話してみた。

 高校を卒業してから、ずっと同じ会社で働いている。

 けれど、有休を使ったことはない。法律が変わったとかで、休みの日に指定年休という名前が付けられたくらいだ。元々休みの日に有休を消化しても、私の生活が変わることはない。仕事、仕事、仕事の毎日だ。

 たまの休みは気絶するように眠っている。疲労で眠りは浅いのに、体力を回復したいからと長時間眠ろうと布団の上で横になるのだ。家のこともおそろかになって、洗い損ねた服にカビが生えたこともある。

 今朝だって、目が覚めたら隣にもう一人いた。

 精神こころも身体も限界だ。

 出勤、仕事、帰宅を挟んだのに、もう一人の私は消えていない。

「マジだったか…………」

 ベッドの上には、死んだように眠る私がいた。死んでないよな?

 パジャマはよれよれで、腰紐のほどけたズボンがずり落ちてパンツが覗いている。いつもの私だ。月の労働時間が年平均230オーバーの生活を、高校卒業からずっと続けているせいで、色々なものを失った私である。そりゃ、友達も少なくなるよなと思った。元から友達が少なかったのは秘密だ。

 いつもの癖で買ってきたお酒をテーブルに置いて、ひとつしかない椅子に座った。一人暮らしを始めてからずっと使っている椅子は、私が体重を預けるとギシリと軋む。そろそろ買い替え時なのかもしれない。

「どうしたのものかな」

 ご飯を食べる前にシャワーを浴びようか。そこで化粧を落とせば一石二鳥だ。お洒落にも興味が薄いせいか、化粧も薄っぺらな嘘みたいに張り合いのないものになっている。すっぴんとそれほどの大差もなく、「もしも」の備えを中途半端に続けているだけだった。

 入浴の準備を進めていたら、もう一人の私が目を覚ました。

 ぶるりと身体を震わせた後、寒そうに両腕を擦る。寝起きはいつも体調が悪い。それは、もう一人の私も同じようだ。彼女は顔をわしわしと擦って、無理やりに脳を覚醒させる。そして、私に向き直った。

「おかえり、アゲハ」

「おっ。私は小町夢佳だが?」

「いや、私も同じ名前だから。ふたりとも同じじゃ区別つかないだろうが」

「ははっ、知ってる。言ってみたかっただけだよ」

 そして、流石に相手が私自身ということもあって、アゲハという名前をつけた理由も察することが出来た。安直だからこそ、推測しやすくもある。

 小町を音読みして、コチョウ。ゆえに、胡蝶。

「この現象を胡蝶之夢と言い切るわけね」

「当たり前でしょ。それ以外に何があるの?」

「言い返す気もないね」

 夢か現か分からない今を、仔細に紐解くのは難しい。

 働けど働けど終わりの見えない仕事を続け、壊れかけた心と身体のまま生きていく人生の辛さも相まって、これが夢であってくれればいいのにと思った。いや、どうせなら現実の方がいいのかな? だって、私の身体がひとつ増えるわけだし。休みの日が単純に二倍になるって考えたら、すごくお得だ。一応、貯金には余裕がある。なぜなら仕事が異様に忙しくて、休みの日も文化的な活動など何もしていないから。

言ってて悲しくなってきたぜ。

「で、そっちの名前は?」

「私はユリシス」

「自分だけ格好いい名前をつけてんじゃねーよ」

「いいじゃん。文句あるなら別の名前考えろよ」

「……いや、それはそれで面倒くさいな」

 どうせ同じ人間の考える名前だ。他にも案は浮かぶだろうけれど、今よりも良い名前が捻りだせるかというとかなり怪しいものがあった。

 ユリシスか。ちょっと珍しいけど、知らないわけじゃない。

 青色の綺麗な蝶々だ。金運や幸福を招くと言われていて、髪飾りのモチーフになっていることも多い蝶々だ。だから、名前は知らなくても姿や形は想像しやすい方だろう。まぁ、今の私には金運はそれほど必要ない気がするけど。先に言ったように、貯金には同世代と比べても随分と余裕があるのだ。お金を使おうにも時間がなく、日々命をすり減らしているだけの生活だし。

