第13話

 商業地区は、歓楽街のような雑多なネオンの煌びやかさはなく、街灯と控えめな電飾を使った整然とした装いをしている。

 交差点を右折した時だった。

「何だ……?」

 先に異変に気付いたのは哲人だった。遅れてユゥカもそれに気付く。

「人が」

 ——逃げてる?

 そういう動きだった。

 街頭ヴィジョンが設置されたビルから、次々と人が走り出ている。

「桜庭さん」

「ああ」

 ユゥカが言うより早く、車が路肩に寄せられた。

 車を降りると、甲高い悲鳴が響いた。

 ビルから人々が逃げ出て来る様子を、物見高い通行人たちが観察している。

「何があったんですか」

 騒ぎの様子を見ていた一人の中年に哲人が尋ねる。

「ん? いやぁ、オレも解んねぇよ。何か急に悲鳴が聞こえたかと思ったらよ、人が走って出てきたんだ」

 そう説明する間も、男は無精髭の生えた顎をさすってビルを見続けていた。

「藍瀬」

 あれを見ろと、哲人は群衆の先にあるビルの入り口を指差した。

「あ……」

 目を凝らすと、ビルの中で人が何人か倒れているのが見えた。

「行こう」

「はい」

 哲人の呼びかけで、ユゥカは人の輪に飛び込んだ。群衆を掻き分けて最前列に出ると、ちょうど一人の青年がビルから出てきた。

「た、助けて……」

 怯えた様子の青年は、縋り付く物を探すように宙を掻いて、よたよたと歩く。

 ユゥカが駆け寄ろうと踏み出ると、近くで短い悲鳴が上がった。

「あ、あいつ! あの男! あの人がやったの!」

 その声を聞いて、群衆が一斉に距離を取る。

「ち、違う! 俺じゃない! 俺はやってない!」

 青年は違うと繰り返して、全身で身の潔白を証明しようとした。

「お、おい……何か、息苦しくないか……?」

 見物人の一人が声を溢す。

「た、確かに、言われてみれば……」

 ユゥカも息苦しさを感じていた。

 その声は波紋のように広がり、人々は次第に状況を理解していった。

「や、やっぱりあいつだ! あいつッ、異能者だ!」

「違う! 俺は異能者なんかじゃ——」

「く、来んな! 異能者だ!」

 誰かが叫ぶと、群衆は蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げだした。

 ユゥカと哲人だけがその場に残る。

「だっ、だから! 俺は——」

「動かないで下さい」

 ユゥカはAIGを向けて、一歩前へ出ようとする青年を制した。

「特殊障碍者管理厚生局です。それ以上動くと撃ちます」

「違う! だから! 聞けって! だから、俺は、異能者なんかじゃない!」

 ——…………?

 ユゥカは引金を引くのを躊躇った。

 俺じゃない——そう叫ぶ青年の目は、嘘を言っている者のそれには見えない。真に狼狽え、怯えた表情をしている。

 その一方で、息苦しさは一呼吸ごとに増していた。自然現象などでは決してない。明らかに能力による作用だ。

 空気の出入りは気管で確かに感じている。つまり、肺は正常に動いているのに、空気が体内に取り込めていないのだ。

 迷っている暇はない。

 ユゥカは疑いを払拭し、AIGを構え直す。

「おい! やめろ! 違う! 俺は——」

 パシュ——とガスが抜ける音。

「ぐあ……!」

 青年は腹部を押さえて、地面に倒れ込んだ。

「痛ぇ! 畜生! 何で……俺が!」

「あなたが……能力を……使ったからです」

 ユゥカはAIGを下ろして、深呼吸をした。とにかく空気を吸いたかった。

 ——…………!

 ユゥカは戸惑った。呼吸ができないのだ。咄嗟に喉を押さえる。

 ——どうして……?

 薬がまだ効いていないのだろうか。

 それとも。

 ——間違えた?

 ユゥカは焦る。

 ——犯人はあの人じゃない? 犯人は別にいる……?

