8
翔吾が異変に気付いた時には、もう地面は震えだしていた。
足を伝ってきていた振動音も、いつしかこの空間のあちこちで暴れまわるほどになっている。
しかし、明らかな異常事態だと言うのに、翔吾の中に逃げるという選択肢はまったく浮かばなかった。
むしろ、この事態を楽しむ余裕さえあった。
彼は自分たちの立っているこの魔方陣の中に大地の干渉が届いていない事を、本能的に感じ取っていたのである。
やがて、魔方陣の円に沿ってポツポツと丸い光が現れ始めた。
生まれ出でた光は初めこそ小さく弱々しいが、お互いに重なり合う事でその輝きを強くしてゆく。
そしてとうとう魔方陣をすっぽりと囲んでしまうと、光はもはや我慢できないとばかりに、天空めがけて勢いよく飛び出していった!
「す、すっげぇ……!」
『わぁ……。』
ふたりは子供のように目を輝かせながら嘆息を漏らした。
伸びた光のカーテンは今や遥か上方にまで達し、そこから溢れ出た無数の光の粒子が、キラキラと輝くシャワーとなって、ふたり目掛けて降り注がれてゆく。
つい先ほどまでけたたましく鳴り響いていた轟音は光のカーテンに遮られて、翔吾たちには、どこか遠くで微かに音を立てている程度にしか聞こえなくなっていた。
「……いや、だけどなぁ。」
翔吾は、体にまとわりつく光のシャワーを眺めながらぽつりと呟いた。
「話っていっても……こんな状況でいったい何を話したらいいんだ……?」
ウェイティングルームから呼び出しを受けてからここまで、ただでさえ驚きの連続、あげくの果てにはこの光の洗礼である。
そんな状況で「話せ」と言われても、まるで戸惑うばかりで頭が働かないのも無理はなかった。
すると、翔吾の耳に柔らかな音色がするりと入り込んできた。
『あの……聞かせてもらってもいいですか?』
それは言うまでもなく、麻由の声。
翔吾はその心地よさに思わず体をぶるっと震わせながら、麻由の方を見た。
こちらの顔色をうかがうようにして見上げるその表情こそパーティーの時と変わらないが、彼女におどおどとした雰囲気はもうほとんどない。
声があるというだけで人はここまで変わるのかと、翔吾は秘かに驚いていた。
『翔吾……さん?』
「あ、はいっ。えっと、なんですか?」
ハッと翔吾は我に返ると、声をひっくり返らせつつ問い返す。
『聞かせて欲しいんです。パーティーの時の答え。
喋れない私にどうして話しかけてきてくれたのか、その理由を……。』
――張り詰めた空気が、一気に魔方陣の中を支配した。
翔吾は反射的に目を伏せた。
……それは、有耶無耶にしたはずの質問だった。
翔吾の頭の中を、9番の言葉がよぎる。
――『うわ、勝負に行きよった』って思ったもん。――
その言葉は、まさに図星だった。
パーティー会場で誰も麻由に話しかけなかったのは、彼女が喋る事ができないという事実が周知だったからだ。
そしてそれは見方を変えれば、ひとりの参加者を独占できるという事でもある。
ただでさえ限られた時間だ。
集団に身を置いて、他の参加者と相手を奪い合う事に時間を割くよりは、たとえ喋れなくてもひとりの相手に時間をかけた方が分の良い賭けだと翔吾は考えたのだった。
そしてその賭けは、ものの見事に的中した……。
「僕は……。」
言いかけるも、その後の言葉がどうしても続かない。
言ってしまえば、きっと麻由は自分に幻滅するか失望してしまうだろう。
そしてそんな相手に大事な命を渡す事に、後悔すら覚えてしまうかもしれない。
すでに儀式は始まっている。
自分がいかに矮小で卑劣な人間であるかを告白しても、翔吾からすれば何も問題はない。
お互いに、もう後戻りはできないのだから。
(でも……。)
でも、どうしようもなく逡巡してしまうのだ。
翔吾は何度も言葉を紡ごうとしては、苦々しく首を振った。
すると……。
『……ありがとうございます。』
再び、麻由の美しい声が流れ込んできた。
翔吾は呆気に取られた。
こちらは何も言葉を発してなどいないのに。
『伝わりました。あなたの気持ちで。』
「え? ……あっ。」
翔吾は理解した。
ここが魂で声を届ける事が出来る空間だと言うのは、先ほどスタッフが言った通りである。
