少し早く教えてもらいたかった」
彼女は不満そうに鼻をならした。
「私もいつどれくらい先が見えるか分からないの」
「難儀だな」
ルルはまたタバコを吹かした。私の体質についてこんなに素っ気のない反応は初めてだ。普通なら冗談だと思われるし、そもそもほとんどの人には話さない。なかには、その事実を目の当たりにして、発狂する人もいた。
私にはいつ、どれくらい先のことが見えるか分からない。
「でもね、見えなかった」
もし姉があんな目にあうとわかっていれば、喧嘩なんかしなかったし、姉を一人、家に残すこともしなかった。
「そうか」
ルルは退屈そうに応じた。なにが? とは聞かなかった。
「私、ああなると分かってたら……」
涙で喉が締め付けられ、続きが言えない。
「そうか」
ルルは先程と変わらない抑揚で応える。
どうして……どうして……私はこんな力いらないとずっと思ってたのに、そのせいで母は死んだのに、どうして肝心なところは見せてくれないの。
気がつくと、ルルが私の横に腰掛けている。高速で動いたのだとは思うけれど音も風すらも感じられなかった。まるでさっきからそこにいたかのよう……そして私の顔を埃臭いハンカチがなでた。涙を拭いてくれたようだった。
ルルはまた「そうか」と小さくつぶやいて、その小さな身体で私を抱きしめ、背中のあたりをゆったりとしたリズムで軽く叩いてくれた。母親が子どもを慰めるように。血とタバコとアルコールのひどい臭いだった。私の呼吸が落ち着くのを待ってから、ルルはそっと話しはじめた。
「私は幼い頃に両親を亡くした。戦時中、それも第一次世界大戦の時の話だ。家ごと迫撃砲で吹き飛ばされた。家とはこうも脆いのかと思ったよ。民間人も軍人も関係なく無差別に殺された。私たち家族が住んでいた場所は戦略的な拠点だったのだろう。だが不思議なことに私は無傷だった。今思えば両親がかばったのだとは思う。二人の顔はもう覚えてないがな。私は死んだ兵士から銃を奪い取って敵に反撃しようとした。家は破壊され、両親も失った。ただ悔しかった」
そう言って、そのあたりにあった毛布を私とルルを包むようにかけてくれた。埃でむせかえりそうになる。私はルルがまだ続きを話すものだと思って耳を傾けたが、ルルは何も言わなかった。私は気になって「それで」と聞いてみた。
「先が聞きたいか?」
ルルはそう言うと、にやっと笑ってから新しいタバコに火をつけて、大きく吸ってから煙をこちらに吐いてくる。私は思わずむせた。その様子をみてルルはさも楽しそうに笑った。
「うまく煙に巻けたようだな」とルルは洒落を言うと、その洒落にまた笑った。
「え? 終わり?」
私はすっかり姉のことを忘れて聞いてしまった。
「そう、終わり。教訓も慰めもない。ただ悔しかった。それだけだ」
私は不思議な気持ちになった。私はルルになにも話していない。ただ泣いただけだ。でもルルにはまるで私の悔しさが分かっているようだった。ルルはタバコを何度か吹かしてから床でもみ消して、私の太ももあたりに頭を乗せて寝るようだった。
思わず声が出た。太ももの傷がうずいたのだ。ルルはそれも承知しているようだった。頭をひっくりかえして、顔を私の太ももに寄せるようにして私のスカートをまくりあげてきた。ぎょっとして私は急いでスカートを戻そうとするが、ルルの腕力の前では雀のさえずりよりも無力だった。
「血の匂いがするからな」
私はぎょっとした。生理だろうかと一瞬、頭のなかが真っ白になったが、ルルは私の太ももの傷を舐め始めた。舐められて気がついたが、その傷は太ももの外側に位置していてかなり深く切れていた。その瞬間から痛みが増した。
「気持ち悪いかもしれないが、少し我慢してくれ。私の唾液には人間にはない殺菌作用と鎮痛作用、治癒作用がある」
そう言われても、この状態はどうみてもアレでしかない。私はまた緊張し始める。
「大丈夫」
ルルは毛布の中から頭だけだしたかと思うと、私の唇を奪った。それも舌をなかに入れるようにして。一瞬の緊張のあと肩の力が抜けるのを感じる。口にはアルコール特有の甘みとルルのぞっとするほど冷たい舌の感触だけが残る。
そしてルルはまたすぐに毛布の中に頭をいれて、私の傷の手当に移った。ぺちゃぺちゃという舐める音だけが、部屋に響き渡り、先程ルルが飲んでいたアルコールとタバコの匂いが漂っている。
「あ、あのさ、えと……」
私は恥ずかしさで胸が音を立てているのを感じた。
ルルは私の傷を舐めている。彼女の冷たい指が太ももを撫でる度に、私の身体はびくりと反応した。
「痛いか?」
私が身体をびくつかせたからだろう。彼女は心配そうな声を出す。
「少し……でも、大丈夫」
「なら続けるぞ」
「う、うん」気まずくなって、私はなにか別のことを考えようと思った。思い出されたのは、小学生くらいのことだろうか。生物学者であった父の研究室にあったメスのようなもので遊んでいたときに、誤って同じように太ももを切ってしまったのだ。それを見つけた姉がすぐに傷の手当をしてくれた。私は怒られると思って身構えたが、姉はなにも言わずに傷口を水で洗い流してから、ワセリンをつけてラップで保護してくれた。