 そんな考えがよぎった。

 ユゥカは周囲を警戒し、遠巻きに現場を見ている人々を注視した。

「まさか……奴じゃないのか……?」

 哲人はネクタイを緩めて言った。

「判……りません。でも……能力がまだ……」

 喋ることすらも辛かった。頭が痛い。

 ユゥカは震える手でAIGに新たな注射筒を装填した。哲人も腰のホルスターからAIGを抜く。

 本当の犯人を探すが、どこにいるのか検討もつかなかった。

 ——そんなことより。

 呼吸ができないことをどうにかしなければ。

 ——いや。

 真犯人にAIGを撃つべきか。

 ——駄目だ。位置が判らない。

 思考力まで低下しているのか、考えがまとまらない。

「か……は……」

 限界だ。苦しさで立つことさえできず、ユゥカは膝を地に着けた。

 撃たれた青年の悪態が背後から聞こえるが、どうでも良かった。

 このままでは本当に死んでしまう。

 ——せめてこの場から離れなければ。

 ユゥカがそう考えていると、突然腕を引かれた。

 顔を上げると、哲人だった。

 ——何を……?

 ユゥカは手を引かれるまま、脱力感に抗って重い足を進めた。

 するとどういうわけか、次第に呼吸が楽になってきた。

「ここなら……大丈夫だろう」

 そう言って哲人は、ユゥカの手を離した。

 ユゥカは目一杯肺に空気を送り、盛大に吐き出した。

 ——ここは……?

 なぜ急に呼吸が楽になったのだろう。ユゥカは辺りを見渡した。

「アンタら、覚えてろよ……」

 ユゥカのすぐ後ろに、あの青年がいた。

 ——あ。

「そういうこと——ですか」

 哲人が、青年から距離を取るのではなく、逆に青年の近くに来させた理由がようやく解った。

「やっぱり、あなただったんですね」

 ユゥカは倒れている青年に視線を下ろす。

「私たちが呼吸ができない間も、あなたはずっと平気そうでしたよね」

「し」

 知らねえよと、青年は首を振った。

「つまり、あなたの周辺なら呼吸ができる。そういうことですよね、桜庭さん」

 ユゥカが振り向くと哲人は、ああとだけ応えて、AIGをホルスターに収めた。

公共治安維持局コウチは俺が呼んでおく。藍瀬は身柄の拘束を」

「分かりました」

 ユゥカは、血で染まった青年の手を強引に引き寄せて、手首に手錠を掛けた。

「クソっ……訴えてやる……!」

「ご自由にどうぞ。あなたが能力を使ったことは紛れもない事実です。それに……」

 ユゥカは男の左手首に視線をやる。

「ヘルスウォッチもないようですし」

「当たり前だ……。俺は……異能者なんかじゃねぇ」

「まだ言いますか」

 青年は、あくまでも自分は健能者だと言う顔である。嘘もここまで貫き通されてしまうと、本当のことのように思えてくる。けれどもそれは、この場だけ呼吸が正常に行えていることが否定している。

「藍瀬」

 哲人の呼ぶ声に、ユゥカは振り向く。

「はい」

「少なくとも半径二十メートル圏内は、今は問題なく呼吸できることを確認した。やはり薬の効果が遅れたんだろう」

「やっぱりそうでしたか」

 それと、と哲人は言葉を続けた。

公共治安維持局コウチに連絡したが、ここ以外の複数の箇所でも事件があったらしい」

「どういうことですか」

「判らん。その一つがこの近くらしくてな。とにかく、公共治安維持局が来るには少し時間がかかるそうだ」

「そうですか」

 嫌な予感がした。公共治安維持局が出払うほど、幾つもの事件が同時に起こるなんてことは、とても偶然とは思えない。

「見ていた一般人には、公共治安維持局が来るまでここで待っているよう言っておいた。藍瀬はここでその男を見ていろ。俺は中を確認してくる」

「分かりました」

 ユゥカがそう応えるより前に、哲人はもう歩き始めていた。

 ユゥカは、哲人に言われた通り、捕らえた青年を見張る。

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