第2話 事件
私たちは何事もなかったかのように、並んで歩く。ルルは黒くてたぶん四〇〇ccはゆうに超えているバイクを押しているが、まるで自転車でも押しているように軽く扱う。たしかにこの街ではバイクや自転車が必須だが、ルルが押しているバイクは明らかにオーバースペックな感じがした。橋を渡る途中で私たちの道を照らすように街灯がつき始めた。
ルルは歩きながらこう言った。
「なぜ死のうと思った?」
「話せば長くなる」
と言ってから、そうでもないかもしれないと思い直す。
「自殺する理由なんてそこいらじゅうに溢れている」
ルルは独り言のように口ずさんだ。
「私の理由はその一つかもしれない。お姉ちゃんが私のこと、要らないって言った」
私はそのまま続ける。
「今日はお母さんの命日だった。ちょうど一年前にお母さんが死んだ。だから空気がピリついていて、お姉ちゃんがあんなこと言ったんだと思う」
「要らないと言われれば死ぬほど、お前は弱いのか」
「吸血鬼様には分からないかもしれないけど、私みたいな何にもなれない者には辛い言葉だった」
ルルはバイクを押すので両手がふさがっているはずだったが、片手を使って器用にタバコを取り出して、ZIPPOで火をつけて美味しそうにふかした。
ルルは返答しない。ただ沈黙がまるで眠れる動物のように横たわった。
ルルにとってこの話はこれで終わりなのかもしれなかった。理由を聞いてなぐさめるわけでもなく、共感するでもなくただ理由を聞いただけ。理由を聞いたからといって、なにか言葉を返さなければいけないルールなんて存在しない。
私は別のことを考えることにした。今後のことだ。なんと言って家に帰ればいいのだろうか、そもそもこのまま家に帰っていいのだろうか。姉は謝ってくれるかもしれないと思うと同時に、私は吸血鬼に恩返しをしなければいけなくなったことをどう伝えればいいというのだろう。
風が海の匂いを運んでくる。そろそろ家だ。
「その恩返しだけど……」
私がそう口にしたのを制するようにルルが鋭く言い放った。
「あそこがちよこの家か? 吸血鬼にはぴったりの家だな」彼女は〝ちよこ〟という発音が苦手らしく、ほとんどチョコと発音した。
そう。私と姉が暮らす一軒家。戦前に作られたレンガ造りの――自分で言うのもおこがましいけれど――お屋敷。けれど半分以上の部屋は閉めっぱなしで、手入れもしてないから蔦が生えて隣の人々にはお化け屋敷と言われているとか。加えて、家の背後には小高い山のような鬱蒼とした古墳があるのでこの部分だけ写真に撮ったら、どこか違う国のように見えるかもしれない。この古墳のおかげで戦争の時の空襲から守られたわけだけど……。
門の前でルルが後ろから私のお腹のあたりに手を回して勢いよくひっぱった。
「なに?」
私は危うく転びそうになって大声を上げてしまう。
「私を招いてくれ」
「どういうこと?」
「理屈は後で説明する。どうぞ私の家に入ってください。そう言え!」
彼女の声は荒く、ほとんど命令のようだった。とっさに反応する。
「どうぞ、私の家に入ってください」
そう言い終わるか終わらないかのちに彼女はこう言い残して走り出す。
「お前はここで待っていろ」
ルルは黒い風のように助走して家の門の上に飛び乗り、そこから一気に跳躍。二階のベランダへ降り立って、窓ガラスを割ってなかへ転がり込む。突然のことに唖然として、声も出ない。私はぽかーんと、ルルが置いていったバイクと一緒に取り残されてしまった。
待っていろと言われたから待っていたのではないが、結果的にはそこに立ち尽くしていると、今度はその窓が開いてなかからルルが手招きしている。
やっと現実にもどったように、私は走って家に駆け込んだ。一階はいつもどおり特に変わってなかったが、階段を上がる、その臭いで気持ちがわるくなった。
血の臭い。
見渡せばあたりは血の海で、そこに誰かが倒れていた。近づこうとすると、ルルがさっと私の前に立ちはだかった。
「見ないほうがいい。悪いことをした。もう息はない」
たぶんそれは姉だ。私には母も父もいない。私は死ぬつもりだったのだから、姉の死もまた受け入れたつもりだった。けれども実際に目にすると、悲しみの感情が湧いてきた。なんで私は家を出たのだろう。悔しかった。なにがあったのか分からないが、直感的に私が家を出なければこの事態は回避されたのではないかと思われた。
「どういうこと?」
たぶん私の声は震えていた。
「私の同族に襲われたのだろう。他にお前の家族は?」
「いない……」
「すまなかった」
ルルは少しうつむきながら、遺体から私を少しでも遠ざけるかのようにドアの入り口まで抱きしめるように軽く押し出したが、ルルの黒い服にもうっすらと血がついているようで怖かった。涙が頬を伝うの感じ、私は泣いているのだと理解した。だがその大きな感情に飲み込まれる前に、ルルの鋭い声がした。
「チョコ伏せろ」
そう聞くか聞かないかのうちに、乱入者がどこからともなく現れた。
「姉さん。こんな殺しなど王家の血が泣きますよ」
