私を好きになってみよう。マジで?
倉石ティア
1:写し鏡
揉んでみた。
寝覚めは最悪だ。
勤務時間の月平均が230を超えた生活を、高校卒業からずっと続けている。今年は平均が270を超える勢いで残業が増えていることもあって、肉体が限界を迎えていることに薄々勘付いていた。でも、再就職先を探すのも面倒だな……と言い訳を繰り返して働いている。
たぶん、それがダメだったのだろう。
クソ暑い夏を、弱冷房で誤魔化しながら過ごすいつもの日々。
朝目が覚めたら、もう一人の私がいた。
***
寝惚けた顔、寝癖でボサボサになった髪。パジャマはよれよれになって、腰紐のほどけたズボンが少しずり落ちてパンツが覗いている。いつもの私だ。朝に弱い私が、私と同じベッドに座り込んでいる。っていうか、今の私とまったく同じ格好だな。
しばし考えて、これは夢だろうかと思い至る。
「私は
「同じく小町夢佳。いや、この問答必要?」
「夢ん中じゃ喋れないじゃん。喉が詰まった感覚になってさ」
「あー、お前も私みたいなこと言うんだな……」
へらっと笑った顔は、間違いなく私のそれだった。今日は珍しく夜中に目が覚めなかったな、とか思っていたのにこの有様だ。過重労働によって脳が限界を迎えて、幻覚を見ているのかもしれない。
これが夢じゃないとしたら、の話だが。
向こうの私も同じことを考えていたようだ。アイコンタクトだけで通じるものも多い。すっと手を前に構えると、向こうの私もワンテンポ遅れて手を構えた。やはり同じことを考えているみたいだ。
「ちょっと触っていい?」
「……うん。まぁ、どっちが触っても同じことだろ」
「んじゃ失礼して」
もう一人の私の顔へと手を伸ばす。
自分で自分の顔に触れているのに、それは自分の顔じゃなくてもう一人の自分の顔だった。化粧をしている時と似ているのに、まったく違う感覚だ。メイクアップアーティストですら味わえない、独特の違和感がそこにある。気がする。多分。
うん、順当に意味不明な状況が生まれて、なんだか楽しくなってきたぞ。
「あ、そうだ」
指で触れた感触は幻覚とは思えないほど明瞭で、睡眠不足によって荒れ気味になったお肌の状態まで完璧に再現されていた。だったら、他の部位はどうなんだろうと思って手を伸ばしてみる。
具体的には、もう一人の自分の胸に。
ぐにゅっと指先に伝わる感触は確かに自分の胸なのに、その身体が自分のものじゃないからこそ、妙な立体感がある。このくらいならセーフ、と自分のだけど自分のじゃない胸の感触を堪能していたらもう一人の私から蹴りが飛んでくる。我ながら容赦のない蹴りだった。
「バカじゃないの? やっていいことと悪いことがあるだろ」
「いや、だって相手は自分だし」
「え、いえ、そうだけど……、でも、お前……!」
かなりテンパっている自分を、第三者の視点で眺めるのは実に新鮮な気分だった。同性相手でも問題がある行為だが、自分相手なら大丈夫だろうと思って実行に踏み切ったのだが。確かに私は、誰かに身体を許したことはない。私に初めてセクシャルな行為をしたのは自分自身と言うことになる。
うーん、考えるほど妙な話だな。
「めっちゃくすぐったくてキモいんだけど。バカじゃないの?」
「いや、やってみたいと思ったら手が止まらなかったんだよね」
「我ながら最悪」
微かに上気した自分に睨まれて、なんともいたたまれない気分になった。
誤魔化すためにも、話を元に戻すことにした。
「少なくとも、これは現実ってことは分かったな」
「お前、今のを水に流すのかよ……。いや、確かに私も逆の立場なら……」
「蹴った感触はあったでしょ。こっちも、蹴られた膝が超痛いぜ」
がはは、と笑ってみた。もう一人の私は渋い顔をしていたが、諦めたように頬を緩める。それから唐突に、私の胸を揉んできた。恨みがこもっているのか、ちょっと痛いくらいに力を込めてくる。でも確かに、めちゃくちゃくすぐったくてキモかった。未経験ゆえに、下手くそってことなんだろうか。
有識者に聞いてみたいけど、そんな知り合いがいたら苦労はしていないのである。
「悪かった、ごめんって」
「自分に謝られるの、割と意味不明だわ」
「いや、それ言い出したらこの状況がね?」
なにひとつ問題は解決していないし、この状況が生まれた理屈も分からない。確かなのは、頭の奥に微かな痛みが走っていること、相変わらず自律神経がおかしくなっていて、風邪じゃないのに寒気がすることだ。
ベッドに横になったもう一人の私が、ふっと笑った。
「じゃんけんで負けた方が仕事に行って、片方は休もうぜ」
「半分賛成、半分反対」
「え? なんでだよ」
ここに来て初めて、もう一人の自分と意見が分かれた。さっきのは順番が前後しただけだが、今回は明確に意見が違う。まるでスワンプマンの思考実験の答え合わせをしているような気分だ。まったく同じ人間が目の前にいたとして、果たして思考や感情が完璧に一致するのか? 私の方が窓側にいて、僅かに多くの陽の光を浴びたことで変化があったのだろうか。
限界社畜の疲労した脳では考えるのも限界で、私は簡潔に答えだけを述べた。
「鏡合わせの自分とじゃんけんとか、終わる気がしない。コイントスにしよう」
「なるほどね」
「仕事を休むのは賛成だよ。ふたりで出勤しても、倍の仕事振られそうだし」
「あははっ、それは言えてる。あの会社だもんなぁ」
「でしょ? んじゃ早速」
百円硬貨の表と裏も知らない私達は、私が桜の絵柄の側、もう一人の私が数字の側ねと宣言をしてからコイントスをした。結果は私の負けで、絶望と共にベッドから転げ落ちた。残った私は意地でも布団から出ないと、夏用の薄いシーツを被る。最悪だと呻きながら、私は出勤の用意をした。
歯ブラシを手に取って歯磨き粉をつけようとしたところで、思わず手が止まる。一人暮らしだから、色々と用意していないものがある。歯ブラシは予備品も含めて全部同じ色だし、下着もそんなに数を持ってない。
ぬくぬくとベッドに横たわるもう一人の私は、仕事を休める幸福感のせいでまだこの事実に気付いていないようだ。出勤する私は、仕事の行き帰りに買い物をする余裕なんてない。そうだ、冷蔵庫に蓄えていた食糧も倍の速度で消費すると考えたら、絶対に今日から準備する必要がある。
「おい、私」
「なんだよ、もう一人の私」
あ、お前もその呼び方で私を区別しているのか。仕事から帰ってきたら、どっちがどっちか区別できるように呼び方を決めなくちゃいけないな。その辺りは、家で休んでいるもう一人の私に頼んでおくことにして、と。
「頼みたいことがあるんだけど」
「絶対に仕事には行かないぞ」
「いや。別の仕事があるんだよ」
私が気付いた事実を説明すると、もう一人の私の顔がぐにゃりと歪む。
ざまあみろと言い掛けたけど、これこいつが出勤する日に私が買い出し行くパターンだな。あーあ、面倒くさいな。そう思いながらも、自分がふたりになったことで日々が少しだけ好転するんじゃないかと。
なんだか少しだけ、私は明るい気分になっているのが不思議だった。
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