弱ってみた。

 少し、寒い。

 夏風邪をひいたかもしれない、と枕元の体温計を手に取る。真っ白な棒切れを脇に挟むと、ひんやりとした肌触りに思わず身震いをした。

 平熱が低めの私は、36℃を超えた辺りから体調が悪くなる。36.5℃なんて出た日には、ほぼダウンしてしまうほど熱に弱い。低体温症というやつだった。まぁ、それでも出勤してたし、労働時間の月平均はご存じの通りの230overだ。先月分の勤務時間も計算し終わったけど、労基署に怒られるのでここでは言えない。そういう感じの生活を続けているから、こんな体調不良も起こすのだ。

「いってぇ……」

 頭の奥に、ズキズキと痛みが走る。嘘だ。痛みは走るものじゃない、頭の奥に居座ってじっとこちらの様子をうかがってくるものだ。私からの退去命令を無視して、ここにいるぞと声高に叫んでいる。割れるような痛みと、灼けるような痛みが共演していた。

 ピピピ、と体温計が可愛い音で鳴く。薄眼で確認してみると35.5℃だった。微妙だな、と顔をしかめる。舌打ちをして、体温計を元の場所へと放り投げた。

 私にとっての35.5℃は平熱といって差し支えないので、体調不良の原因は風邪ではないらしい。まぁ、予想はしていたけど、風邪なら大手を振って休めるだけに残念な気持ちになる。

「……すぅ」

 息を吸い込むだけで、少し辛い。

 飲み込んだ空気が肺に届かず、胸を左右にこじ開けるような感覚がある。頭の奥の痛みを抱えている部分を起点にして、身体がバラバラになるような感覚だ。浅い呼吸を繰り返して、ぐねぐねと歪む視界が落ち着くのを待った。

 やはり心の病気ノイローゼだろうか。昨晩もユリシスと楽しく話し込んでいたから、ストレスに関してはかなり軽減されていると思うんだけどな。もうひとりの私とふたり暮らしを始めてから、毎日が劇的に楽しくて明るいものに変貌した。それでも、これまでの苦痛が完全に癒えるには時間が掛かるってことだろうか。

「今日はダメかも」

 首を傾げながらベッドから起き上がる。二の腕を繰り返し擦ることで、少しでも体調がよくなることを祈った。脳は寒いと認識しているけど、触れた二の腕は十二分に血液が通っていて温かい。その齟齬にくらりと眩暈がするけれど、寒気はどうしても消えなかった。

 着替えてから、部屋を出る。

 キッチンに向かうと、電気ケトルのスイッチを入れた。お湯が沸くのを待つ間にココアの用意をしよう。ふと思い出して、ケトルのスイッチを切って中を覗く。残り僅かになっていた水を視認して、確認してよかったと水道へ向かう。

 改めて電気ケトルのスイッチを入れた後、私は食器棚からマグカップを取り出した。自分の分だけじゃなく、ユリシスの分も。彼女もそろそろ起きる頃だろう。どちらから決めたわけでもないのに、ふたりとも同じ時間に起きて朝の支度をしている。相手に迷惑をかけたくない、と深層心理が働くのかもしれない。親しい仲にも礼儀あり、とかいうもんね。

「っと、入れすぎたかも」

 スプーンですくい入れたココアの粉末が、予定よりも多くなってしまった。些細な失敗にもメンタルが揺らぐ。ふらふらと寝室に戻れば、ユリシスは相変わらず気持ちよさそうに寝ていた。その胸元にダイブしようとして、踏みとどまる。

「……甘えすぎは、よくない」

 たとえ、相手が自分だとしても。一線を引く勇気は必要だ。

 キッチンに戻ってお湯を注ぐ。

 甘い香りに少しだけ心が安らぐ、ということもない。ココアの香りを嗅ぐと仕事に行かなければいけないことを思い出して憂鬱になる。かといってコーヒーや紅茶はカフェインが強くて更に体調を悪化させることがあるから、朝には飲めないのである。

