死にたい少女は、吸血少女に拾われる。
清原 紫
第一章 すべては空しいか
第1話 生の代償
生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。
唯一の理由にもなる。
シオラン『告白と呪詛』
◆
屋上のフェンスを越えると立つ場所がなかった。最期まで居場所がないんだ。下を見る。突風が下から吹き上げ、スカートを揺らした。ビルとビルの間の狭い道が一つ。ここなら私が落ちても誰も気がつかないかもしれない……夕日がゆっくりと山陰に沈んだ。
◆
涙が乾いたのを感じてから制服に着替える。玄関に置いてあるアグラオネマに丹念に水をやり、葉を軽くなでた。家を後にし、駅近くの繁華街まで歩く。いつもは自転車を使う距離だが、今日はこのまま帰らないのだから歩こうと思った。
橋を渡ると街の雰囲気が変わる。シャッターの閉まった商店街のなかで生き残った安っぽいネオンのパチ屋の前を通り過ぎ、居酒屋が客引きを始めた頃合い。
私が登るのは、半分ほどの店が閉店してしまった六階建ての雑居ビル。主に商店街からなるこの街にビルは少ないが、この暗いビルは未だスナックなのか居酒屋なのか分からない店がまばらに運営されている。その狭い店のなかで、5、60代の男たちがすでに酒を飲んでいる様子が裸電球に照らされていた。
彼らは他に行くべきところがないのだろうか。
私の視線をかすめるように肥えたネズミが数匹走った。
昔、姉がこのなかのカラオケ屋に連れてきてくれた。あの頃は両親も生きていて、自分が幸せなんだということにさえ気がつかなかった。階段を一段ずつ丁寧に踏みしめる。最上階に着いた頃にはセーラー服が汗ばんでいた。屋上へのドアは閉まっていたが窓から這い出ると、少し冷たい秋風が頬をなでた。
なんでこんなことをするのか。自分でも呆れるけれど、ついさっき姉と喧嘩したから。一年前のちょうど今日に母親が死んで、父が失踪してからまだ学生の私は姉に依存していた。姉にすがって生きていた。そんなことは百も承知のつもりで、学校だって専門学校を選んで手に職をつけようとしていた。
なのに、姉は「お前が負担だ」と私に言い放ち頬をはたいた。そんなことわかってたよ……お姉ちゃん。その時に唇が切れて、まだ血の味が口のなかに残っている。身体はこの瞬間にも正常に活動して、この小さな傷さえも癒そうとしているのかと思うと健気だ。
目を閉じる。光景が一瞬、残像として残る。そのなかに私は黒い天使を見た。そしてなにもない虚空に一歩踏み出す。
私は死ぬはずだった。だが今はというと、色白な女性の胸に抱かれている。目を閉じていたから、風が頬を鋭く切るように吹き荒ぶのは感じた。そしてゆるやかな衝撃。だがそれは硬いコンクリートにぶつかったものではなく、まるで下にネットでも張ってあったかのように柔らかなものだった。
「名前は?」
彼女は私を気遣うのでもなく、怒るのでもなく、なんの感情もないようにそう言った。
「たちばな、ちよこ」
突然のことに私は素直に答えた。
「そうか、ちよこ」
軍隊の復唱のような冷たさ。
見上げるとその女性と目が合い、漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。肌は私よりもはるかに色が抜けるように白い、というよりも死後数日は経っているのではないかという青白さで、唇には生気がない。髪は脱色されたように白銀に輝き、長い髪が黒いリボンでポニーテールのように留められていた。粗野な美しさ。野生の動物を間近にしたような恐怖と好奇心の入り交じった感情が胸にあふれる。
「お前は死を覚悟し、飛び降りた」
「はい」
「つまり、こういうことだ。私はお前の命の恩人である」
唐突かつ論理の飛躍した発言に一瞬言葉を失う。風が彼女の匂いを運ぶ。どこか埃臭い、土のような匂い。
「私は、私は死ぬつもりだったのに……あなたはそれを邪魔した」
自分でも驚くほど冷静な言葉。
「私は選択肢を与えたつもりだったが。残念だ」
女性の目が猫の目のようにキラリと光を発し、口が大きく開いた。そこには蛇が持ち合わせていそうな鋭く尖った犬歯がはっきりと見て取れ、身体が恐怖で硬直した。
首筋に吐息を感じた次の瞬間、柔らかな感触がして彼女の顔は遠ざかった。
キスをされたようだった。今度は逆に顔が赤くなるのを感じる。
「なんだ。死にたくなかったのか」
少し笑ったような優しい声。
「死にたいわけない。死にたくなんてないよ。でも、私が生きていられる世界はどこにもない」
私は涙とともにそう口にした。
「そんなところだろうと思った。私はお前らみたいな連中が大嫌いなんだ。この世界をすべて見てきたような口ぶりで本当はどこにもいかず居場所がないと嘆く。あげく自殺を処世術の一つのように安直に考える連中がな」
