第6話
ユゥカはタバコとライターと灰皿を取りに戻ると、今度はヴェランダへ出た。
早朝の風が冷たい。
咥えたタバコに火を点け、口内に煙を溜める。そしてタバコを口から離して少し煙を吐き、最後に有害物質を目一杯肺に送ってやる。
この時間がユゥカにとっての至福だ。
喫煙は二十二歳の時に始めた。
正直言って、タバコ自体はあまり好みではない。美味しいとも思えない。
ただ、タバコの有害性——それを体に入れるという、ある種の自傷行為から生じる背徳感とそれに伴う安心感が、心地良いのだ。
朝に一本。それだけと決めている。
それで苦にならないところを見るに、このペースが体に合っているのだろう。
涼やかな風が、ユゥカの二の腕から体温を奪う。その感覚がユゥカを感傷へと導く。
——ルカ。
「どこなの……ルカ」
現在、ルカの行方は判らない。
今から九年前。ユゥカが十七、ルカが十九歳の頃だ。祖月輪ルカは——忽然と姿を晦ました。
要塞の如く厳重な設備が整っているにもかかわらず特殊障碍等級第一級の少女が施設から消えたという事件は、ことがことだけに、公に知らされることはなかった。
この情報自体、ユゥカが今の職に就いてから知ったことである。突然理由もなくルカと面会ができなくなったため、当時は訳が解らず困惑したものだ。
現在は、特殊障碍者管理厚生局を主体に、公共治安維持局と連携して秘密裏に捜索中であるのだが、ルカの足取りは掴めていない。ヘルスウォッチはもちろん、体内の計測器までも外されていたのだ。区域内の至る所に設置されている監視カメラにも、それらしい姿は捉えられていない。既に特殊支援区域の外へ出てしまったのではと考える者もいる。
でも、ユゥカにはなぜか、ルカは区域内にいるような気がしてならない。
根拠などない。
昔風に言うなら、女の勘というやつだろうか。
そこまで思って、ユゥカは胸中で違うとと否定した。勘よりももっと曖昧で、不確かで、幽かな何かだ。なんとなく——という表現が一番近いかもしれない。
もちろん、そんな妄想めいた無責任な推察は哲人にも伝えていない。
——あ。
灰が落ちた。
タバコはいつの間にか半分まで縮んでいた。
ユゥカは落ちた灰を踏み潰し、残ったタバコは灰皿に押しつけた。
それからしばらくヴェランダから街を眺める。
ここら一帯は、特殊障碍等級が八級と診断されている者のみが住めるエリアだ。特殊障碍者が住む場所としては、最も壁に近い。
特殊支援区域は、養生エリアを中心に、商業地区、居住地区、行政地区と、木目のように広がり、居住地区もまた、三級から順に、内側から特殊障碍等級別に配置される。非特殊障碍者と十八歳以下の子供はこの限りではなく、非特殊障碍者は特に制限はないが、ほとんどは八級より外側の区画——俗称として一般居住地区と呼ばれる——で暮らす。
構造上、外側の地区ほど面積が広くなるが、障碍が軽い者ほど人口が多いため、これで良いのだ。
ユゥカ個人の考えを言わせてもらえば、等級が高い者をわざわざ内側に寄せているのが、危険な者を壁から遠ざけたいという意思があるように思えてならない。
養生施設なんてその最たる物だろう。
親から親権を取り上げ、死ぬまで軟禁状態。
健能者と異能者という呼び方だってそうだ。健やかな身体機能って何だ。異常な身体機能って何だ。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
ヘルスウォッチに目を遣る。
いっそこいつを叩き壊して指定違法者にでもなれば——そんなことを思うが、それがどんな結果をもたらすのかを、ユゥカは誰よりも知っている。
特殊障碍者は、ヘルスウォッチを通して国に管理されている。
Aピルの服用状況はヘルスウォッチから特殊障碍者管理厚生局に把握されているが、ヘルスウォッチの役目はそれだけではない。
ヘルスウォッチに脈拍などのヴァイタルのデータが送られない状態が十二時間続くと、特殊障碍者管理厚生局から警告が入り、さらに十二時間経過すると、ヘルスウォッチの位置情報を頼りに局員が訪問する。
そこに本人がいない場合、その人物は指定違法者としてリストに追加される。そうなれば、死亡が確認されるか捕まるまで、その者は国家公認の能力使用者——機動局員を相手にすることになる。もちろんAピルを服み続けなくても同じ手順を辿る。
特殊障碍者による犯罪の多くが能力を使わずに行われる理由はこれにある。
一般的な犯罪なら、相手は公共治安維持局だけであり、装備は拳銃とAIGくらい。武器さえあれば戦力に差はほとんどなく、逃亡が成功する可能性は五分だ。
ところが能力の使用が確認されると、特殊障碍者管理厚生局の機動局員が駆けつけることになり、能力での戦いは避けられなくなる。安全に逃げられる確率は限りなく低い。
仮に逃げられたとしても、まともな暮らしはできない。
一番の問題はやはり資金面だ。特殊障碍者は現金を使うことができない。ヘルスウォッチを手放すということは、財産を捨てることと同義なのだ。いつぞやの現金強奪犯のように、犯罪を重ねるしかなくなる。
運が良く賢い者なら巧妙な手段を駆使して上手くやることもあるが、多くはそうではない。大なり小なり非合法な商売をしてようやく生活できるというのが常だ。
そんな生活を送るくらいなら今の方が断然マシだろう。そう思い直し、ユゥカは遠くの家々の屋根に焦点を合わせた。家といっても、ほとんどがアパートメントだ。
目視では、どこまでが八級でどこからが七級なのか判別ができない。健常者の家もあるかもしれない。どれも皆同じような建物をしている。
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