 まぁ、名前なんて記号である。ユリシスだろうが、アゲハだろうが、私達が小町夢佳であることには変わりがない。この意味不明な現状が劇的に改善する気配もなくて、今はただ、平穏な生活を望むのみである。

「とりあえず、私は風呂に入ってくるから」

「から?」

「ユリシスには、晩御飯を作ってほしいんだけど……」

「当然イヤだが」

「だよなぁー。ま、後で分担しようか」

 休みの日は何もしたくないもんな、と不承不承に頷いた。ユリシスの方も、休んで体力が回復しているはずなのに、とはいえない顔色をしている。我ながら心配になる顔色だ。青ざめた顔という表現があるが、本当に疲弊していると目元のクマもあってなんか黒っぽくなるよね。

 私がバスルームへと消えると、入れ替わるようにしてもう一人の私がキッチンに立ったようだ。がしゃがしゃと鍋を用意する音が聞こえてくる。文句を言いながらも、仕事後の疲れをちゃんと理解しているようだ。私が逆の立場だったとしても、多分、同じようなことをするだろう。

 脱衣所の扉を少しだけ開けたままにして、もう一人のユリシスの様子を窺う。

 ユリシスが冷蔵庫から取り出したのは、大量に買いだめしてあるうどんだった。何を作るのか楽しみにしたいところだが、私自身のレパートリーはたかが知れている。ひょっとすると、日中にニ〇ニコとかYout〇beで料理系の動画を見ているかもしれない。そうだとしたら、普段とは違うものを作ってくれる可能性はあった。

 私は存外、ミーハーだから。

 料理を任せて、風呂に入る。命の洗濯と呼ぶには簡素すぎる儀式だ。日々の汚れは落とせても、染みついた疲れを拭いとるには癒しが足りない。せっかく自分がふたりいるなら、背中を流してもらうのもイイかもしれない。今度、相談してみよう。

「嫌がるかな。嫌がりそうだな」

 でも、絶対気持ちいいはずなんだよ。なんとか説得しよう。

 お風呂を済ませて、パジャマに着替える。このパジャマも、買い替え時だ。そういえば、私がふたりに増えたとき、着ていたパジャマや下着も増えていたな。歯ブラシなどの生活用品は増えていないのに、身に着けていたものだけが増えていた。服飾は身体の延長線上にー、などと哲学的な議論はやめておこう。今日はもう疲れた。

 風呂場を出て、髪をわしゃわしゃと乾かす。

 鏡の中の私も、随分と疲れた顔をしている。本当に若者か? と疑いたくなるほど華がない。髪型のせいだろうか。学生の頃は長めに伸ばしていたけど、就職してからは洗ったり乾かしたりの手間が嫌でショートカットにしている。これはこれで誤魔化しのきかない髪型だというのは切ってから知った。私は、存外考えなしなのだ。

「上がったよ」

「ん。ちょうど完成するところ」

「晩御飯のメニューは……。卵とじうどんか」

「文句ある? ないだろ、好きな料理だし」

「ぐうの音も出ないぜ」

 卵とじうどんはいい料理だ。ちゃちゃっと作れて、卵のおかげで栄養価も高い。適当に茹でた野菜も乗せれば、完全栄養食と言っても過言ではない。いや嘘だが。流石に栄養の勉強をした人から怒られそうだな。

 卵とじうどんの上には、湯通ししたキャベツが乗っていた。生野菜が苦手な私が、いつも使っているテクニックだ。

「どっちが私の?」

「昼用のやつ。私は夜用」

「ん。了解した」

 食器類は、休日の皿洗いを一回にしたいという願いが強すぎてふたり分用意してある。昼用と夜用で使い分けて、まとめ洗いしているのだ。それが、こんなところで役に立つとは思わなかったぜ。湯気の立つどんぶりを前にして、しかしテーブルはひとつ、椅子もひとつ。相談するまでもなく、私達は立ち食いすることを選んだ。

