撫でてみた。
早朝に目覚めた。
久しぶりにスッキリとした目覚めだ。労基署に報告できないレベルの時間、労働をしていた頃に比べれば、生活習慣もかなり改善している。それでも、心は完全回復してくれない。
枕元に伏せて置かれたスマホを取ると、時刻は午前4時を過ぎた頃合いだ。
カーテンの隙間から外を覗く。どうやら私は、太陽が地平線の向こうから顔をのぞかせると同時に目覚めたらしい。なんとも健康的だ……、と言いたいところだが、僅かな太陽光にも反応してしまうほど眠りが浅いだけともいう。私の明日はどっちだ。
「顔でも洗うか」
宣言して、洗面所へと向かう。
気合を入れないと動けない日ってあるよね。
「難儀な性格だこと」
ぱしゃぱしゃと顔を洗って、お茶で喉を潤す。
寝室に戻ると、一人暮らしだった部屋にふたりも住民が増えていた。しかも、部屋の主の私よりぐっすり眠っているようだ。
片方はユリシス、もうひとりの私だ。彼女と一緒のベッドで寝るのも慣れてきた。夏場に蒸し暑いのは勘弁してほしいけど、私達が細身なせいもあってか、意外とシングル用のベッドでも並んで眠れるものだ。問題は、その横。床に寝転ぶ少女。押し入れから引っ張り出した厚めのシーツと、春用の布団で眠る小柄な彼女が、私の新たな頭痛のタネになりそうな予感がしている。
能井葉良、またの名をロゼという従妹だった。
黙っていれば可愛いけれど、口を開けばとんでもない爆弾発言をかましてくる子である。幼少期にした結婚の約束だけを頼りに、数年間会ってもいない従姉のもとに電撃訪問をかますのだ。私には理解が難しい。常識が欠けているだとか、世間知らずなのかとか、彼女の行動に対して文句を並べるのは簡単だ。だが、ユリシスが彼女を受け入れている以上は私もロゼを無暗に追い払うのはやめておこうと思った。
「何か、理由があるのかもしれないし」
親戚の誰にも相談できず、悩んでいる可能性もゼロじゃない。ロゼだけに。
「我ながらサムいことを……」
誰も私のダジャレを聞いてないのだけが救いだ。
それにしても、ロゼはよく眠っている。
従妹の少女は、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返していた。昨日は僅かに覗いていた目元のクマも、眠っている間に回復している。若いってのはいいなぁ、とまだ若いはずの私は従妹を羨んでみた。私に無尽蔵の体力があれば、と想像しかけて首を横に振る。どうして残業時間が今以上に増えていく妄想をしたんだ。これ以上仕事が増えるのは勘弁してくれ。
ぐっと込み上げてくる吐き気を、無理して飲み込んだ。
「……ふぅ」
そっとロゼの頬に触れる。ふに、とした感触が指先に伝わってきた。
趣味がない私は時間を持て余し気味だ。ふたりを起こすのもアレだな、とテレビもつけずにぼーっと時間を過ごす。午前5時を過ぎたあたりで、ユリシスがもぞもぞと動きだした。寝惚け眼で枕に顔を埋める彼女の隣に移動して、自分と同じ顔、その耳元に唇を近づける。
ふっ、と息を吹きかけた。
「おはよ」
「っ……。ぞわぞわするんだけど。やめてよ」
「暇なの、退屈なの。構ってよ」
「あーもう、はいはい。おはよう」
ふあぁ、と大きな欠伸をしてユリシスが身体を起こした。
ロゼが目覚めるまでに、私達は朝食の準備をする。休みの日ということもあって、いつもより少しだけ手間暇をかけてみようという話になった。
仕事をふたりで分担して、時間に余裕が生まれたことで料理に手間を掛けられるようになった。シリアルと牛乳だけの生活も時間に無駄がなくて素敵だが、心に潤いを求めるなら他にも美味しいものがいっぱいあるはずなのだ。