長身の男は金管楽器のようなよく響く声でそう言った。ルル同様に黒く長いコートをまとっているが、身長はルルの倍ほどあり、灰色のシャツに深紅のネクタイ、それを真ん中で突き刺している金色のタイピンがキラリと光った。それに今、姉さんって言ったような……。
「つけられていたみたいだな。そうでなければ入ってこれない」
彼女は小声で呟く。
「私ではない。お前だって知っているだろう」
ルルが私の前に滑り込むようにして回り込んで、まるで私を守るように対峙する。ルルは小声で私に「逃げろ」と言った。
「どうでしょう。この家の者の血は我々、吸血鬼を魅了する」
男はそう言うが早いかどこからともなく取り出した短剣のようなものを、昔の奇術師のように投擲した。それをルルは素手ではじく、次の瞬間に男はルルの前に潜り込むように現れたかと思うと、膝をまっすぐに突き出しルルの下腹部にめり込ませた。
その衝撃でルルは後ろに吹き飛び、私も巻き添えをくらって血のついたフローリングに倒れ込んだ。割れたガラスの破片が私の太ももあたりに刺さったのか、激痛と恐怖で身体が動かなくなった。ルルはすぐに体勢を立て直し、斬りかかる。
斬りかかるといっても、最初は高速で起き上がったようにしか見えなかった。それを相手の男が躱してはじめて、彼女の手にごついダガーが握られているのを見た。
動きが速すぎて私の目では追いきれなかったが、次の瞬間にはそのナイフを持った手は蹴り飛ばされ、漆黒の刃は薄い紙のごとく無力に宙を舞っていた。
明らかにルルの不利。なぜ彼女は逃げないのだろうといぶかしむ余裕もないほどに殴られ、蹴り飛ばされ続けている。逃げてと言いたいのはこっちだ。そう思ってから彼女が私の前方から動かないことに気がつく。私だ。この少女は私をかばっているのだ。この小さな体の少女は命を賭けて守ってくれているのだ。
そうなれば戦うしかない。だがあまりにも一方的だった。男はまたもやナイフを取り出し、ルルを刺さんとする。それを躱すと、打撃が入る。せめて致命傷を負わないようにしか動けない。だが殴打の度に骨の軋む、もしくは折れるような音が聞こえる。低く身体の芯に響くような音が響き渡る。そこには映画のような華麗な剣戟ではなく、チェスの早指しのような合理的だが肉体的な激突の連続が繰り広げられていた。相手の動きを読み、躱し、反撃をする。お互いに致命傷を狙うがゆえの、狙われるがゆえの沈黙とそこから繰り出される身体を駆使した鋭い運動。
唯一の救いは男が大柄ゆえのルルが小柄で小回りが効く程度か……。だが、あまりにもリーチが違いすぎる。もし懐に飛び込めば先程のように膝や肘、距離を置けばナイフ。つまり私がどれだけ早く逃げられるかが彼女の生死を分かつ鍵になる。
そうはわかっても、先程の衝撃と怪我で身体は言うことをきかない。爆音とともに今まで暮らしていた部屋が破壊され、ルルが傷つき、時々、男と目が合うなかでとても逃げることなどできそうもなかった。
それでも……それでも、なんとか身を起こす。大丈夫。怪我だって自殺に比べれば大したことない。階段を降りればすぐに出られる。身を起こした瞬間にルルのうめき声が聞こえた。
男の拳がみぞおちのあたりに深々と、ほとんど貫通しているのではないかという深度でめり込んでいた。ルルは口から血を流し、目の焦点が合ってなかった。それでも右手に構えたナイフを男に突き刺そうとする。男はその腕を掴むと、そのままへし折った。低い音がし、ナイフが床に落ちて高い音がした。
ルルの口元が動く。「にげろ」。
それだけはわかった。男は完全にルルに釘付けだった。ルルの首を両手で締め上げそのまま壁に押しつけようとしている。
その瞬間に私の中にあるヴィジョンが飛び込んできた。男がルルを押しつけようとしている壁はパーティションなのだ。そのため男は力余って、倒れ込む。次いで別のヴィジョンが飛び込んでくる。男のふくらはぎに深々と刺さったダガー。
私にはほんの少し先の未来のヴィジョンが時々、見える。私が自殺しようとしたのもこのためだ。だが今、この体質についてとやかく考えている暇はない。男はすでにルルの首を締め上げ、胴体まで持ち上がっている。
私のすぐ近くにルルが落としたダガーがある。ヴィジョンで見えたものだ。それを掴んで男の方へ近づく。男はパーティションにルルを押しつけて、二人共々倒れ込む。それにタイミングを合わせて、私は両手で握りしめたダガーを全身の体重をかけて男のふくらはぎに突き刺した。針金でも切ったようなすさまじい音がした。
ルルがそれを見逃すはずがなかった。今までの動きが嘘だったかのようにどこからともなく取りだしたダガーを男に突き刺し、同時に私を片手で抱きかかえて、二階から飛び降りた。
そのままルルは門前に停めてあった大型のバイクにまたがると、エンジンをフル回転させてその場から離れる。その間、私は抱かれっぱなしだ。折れたであろう右手で私を強く抱きしめ、同じくその手で器用にバイクを運転する。それもものすごい速度だ。二眼のメーターが速度を表示しているが、怖くて見られるものではない。バイクの低い音と、ルルからする血の臭いだけが感じられた。
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