Day3「兆し」
第10話
『ユゥカの方はどうだったの? ガッコー。楽しい?』
『普通——かな』
別段楽しいと思ったことはない。座って講師の話をただ聞くだけのあの場所は、退屈以外の何ものでもない。
ユゥカが面白味のない返答をすると、ルカはうーんと腕を組んだ。
『じゃあ、どんなこと習った?』
『今日は……太陽のこととか、月とか』
ユゥカがそう答えると、ルカは興味津々といった表情で身を乗り出した。
『ツキ? タイヨー?』
月も太陽も、ルカにとっては初めて聞く単語だったのだろう。
この施設には何もない。何回かのルカとの会話で、そのことは理解できた。どうやらここでは、睡眠と食事と会話、それから僅かな勉強しか許されていないようなのだ。
ルカはだから、本当の空の色を知らないし、草の匂いや、太陽の眩しさすらも経験したことがないだろう。
外出どころか、この施設には外と通じる窓もないと聞いた時、ユゥカはルカの不健康なまでの肌の白さに合点がいった。
彼女らはこうして、外界を目にすることなく成長していくのだと、ユゥカは漠然と理解していた。
『太陽っていうのは、大きくて眩しくて暖かくて、空に浮いてるの』
へえと言って、ルカは感心の眼差しを向けた。
『月は、太陽の光を反射して光ってて、地球——私たちがいる青い星から近い空にあって、なぜかずっと私たちの方を向いてるの』
『へえ。良いなぁ、ツキって』
『どうして』
ユゥカは首を傾げた。ただ地球から近いから大きく見えるだけの天体の、どこにルカは惹かれたのだろう。
『だって、ツキは——……』
「藍瀬、聞いてるのか」
「……はい」
哲人の言葉に、ユゥカは機械的に応じた。
自失していた。本当は話なんか聞いていない。
先日捕らえた現金強奪の指定違法者のことで進展があったと言っていたところまでは覚えている。
「聞く気がないならここにいる必要はない」
「すみません」
周囲から溜め息のような嘲笑のような吐息が聞こえた。
薄暗い会議室には、三十人ほどの特殊障碍者管理厚生局の局員が集っている。ここにいるのは全て、監理局員と機動局員だ。ユゥカは隠れるようにその末席に座っているのだが、哲人は部下のサボタージュを見逃してはくれなかった。
プロジェクターの光に照らされた哲人が報告を再開する。
「それから、逮捕直前に気になる言動があったので公共治安維持局に調べさせたところ、ある人物が浮上しました」
その言動とはと、シルエットの誰かが尋ねる。
「前後の会話は省きますが……。聞いてねぇぞ、あの野郎——と
——井口……?
どこか聞き覚えのある名前に、ユゥカは首をひねる。
——ああ。
腕に鯉の
思えば確かに、奴はそんなようなことを言っていた。
てっきり金銭に困って犯行に及んだのだと思っていたが、そういうことではなかったのだ。
「問い詰めてみると、彼らはある男に脅されて現金の強奪を行ったそうです。それを命じた人物の特徴は、三十代の男性、身長百九十センチメートル以上、左目に切り傷の痕があるとのことでした。さらに、昨日捕らえた宝石強盗犯からも、ほぼ同じ証言が得られました。その特徴が合う者をリストから選出し、確認を取ったところ、この男だと判明しました」
スクリーンに映し出されていた模式図が、男の正面画像に切り変わる。途端に、会議室に静かな騒めきが広がった。
「この男は……」
「何でこいつが」
口々に驚きと動揺の声が上がる。
——誰?
おそらくこの会議室で唯一状況が理解できていないであろうユゥカは、スクリーンの男をただ見つめていた。
色黒のその男の顔には、左眉から頬にかけて、一条の傷跡がある。画像の背景が淡い黄緑色をしていることから見るに、五年ごとに行われるID更新の際に撮影された物のようである。ただ、哲人が言った情報よりも随分と若いように見える。
「この画像は十三年前、二十歳の時の物ですが、この男で間違いないとのことです」
再び室内が騒つく。
「皆さんもご存知の通り、この男——
画像が消え、スクリーンが白に転じる。
「気になるのは、縁金響也が現金強奪を命じた目的です」
哲人は眼鏡を指で正す。
「縁金は初めの殺人以降も殺人や暴行を繰り返していましたが、その対象は犯行が発覚しにくい指定違法者が半数。目的は憂さ晴らしと僅かな金銭で、今回のような、人を使って大金を——というケースはありません」
つまり——と、上席の一人が手を挙げた。洋梨のようなシルエットだから副局長だとすぐに判る。
「縁金が犯行のパターンを変えたということかね」
そうなりますと哲人は答える。
そんなこと聞いていれば解るだろうと、ユゥカは胸中で小馬鹿にした。
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