「ならそのまま見殺しにすればよかったじゃん」
「無視? どんなに嫌いなやつであろうと、命が失われそうな瞬間を無視することはできない。それが道徳というものだろう」
「道徳? そんなもののために助けたというの?」
「たしかに道徳という言葉はよくなかったかもしれない……いわばポリシーのようなものだ」
「ポリシー?」
「そう、ポリシー」
沈黙が流れる。ポリシー? こいつはなにを言っているんだろうと改めて自分の体勢に気がつく。お姫様だっこされたままだ。
地面に降りて女性を見る。彼女は女性というよりも、少女に近かった。私よりも年下だろう。私の身長は女にしては高いとはいえ、それでも彼女は中学生くらいの背丈であった。服装は、黒のポンチョのようなコート、黒のドレスシャツ。黒ずくめ。
そんな小さな少女に体重数十キロ、雑居ビルの最上階から落下しつつある人間をキャッチするなどできるわけがない。彼女は人間ではない。理性と直観が一致して判断を下す。だが彼女は私を助けてくれた。恐怖と安堵という本来ならば相反する感情が混濁し、そのせいか私は幾分かの正気を取り戻した。
「そのポリシーとやらで私を助けたの?」
「そのとおりだ、その後改めて死の可能性を与えようとしたらお前は怯えたし、本当は死にたくなかったことがわかった。結局のところ、生きたかったやつを助けたのだから文句はないだろう?」
「でもそれは地獄を与えることだって気がついてる?」
「地獄? たしかに自殺志願者を助けることはそのまま辛い人生を歩み続けろという意味だし、それが私の選択だ。どんなに苦しくても生きていけ」
「そんな無責任なことなんてある? 死に際の人間を助けてまた戦場へ連れ出すことだよ」
「だからお前には生きる意味を与えよう。『恩返し』だ」
命を救ったのだからその恩を返せというのか。つくづく自分勝手なやつだ。私はどうやらなかば怒っているようだった。
「私にはお前の血が必要だ。それを分け給え」
「あなたは何者?」
「私か。私は吸血鬼のルル」
吸血鬼? 今の時代に?
「吸血鬼というのは便宜的な呼称に過ぎない」
「つまり?」
「そうだな。ちよこたち人間は、自分自身をホモ・サピエンス、つまり知恵を持ったヒトと呼び習わしているが、その程度の意味だ」
どの程度よ。そもそも私たちはたしかにホモ・サピエンスだけど、それを意識したことなんてほとんどないし、ホモ・サピエンスが知恵をもったヒトという意味だということさえ知らなかった。ああ、便宜的とはそういうことか。
「納得してもらえたようでなにより」
私は死のうとした。けれどどうやら吸血鬼のドナーのようなことをやらされるらしい。なんたる皮肉だろう。吸血鬼のドナーがどんな生活をしてどのように血を提供するのか、まさか献血のようにはいかないだろうから、首から血を吸われるのかもしれないが、それも悪くない気がしてきた。
少なくとも目の前のルルというやつは私を必要としてくれている。今はそれだけでいいのかもしれない。案外、生きる理由なんてこんなふうに与えられてそれに甘んじるほうがいいのかもしれないとさえ思った。
まじまじと少女を見ると幼さが残っている。
「なんだ?」
少女は私のことを見上げながら、というよりも睨むように見上げて言った。
「その……」
「その?」
言葉が見つからない。とっさに口をついて出たのはその少女への短絡的な感想だった。
「その、小さいと思って」
「余計なお世話だ。お前だって、そんなにないだろう」
「私、それなりに背高いと思うけど? あ、胸?」
睨まれた。ごめんなさい。程度の差こそあれ胸の大きさを気にしたことのない女子はいない。
「誰が、胸など気にするか! 帰るぞ! こんな汚いところにいたら腐ってしまう」
さっと顔をそむけて、そう言う。
「どこへ?」
くるっとこちらを向いて、小鳥が小首をかしげるように大きな黒い瞳でのぞき込まれる。美人な女の子にじっと見つめられるとドキドキする。
「お前の家に決まっているだろう?」
いくぶんか語尾のあがった、問い。
「たぶん、決まっては、ない」
「なるほど、ならば少し後からついて行くことにしよう」
「わかった。わかったよ」
よく喩えとして死ぬよりマシと言うが一日に二度も死に損なうと「どうにでもなれ」と投げやりな気持ちになる。これを人は蛮勇と言うのかもしれない。
ビルとビルの細い隙間のような道を二人で歩くと、足元に鉢植えがころがっていた。土は乾き、そこに生えていたであろう植物は枯れていた。
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