抱いてみた。

 目を覚ますと、もうひとりのユリシスが寝ていた。

 深夜に目覚めては寝息を確認してと繰り返すうちに見慣れてしまったのか、僅か一日で一週間分の吃驚ポイントを消費してしまったのが悲しい。こういうのはもっと、時間を掛けて慣れていくべきだろう。

 まぁ、それが子供から大人になるってことだろう。

 嘘だけど。テキトーなこと言っただけだ。

「んー。やっぱり夢じゃないよな」

 ちょいちょいとユリウスの頬を突く。彼女は私よりも深い眠りに落ちているようで目を覚ますこともない。昨日一日休んでいた分、眠るための体力もあるのだろう。

 台所へお茶を取りに向かうと、食器乾燥機には昨日の晩御飯で使った丼やコップが並んでいる。ちゃんとふたり分あった。普段なら昼用と夜用で使い分けていた食器だけど、昨日は昼用を私、夜用をユリシスもうひとりの私が使っていた。

 朝になったからと言って、食器が勝手に片付くなんてこともない。消えたり、増えたりもしていない。夢ではなく、幻覚でもない。私がふたりに増えたのは現実のようだ。

「どうしようもないもんな。悩むのはやめておこう」

 とにかく、今日は私が休みの日だ。

 意地でも心と身体を回復させよう。

 となると、やっぱりやりたいことがある。ユリシスを起こさないよう、そっとベッドの横で膝立ちした。ユリシスは死んだように眠っている。小指が入る程度に、僅かに唇が開いていた。視線を落とすと、目の前で上下するのは自分の胸だ。サイズも形も熟知しているはずなのに、自分についていないというだけでなぜか緊張してくる。

「うーむ」

 改めて観察すると、これはこれで良いものだ。

 私は、自分を美少女だと思ったことはない。平々凡々な地味女だ。やや真面目に偏った性格をしている程度で、特徴も特技もない。物静かな人間だ。中肉中背で大病を患ったこともない。最近は過労のために睡眠不足などの不調が出ているが、それでも定期健診はそこそこの結果が返ってきている。平坦な人生を歩んできた、どこにでもいる一般人だ。

 唯一、自分が平均よりも上だと自覚しているのは胸のサイズだけである。数値だけの話でもない。私は女の子が好きだったから、学生時代は同級生のそれともそれなりに見比べていたものである。事実として、私は大きい方だった。

 触りたい。けれど、触られるのは嫌だし。

 そんな葛藤を数分繰り返してから、結局我慢できずに手を伸ばした。ゆっくりと、覆うように手のひらを乗せる。それから、ふにふにと指を動かした。指先から伝わってくる感触は私の魂を慰撫してくれる。

「あぁ……。もう怒られてもいいや……」

 ユリシスの胸は、ひょっとしたら私のそれとは違うのかもしれない。なんだか、癖になってしまいそうだった。

 しばらく揉み続けてから、満足したので手を引っ込める。それから、ぎゅっと抱き着いた。頭を胸に埋めて深呼吸を繰り返す。体温が伝わって、過去に類を見ないほど穏やかな気持ちになった。同時に、瞼が重くなってくる。二度寝しようかと、まどろんでいたらユリシスが身じろいだ。慌てて身を起こしたところで遅いのは知っている。じっと動かないでいたら、渾身の拳骨が頭頂部に飛んできた。

「ぐぇえ」

「な、何をセクハラしてんだ。私の癖に」

「癒しが欲しくて……。つい出来心で……」

「いや、だからって自分と同じ顔した相手に抱き着くなよ」

 ふるふると震えるユリシスは、殴った拳をまだ構えたままにしている。寝起きだから力も入ってないはずなのに、バッチリ痛かった。

 ベッドの上で服を整え直したユリシスは、私へと確かな敵意を込めた視線を向けてくる。すごいな、私はこんな顔も出来るのか。ビッと突き立てた指は、私の額を正確にしていた。

