3
参加者たちは元の落ち着きを取り戻していた。
騒ぎの主だった9番は、今では4番とふたり、集団から離れてすっかり話し込んでいる。
先ほどのような派手なやり取りこそ見られないものの、ふたりとも実に楽しげな雰囲気であった。
「さっきのあの人、お笑い芸人やってるんですって。」
翔吾がそっと耳打ちをしてきた。
麻由は目を丸くして驚きのため息を漏らした。
麻由と翔吾。
ふたりの距離は、乾杯をした時と比べるとだいぶ縮まっていた。
すでにふたりはシャンパンを飲み干し、カクテルを手にしている。
酒の勢いも借りて、翔吾は自分自身の事を麻由に語った。
年齢は21歳である事。
2つ上の兄に憧れてサッカーを始めた事。
念願だったプロのサッカー選手として今は頑張っている事。
趣味や好きな食べ物から、物事に対する感じ方、考え方といった事まで、その話題は実に様々であった。
話の主導権は翔吾が握っていた。
彼は話題が途切れて気まずい雰囲気にならないよう、密かに苦心していた。
「パーティーが始まる前、あいつとウェイティングルームで話したんですよ。ちょっと盛り上がっちゃって。」
翔吾はニッと笑って、9番の話している方へと目をやった。
このイベントの参加者は、奇数組と偶数組とに振り分けられている。
ロッカールームやウェイティングルームといった、イベントに参加する際に使用する場所についても、それぞれ独立して用意されているのだ。
翔吾(5番)と9番の会話は、そのウェイティングルームでの出来事である。
勿論、12番である麻由にはその会話など知る由もない。
(そういえばあそこは……。)
麻由は、自分のいた方のウェイティングルームの光景を思い返してみた。
しかし思い出せるのは綺麗に整った室内の光景ばかりであった。
誰かが会話をしているのを見た記憶は、一切ない。
(そうか。あっちはみんな前向きなんだもんね……。)
ふと、そう思ってしまった。
自分なんかとは違うんだと、そう思ってしまった。
(……いけない。)
麻由は、自身の心の中に湧いた微かなモヤを必死に振り払おうとした。
自分はこのラストチャンスに賭けたのだ。断じて嫉妬や羨望などではなく、これは前向きな決断なのだ、と。
麻由は努めて表情に出さないようにしつつ、翔吾の方を見上げた。
そして、気付いた。
「あいつ、あと少しで漫才コンテストの決勝って所らしいですよ。凄いよなぁ。」
そう言葉にする翔吾の横顔には、陰りが差していた。
麻由はその表情に覚えがあった。
それは、自分自身が過去に何度も浮かべたそれと同種の……。
思わず麻由はなにか言葉をかけようとしたが……すぐにやめてしまった。
今の自分にそんな事が出来るわけがないのだ――。
そのどうしようもない事実が、重く背中にのしかかる。
すると、視線に気付いた翔吾が、麻由の方に向き直った。
「あ、もしかして僕の事を聞こうとしてますか?」
麻由はその言葉に応じようとはしない。
しかし翔吾は麻由のその様子を、肯定と受け取ったようである。
翔吾は少し困ったような表情を見せると、軽く周囲を見回した。
そして近くにいたスタッフを呼び寄せ、カクテルのお代わりを持ってくるように頼んだ。
ほどなくして、スタッフがグラスを2つ運んでくる。
翔吾はその片方を手に取ると、何も言わずにグイっと半分ほどを一気に飲み干してしまった。
麻由はと言うと、受け取ったカクテルに手をつけようともしない。
ふたりの間に生まれた、ほんのわずかな無言の時間……。
それはこのパーティー会場とふたりの立つ空間とに、目に見えない隔たりを作るのには十分な時間だった。
翔吾はさらにグラスをあおると、少し赤らんだ顔で大きくひとつ息を吐きだした。
「……僕、サッカーやってるって事はもう言いましたよね。」
手にしたグラスを見つめながら、翔吾は語り始めた。
残ったカクテルが揺れて小さな波を作る。
「今年はチームの調子が良くって、もしかしたらひとつ上のリーグに昇格できるかもしれないって位置まで来てるんです。僕はまだ完全にレギュラーっていうわけじゃないけれど、それなりに試合に出て、結果も……残せてて……。
