最終話 創作の可能性に気付くまで
僕は、完璧な文章が書けない。何を完璧とするかによって、答えは人それぞれだと思うが、どうにも文章には限界があるような、そんな感覚がある。「伝えたいことを正確に伝える能力」が筆力とするならば、やはり完璧な文章など書けないのではないか、と日々思っている。
――そもそも、創作を始めたきっかけは何だったか。
小説を読んで、「ああ、自分でもこういうのを書けたらな」と憧れたからである。他にも理由はあるが、小説という表現方法を知っていたからこそ、自分でも執筆する気になったのだ。文章は、会話よりも時間がかかる。伝えるのも、理解するのも、圧倒的に会話のほうがスピードは速い。
しかし、文章を書く行為自体には、何らかの意味があるはずだ。
多くの人に読んで欲しい、正確に伝えるためには文章しかない、文章によって記録として残しておける――このように、様々な利点がある。なによりも、自分で書いた小説を印刷するとき達成感がある。長編小説ならば、分厚い原稿の束が、圧巻の光景であろう。といいつつも、すべての人がそうとは限らないが。
一度読んだ小説でも、時間が経ってもう一度読み返してみると、まったく新しい印象を受けるかもしれない。小説でなくとも、例えば僕が今書いている創作論でも、「句読点が多いな」だとか、「昔は共感していたけど、今はそうでもないな」と感じるときが来るかもしれない。
文章に隠されたニュアンスや、作者の考えが、完璧に読者に伝わることはほとんどないように思える。
だからこそ、「完璧な文章が書けない」と思う。人が、人を完璧に理解できないのと同じように、そこには個人の考え方があるからだ。文章の根底には、個人がいる。
――だが、完璧な文章が書けないからといって、嘆く必要もないと思う。
小説家がいるならば、当然編集者が後ろにいる。読者の第一号は作者自身であり、第二号は、妻か夫か友人か編集者か、あるいはインターネット上にいる。文章があるならば、誰もが読者という存在になることができる。とはいえ、小説家と編集者は特別な位置にいる。
――小説家にとって、編集者とは何か。
案外身近にいるかもしれない。家族や友人、web小説の読者、あるいは思いがけない辛辣なレビュー。編集者のなかには、筆力と読解力に長けた人がいるかもしれない(多くは、出版社の人間だろうが)。筆力が優れた人間でも、万人受けしなければ商業作家になるのは難しい。だがそういう人々にとって、本を読むという行為は、どういった意味を持つだろうか。
職業としての編集者は、完全に機械的な仕事もしているかもしれない(校正など)。だが、それだけの役割ではないはずだ。文章、物語においても、問題だと感じた箇所を見つけ出す。向こうもプロだ。しっくりした日本語でないものに、違和感を覚え、単調な場面には指摘をするだろう。
――なぜ、文章や物語の違和感に気付けるのか。
句読点の位置がどこにあると、文章が分かりやすくなるか。
その文章は本当に、物語に必要なのか。
編集者は、文章と物語の効果性を検討するのが、得意なのだろう。本を通して日本語に触れたからこそ、この「違和感」に気付いて、問題視するのだろう。
もっとも、最終的な判断は作者自身がするものであり、それに対して編集者は口を出すことができない。しかし、一度耳を傾けてみたほうがいい。相手がプロでなくとも、その姿勢は大切だと思う。
――
編集者を求めるかたには、カクヨム内にとっておきの店がある。
スティリアさんの「創作リフレ――スティリア――」である(案件ではないが、ぜひ訪れていただきたい)。
ちなみに、僕自身はしえるさん推しだ。
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