「お姉ちゃんがね、昔、同じようにしてくれた……」
「こうやってか?」
ルルは少し笑ったような声とともに、冷たい指で傷とは関係ない股間のあたりに指を這わせる。その指の動きはまるで……私は思わず身を引いた。頬が熱くなる。私は苦し紛れに言葉を続けた。ちょっと濡れそうだったからだ。
「お姉ちゃんはね、私には未来のことが見えるって言ったときも、ただ静かに聴いてくれたの」
ちょうど今のルルのように。
「お母さんは違った。最初は冗談でしょって笑ってた。でもね、それが本当だと分かると、私から離れていった……」
彼女に悪意がなかったのはわかっている。誰だって未来のことが分かるなんて話を聞かされたら驚くし、自分の未来の行動が見透かされていい気持ちはしない。
またルルは傷とは関係ない場所を舐める。まるで男の人が私に欲情しているようにさえ感じた。
「ちょ、ちょっと!」
声を少し荒げた。それでもルルの愛撫は止まらなかった。私は興奮していることに気がついた。そんな場合ではないのに……。次第にルルの目的が傷を治すことではないような気がしてきた。明らかに私の肌を撫ぜる指も、舐める舌も……どうしよう……。
私がそれを受け入れようかと思った途端、彼女はスカートの中から頭をのぞかせた。たぶん私が顔を真っ赤にしていたからだろう、可愛いなと言って熱をもった耳を軽く撫ぜた。
「チョコの血は最高だ。よく吸血鬼は処女の生血を好むと言うがあれは半分は本当で、半分は誤りだ」
「どういうこと?」
「処女の血が必ずしも美味しいとは限らないし、そもそも血から処女かどうかなんて分からない。そういう意味で吸血鬼は女の血が好きだというのは誤っている。しかし、血に好き嫌いがあるというのは確かだ。血は心臓から生まれ生命に直結している。生きようという意志、それが血だ。今のチョコの血は格別だ。なぜなら先程、死を身近に感じて生きたいと願ったからだ。それに加えて、生まれ持った匂いのようなものがある。その匂いは香水のように我々を惹きつける。だからルネもやってきたのだろうが……」
「あの長身の?」
「そうだ。あいつはお前の姉の血の匂いに惹かれてきたのだろう。もしくはチョコを襲おうと思っていたのか、どちらかは分からないが少しの間つけられていたようだ。やつはファミリーという吸血鬼研究の組織の飼い犬だから、もしかしたら組織の意図があったのかもしれない。いずれにせよ、私としたことが気がつかなかった。その意味でもすまない」
「ファミリー?」
「そうだ。私の敵でもある組織だ。ルネはもともと私の弟だったが、やつらに口説かれて向こうに属している」
敵という言葉に嫌なものを感じた。
「ところで、なぜルルは私を助けてくれたの?」
「なぜ二度も助けたと思う?」
そう言われてみれば不思議だ。ルルはあんなにも私をかばってくれた。
「恩返しだよ」
ルルが耳元で囁く。
「我々、吸血鬼は人の血をすする。だがそれは生きるためではない。いわば精力剤のような働きがあり、我々の本能を刺激し感覚をより鋭敏に、肉体をより強靭に保ってくれる。そのためには良質な血が必要だが、現代となってはそうそう人を襲うわけにもいかない。そこでチョコ、君だ。君は一度、死んだ。これからは死んだものと思って生きてほしい。食料など必要なものは提供しよう。その対価に君の血がほしい。いま、舐めただけでも私の中の本能が騒ぎ立っているのを感じる。もっと吸いたいとね……」
私は恐怖を感じた。もし血を吸われ続ければ死ぬ気がしたからだ。
「もちろん、君を殺すほど吸いはしないから安心してほしい。君の血には不思議な魅力があり、吸血鬼にしたらさぞ優秀な力を発揮するだろうとは思うが、私にとって君の価値はその生身の血液だからだ」
「私も吸血鬼になるの?」
ルルは声を立てて笑った。
「映画の見過ぎだ。血を吸うだけで吸血鬼になるわけがなかろう。吸血鬼になるためには血を交換する必要がある。つまり私がチョコに血を流し込まなければならない。そしてそんなヘマはしないからそこも安心したまえ。なにより……」
となにか言おうとしてルルはやめた。
「なに?」と問いかけたが「なんでもない」と返されてしまった。
「私は、吸血鬼という生き方があまり好きではないとだけ答えておこう」
と補足してくれた。
痛みが引いていくのを感じる。私は少し息継ぎをした。もちろんそれまでも息はしていたのだろうが、息継ぎをした。彼女はそのタイミングを狙って、再度、口づけをした。息が詰まるかと思った。彼女の舌もまた冷たかったが、私の口のなかで動くのを感じる。それから彼女の唾液が入ってくる。頭が朦朧としてきた。
「少し眠くなったか」
接吻を終えたルルは私の状況をすべて把握しているようだった。
「私の唾液にはそういう効果もある。寝ている間にすべての傷を癒やしておく」
ルルがそう言い終わるか終わらないかのうちに私の意識は落ちた。
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