 マグカップに口をつけ、息を吹きかける。

 一口飲むと、舌先にざりっとしたものを感じた。全然、粉末が溶けてなかった。気分が更に落ち込んで、なんだか泣きたくなってくる。寒いし、頭の奥の鈍痛は消えないし、息苦しいし。

 生理はまだ先なんだけどな。

「うぅ……」

 キッチンの壁にもたれてうずくまる。

 ユリシスが起きてきたのは、私が床に突っ伏したタイミングだった。

「……なにしてんの?」

「別に、なにも」

「あー……そう」

 彼女は眠そうな目をこすりつつ、私の隣に座って同じように壁にもたれた。それから、カップの中のココアをじっと見つめた。指先に力の入らない私の手からカップを奪い取ると、冷めたココアに口をつける。

「溶け残ってんじゃん」

 小さく愚痴をこぼしたあと、彼女はコップに残っていたココアを飲み干した。そしてガサガサと冷蔵庫を漁る。ケトルの横に放置してあったマグカップを手に取ると、私と同じようにココアを作り始めた。そして、湯気も新しいココアを私の前に置く。

「ほれ、飲み直せ」

 返す言葉も出せないでいると、ぐりぐりと背中を撫でられた。

「アゲハは私なんだから、そんな落ち込まれてると困る」

「……ユリシスって、意外とツンデレ?」

「んなわけないだろ。私はお前だ」

「……そっか。ありがと」

 礼を言ってから、ユリシスのマグカップを口に運ぶ。

 今度は、ちゃんと粉が溶けている。甘い香りに一瞬だけ仕事の辛さを思い出した後、ふわふわとした温かさが身体を満たしていく。仕事がなくなればいいのにと思う反面、無職じゃ暮らしていけないよなと思う私もいる。労働を嫌いながらも、それなしでは生活をしていけない。難儀なものだ。

 やがて、糸が解けるように心が穏やかになっていった。

 落ち着いたところで朝ご飯を食べようと立ち上がる。貧血気味なのか、ぐらりと身体が傾いだ。

「おっと。無理するなよ」

「でも、今日は私が仕事だし」

「私が仕事。アゲハは休みだよ」

「いやいや、気遣ってくれなくてもいいから」

「……お前、ホントに疲れてんな」

 今日が何日かと尋ねられて、自信満々に答えを返す。それからユリシスと一緒にカレンダーを確認したら、丸印に「ゆ」の字が囲われている。ユリシスが出勤で、私は本当に休みだった。いや、でも、昨日は出勤した記憶がない。

「でも、私、は――」

 ズキッと走った痛みと共に、おぼろげながら浮かんでくる記憶があった。休み時間を削ってまで現場に駆り出されて、朝から晩まで仕事をしていた記憶だ。同僚が失敗した尻拭いをして、先輩がサボった後片づけをして。出した指示と違う動きをする部下に指示を出し直して、それから、それから。

 労働はクソだ。でも、誰かがやらなきゃ社会は回らない。ほんのちょっとだけ真面目な私は、それを十分に理解して、その上で働く。だから、苦しむ。

「う、ぷ……」

 へたりと座り込んで机に伏せた私の頭を、ユリシスが優しく撫でてくる。ぎゅっと背後から抱きしめてくる彼女は、私の髪をわしわしと撫でてくれた。ユリシスの手の動きに合わせて、くちゃくちゃになった思考からもやが追い払われていく。

「よーしよし。昨日は相当、大変だったみたいだな」

「うぅ……。色々、思い出しちゃった……」

「無理するなって。な?」

「しんどい……」

「まぁまぁ、そういう時もあるさ。とりあえず今は休んでおけよ」

 ユリシスに肩を支えてもらいながら、ゆっくりと椅子に座り直す。彼女が用意してくれた朝ご飯を咀嚼もほどほどに飲み込んで、歯も磨かずに寝室へ戻る。そして、布団へと倒れ込んだ。

