2:知らないもの

忘れてみた。

 限界社畜あるある。

 貯金の使い道が思い浮かばない。

「いや、だって、趣味とかないし……」

 夏の夕暮れ、私はアパートへの帰路を急いでいた。

 蝉時雨を全身に浴びながら、だらだらと汗を流している。学生の頃は友達に勧められるまま制汗剤をつけていたし、社会人になってからも夏場はそれなりに気を遣っている。会社に長時間拘束されることもあって、身体的なケアは欠かせないのだ。

 けれど、完全にオフの休日となると、どうしても気が緩んでしまう。夕方とはいえども、クソ暑い真夏に外を出歩くのに対策をひとつもしないなんて。習慣化していないアレやソレやを思い浮かべて、げんなりした。

「あっつぅ……」

 自転車のペダルから足を離して、路肩に停まる。

 額の汗を拭ってから、再び発進した。

 今日は私が休みで、ユリシスが出勤している。明日は週末だから、ふたりともお休みだ。そのお祝い、なんて大それた話でもないのだが、晩御飯をちょっとだけ頑張ってつくってみようとスーパーへ材料を買いに行った。今は、その帰り道だ。

 前カゴに乗せたビニール袋には、気の向くままに買った様々なものが詰め込まれている。ビニールはパンパンに膨らんでいた。毎日仕事に行っていた頃の名残なのか、スーパーへ寄るとまとめ買いしてしまう癖がある。かといって必要なものをメモしているわけでもないから、この前みたいに冷蔵庫の中身が底をつきかけたりもするわけだ。

 買いすぎたり、その逆をやらかしたり。

 うーむ、私は本当に安定しないな。

「にしても、マジであっちぃなぁ」

 呟いた愚痴すらも、夏の熱気で茹で上がりそうだ。ひび割れたコンクリートは緩やかに熱を放射し続け、街は今夜も熱帯夜になることだろう。必死こいて緑地化計画をするほど都会じゃないけれど、ヒートアイランド現象を無視できるほどに田舎でもない。微妙に居心地の悪い街だった。

「……いや、暮らしやすいけどね。遊ぶとこも多いし」

 誰に向かってか分からない言い訳を呟きながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。どうやら私も、夏の暑さにやられてきたようだ。歩道と車道の境目を乗り越えると、ビニール袋の口が緩んだ。中から覗くのは、艶やかな色をした茄子だ。

 晩御飯にいいものを食べようと思ったのは、社畜生活で貯まったお金を、少しずつでいいから使ってみようとしたからだ。使わなければ、お金は価値を生まない。だけど趣味が少ない私は、お金の使い道も思い浮かばなかったのだ。

 家に籠ってアニメやゲームに散在するでもなく、舞台やライブに出掛けるほどアクティブでもない。旅行も、ファッションも、なーんにも特別に熱意をもって打ち込めることがない。興味関心の名の下に広く、浅く拾っていたら、手元には何も残らなかったパターンである。

 色々考えた結果、美味しい食べ物なら後腐れもないだろうと思った次第である。他にもお金の使い道はあるだろうけど、家と会社を往復するのが基本の生活をしていたせいか、マジで何も思い浮かばなかったのだ。社会人として数年過ごしてきたけれど、私の中身は世間知らずのお嬢様なのである。……そろそろ、胡乱なことを口走りすぎて怒られそうだ。

 真面目な話、美味しいものを食べようと決心した程度で生活がガラリと変わるわけじゃない。新しい飲食店を開拓するにも様々な準備がいるし、食べたことがない食材に手を出すのも勇気がいるものだ。ドラゴンフルーツが店頭に並んでいたとして、ノータイムで手に取ってレジに向かえる人はかなり高レベルな勇者だと自覚した方がい。

