第7話
視線を下に移すと、スポーツウェアを着た女性がランニングをしていた。当然その腕には、ヘルスウォッチが着けられている。
女が通り過ぎ、辺りには誰もいなくなった。
景色に変化がなくなる。
動かない
それが終わると粗末な朝食を摂り、携帯端末から国内の情勢——主に事件などの報道を確認する。
いくつか気になる記事を読んだ。まず目についたのは、公共治安維持局の局員が、一般の特殊障碍者を射殺してしまったという事件だ。小さな記事で詳細は不明だが、酒に酔った特殊障碍者に暴行され身の危険を感じた局員が、やむなく拳銃を発砲したのだそうだ。
記事はあくまで、護身のため発砲はやむをえなかったとでも言うような書き方をしている。本当にそこまでしなければならないほどの暴行だったのかと疑ってしまうのは、ユゥカの穿った見方だろうか。
おそらく当の局員は公務執行妨害か正当防衛辺りが意図的に拡大解釈され、大した処罰は下されないのではないかとまで考えてしまう。
他に気になることといえば、今日未明——ほんの数時間前に宝石強盗犯が捕らえられたことと、近年、行方不明の特殊障碍者が増加傾向にあるらしいというくらいだ。前者については、深夜勤でなくて良かったという程度の感想しか出ない。後者は、読んでいてやや憂鬱になった。この内容は指定違法者が増えているということを意味し、必然的にユゥカの仕事が増えることになるからだ。
そんなことをしているうちに、時刻は七時四十分になろうとしていた。
今日は人と会う予定がある。
哲人はああ言ったが、ユゥカにだって休暇はあるのだし、そういった日には予定くらい——ごくたまに——入る。
Aピルを服み、いつも通り副作用を鬱陶しく思いながら、支度を済ます。
アパートメントを出て駅へ向かう。
徒歩十五分程で見えてくる、水色を基調とした近代的な建造物。そこから伸びる高架を、群青色の
何十年も昔は、あの乗り物は大層うるさい代物だったのだそうだ。レールが鉄でできていた時代である。
現在ではネオフェルムという、自然の気温変化程度ではほとんど伸縮しない合金でレールが製造されているため、レールに無駄な隙間を作る必要がないのだ。
改札を抜けて電動昇降機からプラットホームに降りたところで、ユゥカが乗る電車が停車した。
車両のドアが一斉に開くと、ホームの人間がぞろぞろと吸い込まれていく。誰も彼も、目に付くほとんどの人が通学か通勤の身なりをしている。
ユゥカは、背後を歩く明らかに時間を気にしている男を尻目に、わざとのろのろと車両に乗った。
電車が発進し、足場が揺れる。
——この感じ……。
消音電車に乗るのは久しぶりである。
ユゥカは、プライヴェートでは公共交通機関をほとんど使わない。ライセンスこそ持ってはいるが、自家用車も持っていない。唯一乗るのは、仕事中に局から貸し出される車だけだ。
こうして慣性を体で感じることが、だから新鮮に思えた。不思議なもので、自分で運転している時はあまり感じないのだ。
電車が大きくカーヴを描く。すると引っ張られるように乗客が一斉に傾く。それが滑稽に思えた。帰りにはこれが逆向きで行われるのかと思うと、また笑えてくる。
区域内の路線は幾重かの環状になっている。各地区と等級区に沿って円を描き、それぞれが一定の間隔で繋がっているから、上空から見ると渦のようになっているらしい。
もっとも、路線が綺麗な渦に見えるほどの高さのある建物は区域内にはないのだが。
「ああ、そうだ」
これから会う人物に連絡を入れなければ。
ユゥカは携帯端末を取り出し、画面の隅に表示されているメッセージのアプリケーションを開いて、キーを叩く。
もう駅にいる?
あと三分くらいで着く
かも。
四号車に乗ってる。
短いメッセージを送信する。
それから間もなく携帯端末が震えた。携帯端末を見ると、やはり先程のユゥカの送り相手からの返事だった。
オッケーわかった
四号車のどこ? 前?
その答えとしてユゥカは一文字、〈前〉とだけ送った。
消音電車に揺られること十余分。着いたのは三級の等級区。
「やっほー! ユゥカ」
車両に乗り込んで第一声。陽気にユゥカの名前を呼んだのは、ユゥカの唯一の友人——
以前会った時は髪は金色だったはずだが、明るいピンク色に変わっている。
「久しぶりー。会いたかったよー」
「うん。久しぶり」
電車がゆっくりと前進を始めた。
「いつ振り? もう一年経つ?」
「まだ半年だよ」
そう言ってユゥカは笑みを浮かべる。
互いに仕事が忙しいせいで、こうして会えるのは年に数回しかない。
ミュアと初めて出会ったのは、高校の頃だ。いつ頃から、何をきっかけに友人になったのかは、よく覚えていない。
根暗で地味なユゥカと、社交的で派手なミュア。性格は正反対だが、ユゥカはそんな彼女といる時が一番ニュートラルな状態でいられる。こちらが気にかけずとも勝手に喋るし、何も言わずとも勝手に察してくれる。端的に言えば、一緒にいて居心地が良いのだ。
途中で消音電車を乗り換え、目的地である商業地区で降車した。
「っあー、久しぶりだぁ」
駅から出るなり、ミュアは大きく伸びをした。
「意外だね。ミュアなら何かあればすぐ来そうだけと」
「行きたいんだけどさー。ウチ車のライセンス持ってないしさー。でもいちいち電車乗るとお金かかるし、近いけど歩くのはメンドいし。だからここ来るのって友達に誘われた時以外にはあまりないんだよねー」
まあユゥカほどじゃないかとミュアは言ったが、ユゥカはそれを否定した。
「私は仕事で来るかな。たまにだけど」
へぇと、ミュアは何故か感心を含んだ視線でユゥカを見つめた。
「で、どこ行こうか」
「あ、先に何か食べて良い? ウチ朝食べてないんだよね」
「ならそこのカフェが良いんじゃないかな」
ユゥカは、区域内だけで四店舗もある、若者に人気なカフェを示した。
「ユゥカにしては意外なチョイスじゃん」
「そうかな」
ユゥカとしては無難な店を選んだつもりだったのだが。
「ここカフェモカが美味いんだよねー」
「相変わらず好きだね、それ」
ゆったりとした曲が流れる静かな店内に入ると、中には意外にもそれなりに客がいた。そのほとんどが、シワのないスーツを着ていて、端末を忙しなく叩いている。
なぜこんな時間にこれほどの人がいるのかと考えて、そこでふと、店頭に出ていたデジタルサイネージに〈モーニングサービス〉と表示されていたことを思い出し、合点がいった。
適当な席に座り、ミュアはカフェモカとパンケーキを、ユゥカはコーヒーを一杯だけ注文をした。
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