 今日はもう、ダメかもしれない。

 憂鬱な一日の予感がして、私は静かに目を閉じた。けれど、張り詰めた神経は逆立った針みたいにチクチクと心をかきむしる。枕に顔を埋めても、深呼吸を繰り返しても、一向に眠気は訪れない。寝不足のせいか、寒気は消えない。冬場に身体が震えるシバリングと同様の状態だが、今は夏だぞ。クーラーが効いているからと誤魔化そうにも、この部屋は弱冷房だ。

 息苦しい。

 はぁ、はぁ、と自分の呼吸音が他人のものみたいに聞こえる。心臓の音も、まるで警鐘のようだ。ドクン、ドクンと繰り返す音は平生と変わりないリズムを刻んでいるはずなのに、鼓動が耳の裏に響くたび、平衡感覚を失っていく。ベッドの上に寝転んでいるのに、天井へと落ちていくような奇妙な感覚に襲われた。

 ぐるぐる、ぐにぐに、ぐわんぐわん。小学生が考えたような擬音でしか表現の出来ない曖昧な空間に精神が取り込まれる刹那、私の視界を開くような眩しい痛みがあった。ユリシスが、私の額を指で弾いたのだ。

「いったぁ……。何すんの」

「なんか、すっごい暗い顔をしてたから」

「だからって」

 文句を言い掛けた私の前で、ユリシスは、がばっと手を広げた。

 面食らった私が動けないでいると、彼女は頬を膨らませる。鳩に豆鉄砲を打った張本人が、鳩の態度に文句を言ってはいけないはずだが。

 しばらく睨み合いが続いたあと、彼女が口を開いた。もじもじと、ユリシスは服の裾なんかを気にしている。

「た、たまにはアゲハが甘えてくれてもいいんだぞ?」

「……えっ?」

「だから、今日はお前の番だって」

 聞き間違いか、私の脳が妄想で言葉を紡いだのか。ユリシスの唇が紡いだ言葉を信じられなくて、やっぱり私は動けない。夏用の薄いシーツで身体をくるんで、じっともうひとりの私の様子を窺う。

 ゆっくりと、ユリシスが近づいてきた。そしてそのまま、ぎゅっと抱き締められる。柔らかい胸に包まれて、甘い香りの中に緊張が解れていく。ココアの香りと違って、彼女の体温に包まれながら思い出すのは楽しい毎日だ。ゆっくりと瞼を降ろすと、少し早い心音が聞こえた。ユリシスの心臓だろうか。それとも、私の心臓だろうか。トクン、トクンと繰り返す音に身体を覆っていた寒気が消えていく。心地よい沈黙のあと、ユリシスが小さく囁く声を聞いた。

「どうだ。落ち着いたか?」

「うん。ありがと。でも、ちょい恥ずかしいね」

「よーやく私の気持ちが分かったか、コラ」

 ぐりぐりと握り拳をこめかみにこすりつけてくる。痛いけど、痛くない。ユリシスなりの優しさが込められていた。

 そっと腕を伸ばして、もう一度彼女を抱きしめる。その小さな背中は、私の想像以上に細く頼りなかった。なんてセンリメンタルなことを思った瞬間、彼女はパッと離れていった。

 呆気に取られた私が見上げると、彼女は少しだけ照れた様子で目を逸らす。それから、私に向かってこう言った。

「アゲハはさ、もっと自分に自信を持てよ」

 小さく鼻を鳴らすと、ユリシスは出勤の準備を始めてしまう。

 自分に自信を持つということは、それだけ自分が好きな証拠だ。

 自分のことを好きになってみよう、って? マジか。

「それは難しいなぁ。ユリシスのことを好きになる方が簡単だよ」

「は? え、お前、それはどういう意味だよ……」

「解釈は任せる。お休み」

 久しぶりに体調が底まで落ちたせいで、朝だけど疲れてしまった。

 何かを言いたげなユリシスから顔を背けるようにして、私は布団へと潜る。それから、余計なこと言っちゃったなぁと耳が熱くなるのを感じた。

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