 知らないスーパーへ突撃するにも度胸が必要だ。私の住む地域だと、成城〇井とかがその代表格だ。カ〇ディですら私には敷居が高い。カル〇ィに関してはパンダ図柄のパッケージが印象的な杏仁豆腐だけは買いに行くけど。あれはとても美味しいので、あのよく分からない店内装飾に我慢して足を運んでいるのだ。問題はちょっとお高いことと、よく分からん店内を迷わずにレジへ向かえるのか、だった。

「また今度、買いに行かなくては」

 決意も新たにしたところで、長い帰り道も終着点を迎えた。

 アパートの駐車場に自転車を停め、自分の部屋へと向かう。今日の晩御飯は麻婆茄子だ。よく分からんブランドの茄子を、普段は買わないちょっとお高めの挽き肉を使って炒める。果たしてブランド品に値段相応の価値があるかは不明だが、ナスとひき肉って相性抜群なんだよね。

「めっちゃ美味しく作って、ユリシスを驚かしてやろう」

 ふんすと鼻を鳴らし、気合も十分にアパートの階段を上る。

 二階の、いつもの部屋の前。

 私の部屋の前に、誰かがいた。

 見たこともない女の子だ。中学生と高校生の境界に立っているような、幼げな雰囲気の少女がいる。知らない少女は扉の前で座り込んで、退屈そうに膝を抱えていた。迷子がうろつくにも場所が場所だ。私に用事があるのだろうか。

 いくつか受け答えを考えてみたが、年下の知り合いは多くない。どうしようかな、と悩んでいる間にも額に浮かんだ汗が垂れてくる。ハンカチで拭って体裁を取り繕いながら、なるべく澄ました表情を作った。

 逃げられない相手には、先制攻撃を仕掛けるべきだ。

「どうも、こんにちは」

 こんばんは、には早いよな? と迷いながらも挨拶をする。宗教の勧誘なら、こんな子供を使ってはこないだろう。

 私の声に反応した少女は、みるみるうちに表情を明るくした。満面の笑み、なんて言葉は彼女のためにあるんだろう。すっくと立ちあがって、ずんずんと足音も高らかに近づいてくる。

 小柄な少女だ。距離が近づくほどに、童顔の印象も強くなる。こんな可愛い子、私の知り合いにいただろうか。考えているうちに少女は私に触れられるほど近づいて、ややぷにっとした丸い手を差し出してきた。

「お久しぶりです、お姉様!」

「…………」

 逃げるか、通報するか、どっちにしよう。

「あれ? あたしですよ。覚えてないんですか?」

「いや……。えっと……。ごめん」

「えっ。ええっ、ウソだぁ!?」

 少女の真っ直ぐな問いに、私は答えを返せなかった。天真爛漫な微笑みが徐々に曇っていくのを眺めながらも、警戒を緩めることができない。少女よ、これが大人になると言うことなのだ。という冗談はさておくとして。

 この子、誰だ?

 マジで覚えがないんだけど。

 ぷるぷると潤んだ瞳が私の良心を突き刺す。

 背格好や化粧っ気の薄い顔つきを見る限り、私より年下であることは間違いない。彼女も私のことをお姉様と呼んだし。しかし、私に妹はいない。存在しないはずのもうひとりの自分と一緒に暮らしている私が言うのもアレだが、それだけは嘘じゃない。信じて欲しい。

「ええと、あなたは……」

 ダメだ、候補の顔すら浮かんでこない。記憶喪失のフリをしてこの場を逃れようかとも思ったが、この手に抱えた晩御飯の材料が腐るまでほっつき歩くつもりか? それこそ意味がないだろう。

 ふらふらとよろめいた少女は、私の反応を見て何かを察したらしい。みるみると顔を歪ませていくと、ついには泣き出しそうな目でこちらを見つめてきた。

「夢佳さん、本当に私を忘れたんですか?」

「いや、待って。考える時間を頂戴」

 ちらりと私の部屋の扉に視線を向ける。

 そこに表札はない。十年前ならいざ知らず、今時は表札を掲げない家の方が多いだろう。妙なトラブルに巻き込まれないためにも、その部屋に誰が住んでいるのかを知られないように過ごすのが当然という雰囲気がある。だが、彼女は私の名前を知っている。住んでいる部屋も特定していた様子だ。どうやって知った? 私は名乗ってないし。まさか、郵便物を覗き見たのだろうか。

