第五話

 さらさらとした冷風に額をくすぐられ、私は瞳を開けた。

 視界一面に広がる、深緑色の森。

 甘く冷えた空気を吸い込み、短い草むらの上を裸足で歩いた。

 天を仰ぐと、黒い夜の色に金の星の光が散らばっていて、思わず綺麗だな、と呟いた。

 夜空を眺めながら視界を一周すると、私は目を見開いて、視線を一点に止めた。

 

 ぼんやりとした雲がゆっくりと晴れ渡った先に────お父さんが、浮かんでいる。

 

 まん丸い顔のお父さんが、囲まれた星よりもずっと大きいお父さんが、夜空に浮かんで微笑んでいる。


 刹那、私は駆けた。

 まん丸のお父さんに目がけて、夜の森を裸足で駆けた。

 冷たい風に頬を打たれながらも、足がよろめいて転びそうになっても、無我夢中に駆けた。

 

 お父さんがいる! お父さんに会える!


 それだけの思考に染まって、友達との鬼ごっこの時よりも、運動会のかけっこの時よりも、ずっとずっと速い足取りで駆けたのだ。


 だけど、いくら走っても、一緒についてくるようで、お父さんは遠くに浮かんでるだけ。


 相変わらず笑いながら浮かんでるお父さんを見上げて、駆け足を少し止めて、ゆっくりと歩き出した。するとお父さんの動きも緩やかになって、まるで歩幅を合わせているようだった。


 森の中を一周して、ふと、何かに類似したように思えた。


 お月さまだ。お父さんは、お月さまになったんだ。


「お父さん、お月さまになっちゃうの?」


 空を向いて問いかけると、お父さんはにかーっ、と歯を見せて笑って、

 

『そうだ、里帆りほ。お父さん、お月さまになるんだぞ』


 その得意げな笑みが、声が、あまりにお父さんらしかったから、さまよう暗闇の中でやっと光を見つけたような、そんな高揚感が湧き上がった。


「もうお父さんには会えないの?」


『ごめんな。昔みたいには会えないよ』


 むぐ、と下唇をかじった。


『でもな』


 と、お父さんは天高いところで言葉を紡いだ。


『日が暮れて、暗くなって、夜になったら、お父さんはお月さまになって、お前を見に行くよ』


 優しい声で、紡いだ。


『辛い夜になった時は、夜空を見上げて、お父さんを探してくれ。例え探してくれなくたって、お父さんはずっとずっと見守ってるぞ! 里帆に忘れられたって、お父さんは里帆を照らしてやるからな!』


 溌剌な声で、紡いだ。


 私は目から涙の雨を降らしながら、そんな眩しいお父さんを見つめ続けた。


「忘れないよ」


 みっともない涙声で叫んだ。


「絶対に忘れないよ。探してあげるよ。一番星より先に、お父さんを見つけるよ。ねえ、約束だよ。お父さん、お月さまのまんまでいてね。見えないところにいかないでね。ねえお父さん、約束だよっ」


 ああ、とお父さんは夜空の中でゆっくりと頷いた。


 そんなお父さんの溶けてしまいそうな笑顔から、流れ星が降るようなキラキラとした煌めきが瞬いた。


 金色こんじきの光に包まれて、お父さんは幸せそうだ。


 眩しくて眩しくて、思わず瞳を閉じた。


 いかないで。会いたいよ。もっともっと、会いたいよ。あの笑顔が見たいよ。あの声が聞きたいよ。手を伸ばしてだっこしてほしいよ。高く高くおんぶしてほしいよ。眠る前にキスをしてほしいよ。


 だけど────さよならしなくちゃ。


 お父さんは、お月さまになったんだから。

 スーパーマンから、お月さまに昇格したんだから。

 私以外のたくさんの人たちも、照らしてあげなくちゃいけないんだから。


 だからお父さん、さようなら。

 まん丸のお父さん、さようなら。

 また夜空の中で、一番に私を見つけてね。

 今度こそ、約束なんだから。

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