7
光に照らされながら、翔吾は、扉の奥の方でぼんやりと何かが佇んでいる事に気付いた。
「お待ちしておりました、5番様。どうぞ、真っすぐこちらまで……。」
その声に翔吾は聞き覚えがあった。
芝居がかった口調ではないものの、パーティーの時に司会をしていたあのスタッフの声であった。
見てみると、遥か前方に何か薄ぼんやりとした人影のようなものが確認できる。
ところで不思議な事には、翔吾とスタッフの間にはかなりの距離があるにも関わらず、決して大きくはないその声が明朗な響きを持って翔吾の耳を打っていたのである。
しかし当の翔吾はそれに気付く事もなく、さも当たり前のようにこの事を受け入れていた。
それは肉体的・物質的でない超常的な何かが、すでに彼の存在に影響を与えていた事を意味する。
スタッフの言葉に促されて、翔吾は目の前の空間へと足を踏み入れていった。
すでに恐れも不安も消え去っていた。
自然に、あるがままに、導かれるように、ただ歩を進めるのみであった。
そこは、なんとも不思議な場所だった。
神秘的、もしくは異質と言い換えても良いであろう。
どこまでも真っ白で、どのくらいの高さに天井があるのか、どこに壁があるのかもまったく分からない。
この場所の広さが果たしてどのくらいなのか、まるで見当すらつかないのである。
それに足元が完全に煙に覆われているせいで、ちゃんと床があるのかどうかも目で確認する事はできない。
しかしそんな状況でも、翔吾が躊躇なく真っすぐに歩く事が出来たのは、まったく奇妙な事であった。
一歩、また一歩と近づくたびに、ぼんやりと見えていた輪郭が人の形として定まってくる。
そしてその輪郭はふたつあった。
ひとつは、翔吾に声をかけてきたスタッフのものに違いない。
そしてもうひとつは……。
(いた……!)
その姿を認めた翔吾は、思わず歓喜の声を上げそうになるのを、すんでの所でなんとか堪えた。
麻由がそこに居るからと言って、それですべてが決まったわけではないのである。
しかしそれを頭では理解していても、翔吾の足取りは自然と軽いものとなった。
麻由はパーティーの時とは違い、薄手の衣装を身にまとっていた。
白無地の、和装とも洋装とも取れる衣装である。
その姿は美しくはあったが、いやに儚げで、どこか生の色が希薄なように見えた。
場所さえ違えば、まるで空から舞い降りた天使のように見えたかもしれない。
しかしこのどこまでも白の世界にあっては、むしろ悪魔に捧げられる生贄と形容した方が相応しかった。
「さぁ、こちらに……。」
スタッフに促されて、翔吾は麻由の正面に立った。
すると、どこからともかく一陣の風が巻き起こった。
風は、ふたりの足元を覆っていた煙を方々に吹き散らかしてゆく。
そして何事もなかったかのように立ち消えてしまうと、散り散りになった煙は逆再生をするかのようにして、むき出しになった地面へと吸い込まれていった。
地面には、麻由と翔吾のふたりを中心とした半径約2mほどの円が出現していた。
その円はまるで魔方陣のようだった。内側には、翔吾が見た事のない文字や紋様が描かれている。
「動かないでくださいね。」
スタッフはそう言うと、円の外側をゆっくりと歩きだした。
時折、立ち止まっては地面に描かれた文字を確認するような素振りを見せる。
そうしてぐるりと一周すると、スタッフは満足げにひとつ頷いた。
「おめでとうございます。あなた方は『交換の儀』の有資格者として認定されました。この交換の儀が終われば、お二人の運命は間違いなく変わる事でしょう。ですが、念のために最終確認をさせて頂きます。」
スタッフは、まず翔吾の方に目を向けた。
「5番様。あなたは交通事故に遭い、現在、生死の境をさまよっております。この交換の儀を経る事で、あなたは12番様と命を交換する事となります。ただし事前にお知らせした通り、それによって命を取り留めたとしても、それで事故前の正常な状態に戻れるという保証はありません。
……それでも、生を望むのですね?」
迷うことなく、翔吾はコクリと頷いた。
続けてスタッフは麻由に目を移す。
「12番様。あなたは病により、最も大切にされてきた声と、声の仕事とを失ってしまわれました。そしてその絶望から今回のパーティーに参加されました。しかし今は無理でも、将来、医学の進歩によって声を取り戻す事が出来るかもしれません。
それでも、人生を今ここで終わらせ、その命を5番様に捧げてしまってよろしいのですね?」
『はい。よろしくお願いします。』
麻由はそう言ってお辞儀をした。
まるでシルクを撫でるような、柔らかな声だった。
心地の良い、とはまさにこの事である。
しかし、それを聞いた翔吾は思わず「え?」と驚きの声を漏らした。
そして照れ笑いを浮かべる麻由を見、スタッフの方を見た。
するとスタッフは、あからさまに「しまった……。」といった苦悶の表情を浮かべた。
「……申し訳ございません、私、すっかり失念しておりました。ただ今のは正真正銘、12番様のお声です。ここはこの施設の中で最も死に近い場所……。よって肉体の影響を受ける事なく、魂で声を届ける事ができるのです。つまる所、あなたと似た状態でございますね。」
「あぁ……。」
翔吾はなんとなく理解した。
生身の状態のままパーティーに参加していた麻由は、この空間に来た事で、死により近い……つまり魂が強く表出する状態となり、一時的とは言え声を取り戻す事が出来たという訳である。
「じゃあ、さっきのは本来の麻由さんの声って事ですか?」
「左様でございます。」
「へぇ……。麻由さんの声、めちゃくちゃ綺麗なんですね……。」
だいぶ間の抜けた、しかし素直な感想が翔吾の口をついて出る。
翔吾とてプロのサッカー選手である。
下部のリーグとは言え、地元テレビ局から取材を受ける事はあるし、その際に女性アナウンサーがやってくる事だってあった。
つまり、プロの生の声を聴きなれているのである。
そんな翔吾でも、麻由の声はまるで次元が違うと感じた。
努力だけでは説明できない何かがあった。
翔吾は素晴らしい芸術作品を鑑賞するかのように、まじまじと麻由を見回した。
麻由は恥ずかしそうに顔を赤らめて、翔吾の視線から目を逸らし続ける。
「……さて。」
スタッフが小さく咳ばらいを挟み込んだ。
ふたりは慌てて背筋を伸ばした。
「ともあれ、お答えいただきありがとうございました。これより交換の儀が始まります。儀式の間は自由にお話をして頂いて結構ですが、決してその場から動く事のないようお気をつけ下さいませ。それでは……。」
スタッフは浅くお辞儀をして、パチンと指を鳴らした。
すると、地面の遥か下方から、微かに大地の揺れるような音が轟き始めた。
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