 悪辣な妄想が脳内を反芻するけれど、私はそれを振り払うように頭を振った。いくらなんでも考えすぎだ。それに、目尻に涙を滲ませた少女は――なんというか、弱っちい子供にしか見えなかった。

「うぅ、お姉様。ひどいですよ~」

「わっ、ちょっと」

「あたし、お姉様に会うの、ずーーーっと我慢してたんですよ!」

 ぴえぇと小学生みたいに泣きながら、少女が私へと飛びついてきた。慌てて、荷物を持っていない方の手で少女の額を押さえる。べちんと音がして、少女が後ろに飛んでいった。驚くほど手ごたえがない。

「ひっ、ひどい! ひどいです!」

「いや、今のは……」

「こーなったら、意地でも思い出させますから!」

「ちょっと。少しくらいヒント出しなさいよ」

 めげずに飛び込んできた彼女を、もう一度片手で受け止める。本当に貧弱な少女だった。荷物のせいでバランスも悪く、そもそも体調だって万全とは言い難い私ですら片手で彼女を押し留めておける。試しに踏み出してみたら、少女は弾かれるようにして飛んでいった。

 何度も押し問答を繰り返す。彼女は真剣に突っ込んできているみたいだけど、こちらは鼻歌混じりに対応できるほど弱いタックルだった。マジか、こんな子がいるんだなと妙な感慨に浸る余裕すらある。

 やがて、根負けした少女が泣き始めた。

「ひぐっ……。うぅ……」

「涙を流すより先に、名前のヒントくらい出しなさいって」

「うぐっ……。イヤです。意地悪なお姉様には教えません!」

「な、なんて困った子供なんだ」

 休憩所に行ったきり帰ってこない部下と同じくらい扱い辛いぞ。

 涙を流す彼女を前にして私は途方に暮れていた。

 名前も知らない少女を相手に、私は何をすればいいというのか。ともかく、部屋の前で泣かれては迷惑だ。相手が未成年っぽいのもあって、この場面を通報されたら私の方が悪者にされかねない。声を掛けようと手を伸ばす。その瞬間、背後から聞こえた声に私は思わず振り返った。

「アゲハ、なんで子供を泣かせてんの?」

「ユリシス! 今日はめっちゃ早く帰ってきたじゃん」

「明日が全停日で業者のメンテが入るからな。他の奴はもっと早く帰ってるよ」

 そういえばそうだった、と出勤カレンダーのメモを思い出す。

「……で? この子は?」

 ユリシスが顎をしゃくる。

 肩をすくめて返答を濁した私の隣に立って、ユリシスも少女の顔を覗き込む。出所不明の少女は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を、今度は驚愕に染め上げた。そして、信じられないものを見たと言わんばかりに目を見開く。

「お、お姉様が増えた! ふたりいる!」

「おっ、いい反応だね。私達が双子じゃないと知っていないと出ない言葉だ」

「そういうものかな……。あ、ユリシス、大変」

「驚き過ぎて気絶したな……。私達は真夏の怪談か?」

 ユリウスが少女に近付いて、そっと顔を覗き込む。名乗ることもなく失神した彼女の額に触れたユリシスは、あっと声を漏らした。なんだなんだ、と私が見守る中、ユリシスが少女を担ぎ上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。

 そのまま部屋に入ろうとして、鍵が掛かっているからと私に振り返る。

「開けてよ、アゲハ」

「その子、どうする気?」

「とりあえず、部屋で休ませよう。だって」

 少女の正体に気付いたらしいユリシスが、困ったようにはにかむ。

「だって、この子はの従妹だから」

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