第67話 避難してきたランサマ(おじさん)と猫(茶トラ猫)
戦争とかテロとか紛争とかそういう事は遠い世界とか、ゲームや漫画や本や歴史やニュースやネットの中の事だとどこか思っていた。
エジプトに行くまでは。
エジプトに行く前、和也の会社では、帯同家族向けに赴任国情報をレクチャーしてくれる講座があり、希望すれば参加できるので参加したことがあった。
赴任国の社会情勢から生活情報に、帰国した先輩奥様達の体験談等等、情報盛り沢山の無料講座なんだから参加しないとねー!
そこでも湾岸戦争からの紛争やテロやの話が出てた。
でも、聞いていると、エジプトは周辺国のよりは安定している印象を受けたし、やはり過去の話だしねーという感じだった。
先輩奥様達からの話しにも当然のように戦争やテロの話もが出た。
安全大国である日本とは全く違うのだから、いつ、どこで、どんなことが起こるか分からないのでその心構えで生活するようにと言われた。
けど。
そーいうのは日本以外のどこの国に行っても同じだよね?
なので、どちらかと言うと、カイロ市内のアパートメント情報、売っているもの情報、治安や学校等等の生活に密着する情報に意識が向いていたと思う。
が、結婚してカイロに向かう途中のパリでフラグが立った。
その日も和也はパリ支社に行っちゃっていたので、一人でデパートに買い物に行った時、実は前振りのような事に巻き込まれていたのだ
吹き抜けの巨大エスカレーターを登っている途中、階下から何か壊れるようなパンパン!と乾いた音が聞こえた。なんだろうと、無頓着に振り返ろうとしたら、全く知らぬ後ろの男性が、
「振り向くな!屈め!」
と、叫んで腕を引っ張られ屈ませられた。
その時、自分以外の全員が動くエスカレーター上でに頭を抱え伏せ、素早い動きで上階に移動していたのが目に見え、事態を瞬時に把握した。
慌てて周囲に合わせて上に逃げ、そのままでデパート外に退避し、ホテルまで戻った。怖かった。
後で和也経由の現地駐在員の方達の情報でしったけど、デパートの1フロアか入口付近で、何かのトラブルで発砲事件があったらしい。
あの時、ぽけーと立っていたのが夢乃以外にも数人見えたけど、恐らく彼等も日本人だったんじゃないかと思う。他の国の人達は瞬時に身を護る行動に出ていたその差に驚愕した。
カイロに着いて、アパートメントの設備や部屋の案内の中で、和也が真面目な顔で一番重要だと説明したのは、オープンチケットがしまわられている場所と有事の際の行動の話だった。
高田支社長夫人は湾岸戦争当時からその後の紛争やテロの事を知っていて、時々思い出したように話しを聞かせてくれた。麻雀サークル等年配のマダム達が集まる場でも、当時を知らないマダム達にレクチャーするように、日本人に限らずいろんな話が出た。
命からがら危険な陸路で逃げて来た人達の話し。亡くなった方の話し。たった一人の自己中な社員の行動で、他の駐在員や家族の命まで危険が及びそうになった話など、話題が尽きなかった。
それでも…戦争だの紛争だのテロだのは、自分と関係ない世界の話だと思い込んでいた。
印象に残っていたのは、紛争地域や戦争が始まった所から逃げて来た人達が、ロバ等に引かせた荷馬車で荷物を運んでいたという話しだった。
20世紀や21世紀に入っても、ロバで荷車を~なんて話があるんだあ~と思ったくらい。
夢乃達が住んでいたゲジラという地区は、ナイル河の中にある巨大な中州のような島であり、その地形のせいか?昔は長崎の出島のような感じで、外国人や関係機関が多くある地区だったと聞かされていた。
今は新しいインフラ設備最新の地区に分散移動しているけど、今でも各国の大使館や大使公邸などが多い地区ではあった。
なので、各国で戦争、紛争等のトラブルが起きると如実に影響がでる。大使館や公邸がアタックされ易くなるので、警備警護の警戒度がUPされ物々しくなる。
でも、それでもどこかのほほんとした普段のカイロ風景はそのままなので、やはりそういう戦争や紛争の話しはどこか遠い世界の話しの様に思っていた。
ある朝。
起きたら、和也が既に起きていて、あちこに連絡を取り合って忙しそうにしていた。どうもシナイ半島の先の国境周辺で何か衝突が起こり、その一部があちこち飛び火して衝突があちこちで起きているいるらしいと。
カイロ周辺までは飛び火はしていないけど、気を付けるようにとのことだった。
なので、その日はタクシーでマダム達とハンハリーリに最近来たマダムを案内する予定だったのだが、安全を期して信用安心できる社用車で行くように言われた。本来なら中止すべきなのかもしれないけど、各社により警戒度は違うし、カイロ市内には警戒情報は出ていなかったので、通常通り行動が許可された。
サイード君運転のレクサスでハンハリーリに行き、いつものように戻る途中で渋滞に巻き込まれた。
その原因が、ロバに荷車を引かせている人達だった。高田夫人達の話を思い出し、まだあるんだと驚いて見ていた。
荷車に何かを大量に乗せて、大きな布か何かで覆って紐でぐるぐる巻きにしている。荷車には幼い子供や、赤ん坊を抱いたヒジャブを目深にかぶった女性が乗っているのもある。
数台の荷車と周囲を家族なのか?数人の人達が歩いている。脇にぶら下げられた金属製の鍋とかが、ひしめく車の喧騒のなかでガランガランと音を立てていた。
ふと見ると、ロバの横を歩く男性がストリングみたいな布を大きく胸にたすき掛けているのが目に入った。
そのふくらみの間から三角の耳が見えた。時々、ぴくぴく!っと動く。
あれ…猫の耳だよね?