 いただきますと手を合わせて、それぞれに箸を取った。

「休みの日に、椅子だけは買いに行こう」

「だね。ってか、ユリシスは気が付かなかったの?」

「昼飯は食べずにずっと寝てた。買い出しに行ったの、夕方だよ」

「そっか。まー、夏だし、昼間に買い物とか無理ゲーだよね」

 うんうん、と頷いてみる。

 この調子だと、休みの日だからって有意義に使えるわけじゃないのは私が一人しかいなかったときと変わらないらしい。休みが増えたからと言って、急激に体力が回復するわけでもないのだ。数年かけて壊れた肉体と精神が復調するまでに、数年かかったとしても何も不思議はない。

 うどんを啜って、かき卵の浮かんだ汁を飲む。熱い夏場でも、濃い目に味付けした卵とじうどんだけはやめられない。これにお安い焼酎を合わせるのがとても最高で、と思ったところでお酒を一本しか買っていなかったことに気付いた。無言でテーブルにストロング系の缶酎ハイを置くと、ユリシスも私の言わんとしたことに気が付いたらしい。彼女は氷を持ったコップを持って戻ってきた。しかも、ちゃんとふたつ用意してくれている。

「アゲハは気が利かないな」

「ユリシスが買っとかないのが悪い」

 言い合っても意味がないことは互いに承知している。だからこその軽口だ。

 コップに注いだ酒が身体に入ると、労働の疲れがどっと溢れてきた。ユリシスの方は、まだ元気そうだ。

「仕事はどうだった。何か仕様の変更とかあった?」

「いや、別に。申し送りはいつものファイルね」

「あいよ。ま、明日は普段通りに働けばいいんでしょ」

「うん。そうすれば問題なし」

 ご飯を食べた後は手分けして皿洗いをした。

 私は人と喋るのが苦手だけど、相手が自分自身ともなれば話は別だ。どんな胡乱な軽口にも適切でテキトーな答えが返ってくる。会話していて楽しいし、余計なことを考えなくて済むから楽でもあった。

 私はこれまで使っていた歯ブラシを、ユリシスは新品の歯ブラシを使って歯磨きをした。取っ手の部分をマジックで黒く塗りつぶした方が私の歯ブラシだ。色が同じでも、こうして目印をつければ間違えなくて済むわけである。我ながら賢い……んだけど、明日になったら忘れてそうで困る。どっちが目印のを使ってたんだっけ、とか言ってそうだ。

「んじゃ、私も風呂入ってくる」

「ん。私は先に寝とくね」

「おう、お疲れ。よく休めよ」

 限界社畜の疲労が蓄積した身体では休めないことを承知の上で、ユリシスが私をからかってくる。私達の身体から疲労が抜けるのが先か、それとも気付けばどちらかが消えて、「私」が一人に戻っているのが先か。考えても詮無き事と首を振った。

 もう一人の私が風呂場へ向かったのを眺めて、ふと思う。

 自分の裸を眺めて興奮するのだろうか、と。

「……いや、流石に無理そう」

 他人だが自分で、自分だが他人だ。人恋しい場面で触れ合うには良くても、その先に発展することはないだろう。もし自分のことを好きになってしまうとしたら、それはとんでもないナルシズムなんじゃないだろうか。考えているうちに眠くなって、私は布団へと横になった。

 身体の疲労は深い。過敏になった神経が眠りに落ちる身体の中で弾けている。視界の裏に爆ぜる白い光は、部屋の灯を消しても眩しい。

 気絶するように意識を失う寸前、たったひとつ、残っている不安がある。

 このベッド、一人用なんだよな。もう一人の私はどうやって寝るんだろう。

 ずるりと影の底へ落ちるように、私の意識は遠のいていく。こうして私の、もう一人の私との生活一日目が終わった。

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