何を食べようかと冷蔵庫を漁る。適当に卵でも焼くかとプラカップに手を伸ばしたら、ユリシスが腕を重ねてくる。私の背後から、彼女は冷蔵庫に押し込まれていたレタスとトマトを手に取った。無理な体勢をしたせいで、バランスを崩したユリシスの手が私の胸を弾く。ぽわんと効果音が出そうな場面だが、乳を叩かれただけなので普通に痛い。
文句を言う代わりにユリシスの胸にあれやこれやをしてお終いとしよう。
一連の動作が終わった後、彼女は耳まで真っ赤に上気していた。
「ばかっ、しねっ。今のはわざとじゃなかっただろ!」
「そこで殴り返すあたり、本当にユリシスは乱暴者だね」
「お、お前が悪いんだろ……。こっちはちょっと触れただけなのに」
「あんなにヒドいことをしておいて、故意じゃないからで済ませるつもり?」
「う、ぐっ。だからって、あんなに揉まなくても……!」
ぷりぷりと怒るユリシスは、身体を這った指の感触を思い出して身震いした。睨みつけてくる彼女の視線は時折、私の胸へと注がれる。やはりこいつはむっつり乙女だな、と評を下した。
ふたりで怪しいことをしているうち、床に転がしてしまったレタスとトマトを拾い上げる。綺麗なものだ、ホコリひとつついてない。昨日、丁寧に床掃除をしたおかげだろうか。このまま食べてしまおうかとトマトを見つめていたら、横からユリシスに取り上げられてしまった。
「朝ご飯に使うから、食べちゃダメだよ」
「えー。朝からサラダなんて食べたくないんだけど」
「それは私も一緒だわ。いや、サラダなんて作らないから」
ユリシスは私から取り上げた野菜を水洗いすると、まな板や包丁を取り出した。器具にも軽めの消毒を済ませてから、ユリシスが野菜をカットしていく。
横で見ているだけでは、何を作るのか見当もつかなかった。ユリシスは鍋としても使える底の深いフライパンを取り出してお湯を沸かす。彼女の作業を眺めながら、果たして何を手伝えばいいのかと考えた。
彼女が戸棚から顆粒のコンソメを持ってきたので、スープを作るのだということは理解した。夏場こそ、朝には味の濃いものを食べろとネットニュースでもやっていた。
「トマトスープ作るの?」
「違うよ。ミルファンテだよ」
「何それ。牛乳でも使うの?」
「卵とチーズとパン粉で作るスープだな。この前、偶然知ったの。そこにトマトとレタスを入れてアレンジするって寸法よ」
にししっ、とユリシスが楽しそうな顔をした。
名前と材料を聞いてもパッと味が想像できない。なんとなく黄色っぽいスープだろうなと絵面は浮かぶけど、そこにトマトとレタスが加わったことで却って想像の解像度が下がってしまった。黄、赤、緑と並べば信号機だ。栄養バランス的には黄と緑しかないけれど。
知らない料理の手伝いをするのは難しいから、ユリシスの作業を後ろで眺めながらミルファンテのことをスマホで調べてみた。というか、検索履歴にもバッチリ残っている。昨日のうちにユリシスが調べたのだろうレシピにもトマトを入れた方が美味しいと記載があったが、レタスにかんしては彼女のオリジナルアイディアらしい。
「イタリア風のかき卵スープなのね」
「うーん……。まぁ、そう言えなくもない? のかな」
「何で疑問形なのさ」
言い出しっぺのお尻を叩いて、料理の進捗を窺う。
コンソメを溶かしたスープに、トマトとレタスを入れて火を通しているところだった。野菜の歯ごたえを残すためにサッと湯通しして終わりという人も多いだろうが、私はくたくたになるまで茹でた野菜が好きなのだ。ユリシスも一緒で、ちゃんと同じ小町夢佳なのだと安心できる。過ごす時間が長くなるほど、同じなのに違うって感じる部分も多くなってしまったから、だろうか。
野菜に火が通った後、ユリシスがボウルで溶いた卵を鍋に入れる。
「ん? 何か混ぜてあるね」
「パン粉とチーズだよ」
「あぁ、言ってたやつか。先に混ぜておくんだ?」
「その方がいい……らしい? 最初だしレシピ通りがいいかなって」
