人を愛すること

wataru

好きの定義

 ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことについてだ。大学生時代に出会った女性について。しかし、私は彼女の情報を今では持ち合わせていない。今私の記憶には、彼女の顔も残っていないのだ。私達はふとした成り行きで、一夜を共にした。同じ女性と抱き合うなんて思っても見なかった。おそらく向こう側も私のことなど忘れているのだろう。


 この期間の経験を、ここで話しておかねばならないと思っている。私の人生に紛れもなく大きな影響を与えた彼女の存在を。


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 私が大学生になり、入学したとほぼ同時に、彼女は寄ってきた。二年生のようで、文系らしい服装で理系の感じとはまるで対照的だった。ここで何をしているのか聞いては見たが、「小説を書いてるんだ」位しか話してくれなかった。したとしても世間話ほど。


 私は今これを見ている人や、周りの人が思っているより情弱だ。彼女がもしこの話を知ったとするならば、彼女は落胆する(もしくは何も思っちゃいない)し、私も不快だろう。それでも話さなければならないことだ。


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 『すべての恋は、対話をしなければ成立しないと思う。ただ見つめて満足するというのなら、それはもはや恋とは言えないだろう。恋の中にいつもあるのは互いの行動だ。どんな形であろうと、想いは発言しなくてはならないのだ』

 ―――――彼女の書いた小説より引用―――――


 私達は裸でベットの中にいた。その頃はもう冬に近づいていたが、毛布は被っていない。


 「ねえ、私はもしかしたら、時に別の人の名前を口にするかもしれないけど、大丈夫?」と、彼女は私に尋ねた。

 

「問題ないよ」と私は言う。

彼女は私のことが好きで私と抱き合っているわけではないのだ。

 

 少しずつ、声が大きくなって、うちはアパートだったから、隣人に聞かれることを危惧した。私の部屋の中から、女の人が別の女の名前を叫んでいると知られたら、後々面倒くさい事になってしまう。(文章に起こすともっと面倒くさい)なんとか声を抑えようと、ベットの端に追いやられた毛布を引っ張って、彼女に噛ませた。


 この関係まで至ったのはあくまでも偶然だった。偶然同じ大学にいて、偶然出会って、アルバイトをしているのを見つけたのも偶然だった。そして今は不器用にお互いの体を慰め合っているのだ。居酒屋で働いている彼女に話しかけると、バイトが終わるまで待たされることになった。その日のシフトが終わったようでこっちに来ると、酒を頼み始めた。彼女だけが酒を飲み、私はそのおつまみをちびちびと食べていた。


 彼女が酒を飲みながら話していることは、好きな人のことや、教授への不満とか、彼女自身が書いている小説についてだった。後に私の家に押入り、その酒臭い口を重ねてきたのだ。


 「もしあなたが時には、その時にはあなたの好きな人の名前を叫んでいいよ」と言われ、私の頭に浮かんだ顔は一人の男の人。私と同じ一年で明るい人だ。基本誰にでも優しくしていて、私にも同じ対応だ。それにあの裏表のない口調や表情。いわゆる「誰にでも優しい陽の人」を醸し出していた。


 それは一目惚れと言うものなのだろう。遠くから眺めているとその人の素の姿が見えた。その姿がとても輝かしくて、憧れの対象になった。


 彼に話を切り出すことはできなかった。この気持ちを伝えてしまえば、今見ているこの景色は続くことはないだろうと危惧していた。相手からしたら、殆ど知らない人から突然告白されて、困るだろう。少なからず彼の友達には広まり、噂になってしまう。やっぱりこのままでいい。このままキラキラした彼を眺めるだけでいいのだ。大前提として、彼には恋人がいるかもしれないしね。


 それでも、私は彼の姿を今、目の前にある裸体と整合させようとした。女体を見ながら男の体をイメージすることは上手くできなかった。なんにせよ、私は男の人と(というかそういった行為自体を)したことが無かったので、どことないもどかしさを感じた。流石に彼の胸部が膨らんでいるはずがないのだ。


 そうだ。見ているだけじゃ何もできないんだ。彼とまともに話していないから、本当にこれが恋と呼べるのかはっきり言えないが、頭の中に度々彼が現れる。今目の前にいるのが彼だったとしたら、どんなに嬉しいだろうか?


 この一夜を終えたら、彼に話しかけようと決意したのだ。沢山話して、デートをしたい。今は女の手を握っているが、この手を彼のものにすり替えてしまいたい。ほら、こんなにも、私の身体はあなたを求めている。


 意思が確立した。そこで初めて私は声を漏らす。出てきたのは彼の名前だった。連呼し、吐息が混ざった。息が切れながらも、彼を呼ぶ声は収まらなかった。


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 生暖かい陽が顔にあたり、目を冷ます。辺りを見渡すと散らかった私の家。まだ彼女はいるようだった。


 体を起こそうとすると、全身がきしむ。きっと慣れない筋肉を使ったせいなのだろう。まだ湿ったベッドに手をかけ、起き上がり鏡に立った。


 その鏡に写っていたのは紛れもない私。でも今日以前の私とは、表情が違う気がしたんだ。一人の女性として、人間として、顔つきになっていた。その顔からは英気、自信、感情みたいなものが溢れるほどになっていた。


 彼女は台所で勝手にコーヒーを淹れていた。私が起きてきたことを見ると、両手にコーヒーの入ったカップを持ち、私に差し出した。


 それからは殆ど会話は無かった。唯一あったのは意識がぱっちりした頃。彼女はバッグの中に入っていた小説の一節(を何枚も)を私に寄越してくれた。原稿用紙にラフのような形で書き留められており、その内容から、人間の恋愛感情や、生死、夢や目標などを題材として多く扱っているようだった。


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『お互いが目指すのは別の道。あなたのその意思が堅いものならば、私はそれについてゆく。私の人生は、この際どうだって良いの。狂おしいほどにあなたが好きなんだから。どうか私も連れて行ってくれないでしょうか?』


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『以前は活発な女の子だったのに、今では遺骨に小さくなってしまって、さみしいよ。お別れのとき、もう一度その頭を撫でることができたなら、今頃こんなに後悔していないのかな。神様。こんな僕だけど耳を傾けて。また、あの子と会えますように。どうか……』


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 私の人生は、せめて悔いのないように。



              「人を愛すること」

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