ゆらゆら揺れる三角の茶色の耳をガン見していると、サイード君が気づき、その荷車のランサマ(おじさん)の横を通るときに何か聞いてくれた。ランサマはストリングの布の中を見て何か言うと、夢乃の方に見せてくれた。
ストリングの中には茶トラの猫が3匹入っていた。2匹は丸くなり目を閉じ、1匹が(耳の見えていた猫)が、まん丸の金茶の目で夢乃を見た。
「可愛いねえ。(見せてくれて)ありがとう!」
と、返すと、ランサマは前歯のない歯を見せて笑う。サイード君とランサマが何か話し、握手をしてサイード君が手をあげて振り、後部座席の窓を閉めて車は走り出した。
それは猫を見せてくれたお礼にと、サイード君がバクシーシ(チップ)をあげたのだ。こういう時のバクシーシは金額により、あとで経費として和也に請求される(笑)。後で聞いた話では、今回は少し多めの額だったらしい。
(理由はこの後でわかります)
走り出した車の中で、運転をしながら、サイード君がさらりと言う。
「東の方から逃げて来た人達ですよ。今朝のニュースでやっていた紛争地域からだそうです」
え?
「隣町が襲撃を受けたので、次は自分達の町だと思い、襲撃受ける前に逃げたんだそうです。家財道具全部乗せて。猫やロバも連れて。カイロの先に住んでいる親類の家に行くそうです」
え?
「彼達は早く逃げてよかったですよ。その町、今朝のニュースで流れていましたから」
え?
「あのまま町にとどまっていたら皆殺しにされていたでしょう」
え?
え?
え?
遠い世界の、過去の話しだと思っていた。
その時まで。
自分は何も理解していなかったのだ。
戦争も紛争もテロも遠い世界の話でも過去の話しでもなく…
今もどこかで起こっている身近な現実なのだという事を。
高田夫人や帯同家族向け講習や、先輩奥様達の話も過去の話ではないのだ。
今の自分にも起こりうる話だったのだと…
頭をがつんと殴られたようなショックを受けた。
振り向いたら、もうランサマ達の姿はひしめく車の陰で見えなくなっていた。
サイード君の話では、実は荷車のその周囲ののろのろ走る荷物満載の車や小型トラック等も避難民なんだそうだ。
全然気づかなかった。
そういう車等はカイロ市内では日常的によく見かけるので、避難民かどうかの差は夢乃ような外国人にはわからない。でもロバで荷車は珍しいので、目に付いた。つまり、一部だけ目にしたのだった。その周囲にはもっと大勢の人達が命からがら逃げてきていたのだ。
気づかなかった自分に、呑気に猫を見せてもらい喜んだ自分に、そんな大変な中でも笑ってバカな外国人に猫を見せてくれた彼等の気持ちを思うと、また頭を殴られる衝撃を受けた。
サイード君は青い顔していたらしい夢乃に
「気に病むことはない。(避難は)よくある話だし、マダムが猫を見たいといったことで、彼等にバクシーシ(喜捨)を多めにあげることができて、善行をすることができたのだから気に病むことは全くない」
と、言ってくれた。
それでも気持ちは重かった。考えや習慣の差だろうけど気持ちは重かった。
彼等は無事に親類の家にたどり着いたのだろうか?着いたと祈りたい。
幸いなことに、夢乃達はその後も帰国まで有事でオープンチケットを使う事はなかった。
でも今でもあの笑顔のランサマと、ストリングから見えた猫の茶色の耳が思い出されるたびに
胸が苦しくなる。
戦争も紛争もテロも無くなればいいのにと痛切に願う。願っている。
追記:
イスラエルとガザの件はかなりショックでした。ロシアとウクライナの件もショックだったけど…。イスラエルとパレスチナはここ最近は周辺国や関係諸国と共に、歩み寄りを見せ模索している感じだったのに…。
親類や知人と頼り避難してくる人の話しは駐在時に時々見聞きしました。
もちろんロバ荷車ではなく、軽トラみたいなトラックや車で逃げる人が多いのでしょうが、恐らくそういう移動する避難民の姿は、普段の車の雑踏に紛れてしまい認識ずらかったのだと思います。
でも、ロバで荷車を…という避難民はスピードもないし、当然普段の光景の中では異質で目に付くので、比較認識しやすかったのだと思います。
バクシーシシステムは気軽にできて相手も気にならない寄付金システムなのだとその時実感しました。
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