「アゲハ、マジでシバくぞ。仏の顔も三度までだぞ」

「本当に申し訳ありませんでした」

「……まぁ、反省しているなら、いいんだけど」

 触られるのはマジで嫌いだからな、私。

 でも、同性の友達とも遂に一線を越えられなかった私には、自分しか頼れる相手がいなかったのである。本当か? ただ女の子と仲良くしたいだけなら、そういうお店にいけばいいんだろうけど、なんか怖くて行けなかったんだよな。

「とにかく、こういうのはやめよう」

「えー。私、自分にならされてもいいけど」

「……。絵面的に問題がないか?」

「そうかな? ってか、ユリウスも一瞬『いいかも』って思ったでしょ」

「うるせぇバカ」

 普段から怒ることが少ないから、罵倒の語彙が少ない。ふむ、もうひとりの自分と喧嘩をするとそんなことも分かるようになるのか。これも、役に立たない知識だな。

 もうひとりの私は、すっごい深い溜息をつく。そして、呆れたような目つきでこちらに一瞥を向けてきた。その顔からは敵意が薄れて、なぜか不思議そうに眉をひそめている。徐々に浮かんできたのは、好奇心だ。

「なんでアゲハは、そこまで笑顔なんだ……」

「え? 私、笑ってる?」

「うん。すごく、キショい」

 端的な罵倒が飛んできて少しへこむ。

 けれど、頬に触れてみたら確かに口角が上がっているのが分かった。我ながら分かりやすいな、と思う。二度寝をしたことで、エンドルフィンなどの物質が脳内に分泌されたに違いない。完全にリラックスしたことで、肉体の疲労感を誤魔化せる程度には脳が回復したのだろう。

 私だけが回復するのも不公平なので、今度はユリシスを癒してあげることにした。

「おいで」

「は? アゲハはまだ私に何かをするつもり?」

「いや、今度はユリシスがする番だよ」

 覚悟があり、心の準備もしていた私はユリシスの前で胸を張った。

 彼女がいつ目を覚ましたのかは不明だが、今の私なら大抵のことを許せるだろう。

 じっと我慢していたら、キレていたユリシスも、恐る恐るといった様子で近づいてくる。そして、私の胸に顔を埋めるようにして抱き着いてきた。どうやら、最初の方はしっかりと眠っていたらしい。背中に回された手が、私の背中をなぞっている。くすぐったくて気持ち悪い。けど、耐えられないほどではなかった。心を許した相手に触れることでリラックス効果が得られるのは、私も十分に承知している。だから、静かに受け入れた。

「……おやおや」

 気付けば、ユリシスは私に全体重を預けていた。全身を脱力して、浅い眠りに落ちているようだ。私達はお互いに身体を密着させたまま、ベッドの上に転がった。そのまま、私も身体の力を抜く。

 まだ早朝だ。いつもなら早めに朝ご飯を済ませて、出勤時間ギリギリまで布団の上で眠れない時間を過ごすのだけど、今日はかなりリラックス出来ている。恐らく、過去最高に気分よく仕事に出ていけるはずだ。

 しばらくして、ユリシスが目を覚ましたのに気付いた。だが、彼女は私から離れようとしない。文句を言っていたくせに、自分もちゃっかり癒されようとしているみたいだ。我ながら、セコい。

 自分がしてほしいことを考えて、彼女の頭を撫でてみることにした。ぞわりと肩を震わせたユリシスだが、狸寝入りをしていた手前、急に起き上がることもできない。子供をあやすように、よしよしと頭を撫で続ける。やがて、ユリシスの耳は朱色に染まっていった。撫でられただけでこの反応か。

「我ながら純情すぎてちょっとキモいな」

「うるせー、バカ。人肌に飢えてるのはお前も一緒だろうが!」

 私が独りごちると、すかさず反論してくる。

 ユリシスは私を突き飛ばすように離れると、怒ったように洗面所へ向かってしまった。その仕草を見ていると、やっぱり自分なんだなぁと思ってしまう。私だって、同じような反応をしてしまうのだろう。だが、二度のセクハラを経て妙な自信を身に着けた今となっては、ある程度の余裕をもって対応できる。最悪な方法でレベルアップをしているわけだが、こればかりは許してほしい。だって、相手は自分なわけだから。