「既に材料が違うけどね」
ツッコミを入れながら、ユリシスに背後から抱き着く。タネに具材を混ぜ込んでおくところは、若干、お好み焼きを作るのに似ている。いや、全然違う料理なんだけどさ。
スマホで調べた調理工程と比較してみたが、ほぼ完成に近いようだ。ちゃんと卵にも熱が加わったのを確認して、ミルファンテの完成と相成った。レシピだと最後にパセリを浮かべたりもするみたいだけど、そんなお洒落アイテムは常備していない。実家になら、あったかもしれないけど。
お椀を用意していたら、ロゼが起きてキッチンへと出てきた。まだ眠いのか、目元をごしごしとこすっている。跳ねた髪の毛のせいか、体調が悪い日のユリシスによく似ている。それはつまり、私にも似ているということだ。親戚の割に、繋がっている血は濃いのかもしれない。
「おはよう、ロゼ。朝ご飯、食べる?」
「は……。ぃ…だき……す」
「おねむモードじゃん。可愛いな」
「そーで……す、か?」
ロゼは私とユリシスの顔を見比べると、ぼんやりとした目つきのまま首を傾げた。
何事かを呟いているが聞き取れない。寝惚けているせいか、ふらふらと足取りもおぼつかない様子なので、私が手をひいて椅子に座らせた。ぽわぽわと空に浮かんだ雲みたいな雰囲気を纏いながら、ロゼはスプーンを手に取る。そして、ひとくち食べた途端にぱちっと目が開いた。ぱくぱくと勢いよく食べ始めた彼女に、料理人のユリシスがくすりと笑みを漏らした。
「めっちゃ美味しいです、お姉様!」
「ふはっ、それは何より」
「卵スープに、パン? 面白いですね」
「ふふん、作り方も教えてあげようか」
上機嫌になったユリシスが、ロゼのお世話を始めた。
ミルファンテは、少女の口に合ったらしい。お腹が空いていたのか、あっという間に平らげてしまった。ロゼがおかわりを要求する横で、私も自分の分に手をつける。思っていたよりも美味しかった。トマトの酸味が効いていて、コンソメは濃い目で、食欲のない朝でもするすると食べられてしまう。面白い料理を見つけてきたものだ、とユリシスが引き寄せた偶然に感謝する。
食後にココアを飲みながら、みんなでまったりした時間を過ごす。甘い香りに紐づいた仕事前の憂鬱が、家で過ごす穏やかな時間に塗り替えられていく感覚を楽しんだ。
ぼんやりとユリシスを眺めていたら、ロゼが私の袖を引いた。
その目は、好奇心に輝いている。
「どうしてお姉様はふたりに分裂したんですか」
「こっちが聞きたいよ。神様からの素敵な
「というか、本当に疑わないんだな。顔が似ているだけの別人かもだぞ」
「そうね、私達が嘘を吐いているかもしれないし」
「それはないです。私の魂が、お姉様はふたりいると告げています!」
びっと指を立てたロゼは、自信満々の様子で断言した。
根拠のない自信だが、それも子供らしくて羨ましい。
ココアが空になると、ユリシスが身を乗り出してロゼの顔を覗き込んだ。
「それで、私達に会いに来た本当の理由って何だ?」
「えー、言ったじゃないですか。お姉様と結婚したいんです!」
「あー、それはそれ。他にも理由があるんだろう?」
「……ロゼ、隠し事は為にならないわよ」
ユリシスが逃げ道を塞ぎ、私が釘を刺すと、ロゼの顔が徐々に曇っていく。未成年の従妹に心的負担を掛けまいと、ユリシスが彼女の頭に手を乗せた。優しく頭を撫でられて、今にも泣きだしそうになったロゼは、小さく唇を震わせて言うのだった。
「あの、お姉様にお願いがあって……」
どうせロクなことではないだろうと予想しながら、それでもロゼを助けようと思ったのは――。
きっと、ユリシスが彼女を助けようとしているからだった。
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