そしてそれは、この場所において何かを伝えるのに必ずしも声を使う必要はないという意味でもある。
翔吾の迷いや罪悪感は複雑に絡み合い、大きく膨らんでいった。
その結果、まったくの偶然に、翔吾が今抱いていた想いが麻由へと届いてしまったのだった。
「ごめんなさい……。」
翔吾は観念して謝罪の言葉を口にした。
自分の打算や汚い感情が、すべてさらけ出されてしまったのである。
彼としては、もうどうにでもしてくれという心持ちだった。
『いいんです。』
しかし、麻由はやんわりと首を横に振って微笑んだ。
『私、翔吾さんを選んだのは間違いじゃなかったって、今、心からそう思っているんですよ。だって、あなたはそんなにも思い悩む事が出来るんですから。』
降り注ぐ光は、今ではふたりの体をすっぽりと包み込むほどになっている。
さらにふたりの間には一本の光の筋が形成されており、翔吾を包む光の衣と、麻由のそれとを繋いでいた。
ふと、翔吾は自分の体の中が急速に熱くなってゆくのを感じた。
それは少しの鈍痛を伴っていて、その痛みに翔吾は思わず身をかがめてしまう。
彼は久しく忘れていた「生きている実感」を覚えると共に、儀式の終了が近い事を悟った。
交換の儀。
終わりかけていた命と、続くはずだった命の、取り換えっこ。
翔吾は溢れる衝動をもう抑えなかった。
「あの!麻由さんの理由も聞きたいです。なんで僕を選んでくれたのか……!」
その言葉に、麻由は心底嬉しそうに顔をほころばせた。
『あなたが羨ましいと思ったから……。大きな夢や目標があって、それなのに自分の体がダメになってしまって……。治らないかもって言われているのに、苦しいはずなのに、それでもまだ諦めずに、そうして前を向いている。ひたむきに。
それは私には出来なかった事なの。だから……。』
――だから、あなたに、この命をあげたいって、思ったの。――
しかし、その言葉が翔吾に届く事はなかった。
「……麻由……さん?」
麻由は、口をだらしなく半開きにしてトロンとした表情を浮かべていた。
その目からは生気がほとんど感じられない。
全身も力なくゆらゆらと揺れていて、今なお立っているのが不思議なくらいである。
一方、翔吾の体内の熱はますます強くなるばかりであった。
体中の細胞という細胞が激しく活性化し、ついには叫びだしたくなるほどの高揚感で満ち満ちようとしていた。
「うっ……が、あぁッ!」
翔吾はたまらず苦悶の声を上げた。
快楽とも苦痛ともつかない刺激に身をよじらせて。
そして、気付いてしまった。
麻由を包んでいたはずの光がいつの間にか失われている事に。
逆に自分を包んでいる光がより大きくなっている事に。
「麻由さん……!」
翔吾の呼びかけもむなしく、麻由の体は地面へと崩れ落ちてゆく。
「麻由さんッ!!」
その時だった。
光のカーテンの中を、硬質的な、乾いた摩擦音のような音がこだましたのは。
その耳障りな音に翔吾はビクリと体を震わせると、辛うじてその音のした方を見上げる事ができた。
……空間に、亀裂が発生していた。
さらに、そこからじくじくと蠢くような闇が広がっていくのが見える。
白の空間と、侵食する黒とのコントラスト。
その禍々しさに、しかし翔吾の心は奇妙な安らぎを覚えていた。
いつの間にか、のたうち回るような刺激は霧消していた。
やがて、闇の奥から音が聞こえてきた。
その音は余りにも小さく弱々しいものだった。
しかし、翔吾には不思議とその音が声だと認識できた。
両の目が、みるみる涙で滲んでゆく……。
忘れるはずもない。
それは、仲間たちの声であった。
「みんな……。」
翔吾はポツリと呟いた。
すると、蠢く闇はその呟きを待っていたかのように、突如として翔吾の体を吸い上げ始めた……!
その勢いは強烈なもので、ほとんど竜巻と化して翔吾の体をグイグイ己の中へと引っ張り込もうとする。
翔吾は反射的に抗おうとしたが、すでに半分宙に浮いてしまったような格好ではもはやどうする事もできない。
そうして間もなく、翔吾は、蠢く闇の中へと完全にその身を吸い込まれてしまったのだった――。
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