 顔を洗い終わったユリシスは、戻って来るなり私のことを睨んできた。けれど、私も負けじと彼女を見つめ返す。しばらく無言で視線をぶつけ合った後、先に折れたのはユリシスの方だった。舌打ちをした彼女は、そのまま部屋を出ていく。どうやら、朝ご飯の用意をするようだ。

 シリアルと牛乳を用意するユリシスの横に、ひょいと顔を出す。

 自分で自分をからかえるチャンスなんて、滅多にめぐってこない面白事案だ。この機を逃すわけにはいかなかった。

「ねぇユリシス。ダメって言っていた割に、自分も楽しんでない?」

「うるせぇ。……否定できないのが辛い。死にたい」

「そうかな? いっそのこと、習慣化しようぜぃ」

「それは流石に嫌。だって、相手は自分なわけだし……」

 もっと綺麗なお姉様とか、可憐な妹系がよかったね。分かるよ、私だし。

 でも私は地味で暗めな真面目系女子で、機会に巡り合うこともなければ、チャンスを掴むだけの技量も足りていない。どうにも、ここから頑張るのは難しいのだ。たとえ相手が自分自身だろうと、ハグをする程度でリラックスできると分かったのだ。ならば、利用しない手はないだろう。

 朝ご飯を食べる間にいくつもの言い訳を重ねて、説得をした。二杯目の牛乳を飲み終える頃になって、ようやく彼女も納得したようだ。ま、結局は私と同じようなことを考えると分かっていたけどね。

 だって、もう一人の私なわけだし。

 ユリシスは口元を拭うと、私を睨みつけた。

「いいか、許可なく抱き着いたりはするなよ」

「はいはい」

「分かってんのか? アゲハのこと、私は信用してないから」

 それ、自分に向けて言っていい言葉ではない気がするけど。まぁ、黙っておこう。

 化粧をして出勤の支度を始めたユリシスに代わって、私が皿洗いを担当する。やはり、自分がふたりいるというのはいいものだ。仕事が半分になるし、休みは倍になる。やがて時間になって玄関へと向かったユリシスを追いかけた。そして、彼女が玄関を開ける前に背中をつつく。怪訝な顔で振り返った彼女に向けて、私は両腕を大きく広げた。

「お出かけ前のぎゅー」

「……我ながらキモいな」

「えっ、だって、ハグってめちゃくちゃ癒されるし」

「……分かってるよ。しょうがないな」

 と言いつつ、彼女もハグしたいと思っているのは分かっている。

 互いにぎゅっと身体を寄せ合ったら、彼女が観念したように呟いた声が聞こえた。

「私って、本当に甘えるの下手なんだよな」

「今に始まったことじゃないじゃん。自分には自分を曝け出して行こうぜ」

「……お前、本当に私か?」

 ユリシスからの質問に、私は適当な笑いを返した。

 昨日まではまったく同じ『私』だったとしても、今日はどうなっているのか分からない。僅かながら、蓄積した経験も変わっている。私は昨日、会社でお弁当を食べた。彼女は昨日、寝過ごして何も食べていない。こうして、少しずつだけど身体を構成する成分量も変わっていくのだ。細胞、血液、それらが少しずつ入れ替わっていくとして、半年後にも私達は『私』を保っていられるのだろうか。

 もうひとりの私が出勤したのを見送って、強烈な不安に駆られる。

 けれど、何も知らないふりをして、私は布団へと戻ることにした。

 今日は、ぐっすり寝よう。明日は、また元気に起きて仕事をしよう。ズキリと胸の底が痛むような感覚も久しぶりだ。仕事が辛すぎて、けれど転職を考えるだけの体力もなかった私が少しだけ回復して前を向いてしまったらどうなってしまうのだろう。

 麻痺していたはずの痛みや、疲労感に正面から向かい合ったとき、私はどうなってしまうのだろうか。考えれば考えるほどに不安は募っていって、ユリシスも同じだったのだろうかと考える。

 買い出しの時、お酒は多めに買っておこう。そう考える私だった。

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