……でもある日、高速を運転してて事故っちゃったんです。
完全なもらい事故でした。玉突き事故のちょうどド真ん中。
けっこう、……悲惨、だったらしいです。」
翔吾は口の端をきゅっと結び、しかしそれでも尚、再び笑みを見せた。
重く沈みそうになるのを我慢して、強がって、なんとか口角だけを無理やり上げた、見ている方が辛くなるような歪な笑顔だった。
「医者が言ってたのが聞こえてきたんですけど、特に足がダメなんだそうです。
万一、意識が戻ってリハビリも上手くいったとしても、サッカーはまず無理だろうって。もちろん、プロに戻れる可能性はもっと……。
でも、それでも諦め切れなくって。だから来たんです、ココに。
ま、ココだとこうして普通に歩けるから忘れそうになっちゃいますけどね、ハハハ……。」
翔吾はそう言うと、自分自身に言い聞かせるように何度も頷いた。
もうとっくに笑みは消え失せている。
強引に引っ張り上げていた頬も口角も、今では力なく落ちてしまって微かに震えていた。
潤んだ瞳は、それでも涙が零れないようなんとか堪えている。
しかし翔吾のそんな姿を、麻由は深く悲しんで同情すると共に、どこか冷めた目で見てもいた。
これが自分と彼との差なのだと悟ってしまったのだ。
なぜなら、目の前の彼は、こうしてまだ泣けるのだから。
そして申し訳ない気持ちにもなった。
彼が話しかけてきた私という人間は、こんな人間なのだと……。
同情、憐憫、否定、諦観、懺悔。
先ほど何とかして振り払ったモヤが、再び麻由の脳裏に現れる。
嫉妬、羨望、後悔、絶望、そして、理性。
麻由は辛うじて捕まえる事のできた理性でもって、モヤを振り払いにかかる。
ほんの一瞬の、それでいて永い永い困難辛苦。
そうしてモヤを振り払った後に現れたのは、ひとつの疑問だった。
それも、ふとした疑問である。
(どうして彼は私なんかに話しかけてきたんだろう……?こんな、うまくコミュニケーションの取れない私なんかに。いったい、どうして?)
麻由の思考は迷走を始めた。
考えれば考えるほどに頭がぐちゃぐちゃになって、目の前の事とはまるで関係のない思考まで現れてしまって、一瞬でもそちらに意識が持っていかれた事を自ら戒め、ついには視界がぐにゃりと捻じれていく。
持っていたグラスを落としてしまった事にも、心配した翔吾から肩を揺さぶられている事にさえも気付かなかった。
そして、混濁した思考は、麻由に、ひとつの行動を、無意識的に、起こさせた。
「ぁ゛……。ぁ゛の゛……っ。」
「……エッ?」
翔吾は雷に打たれたように体を強張らせた。
それが果たして何だったのか、すぐには判断できなかった。
サンドペーパーで木材か金属でもこすったような掠れた音。
耳障りな、汚い、醜い、音。
「今の……もしかして……?」
今日ここにいる参加者たちは、12番=麻由の持つ事情を知っている。
いや、正確には、偶数組の参加者の持つ事情を知っている。
それは、事前にスタッフから知らされていたからである。
だからこそ麻由に話しかけようとする参加者は誰もいなかった。翔吾以外は。
麻由は苦悶の表情を浮かべ、顔を真っ赤にしながら、口をパクパクとさせている。
「……ど、どぉ、しぃ゛……で、わ゛、た゛……しに゛?」
どうして私に?
たったそれだけの言葉である。
翔吾や他の人間からしてみれば、ほんの僅かの時間も労力も必要としない言葉。
しかし麻由にとってのそれは、全身の力を振り絞った上で尚、奇跡と呼べるような出来事だったのである。
実に、2年ぶりの発話だった。
麻由は、極度の疲労感からめまいを覚えていた。
耳の奥でズクズクと脈打つ音が頭の中を支配する……。
喉が潰れたような灼けたような痛みがして、呼吸すらもままならない。
しかしそんな事よりもむしろ、自分の出したあの想像を絶するおぞましい声の現実に、麻由は泣きだしそうになっていた。
それを受け入れたくなくて、今すぐ自分の喉を引き裂いてやりたいと思ったほどだった。
悲しいかな、麻由の言葉は確かに翔吾に届いてしまっていた。
ただ、翔吾は呆然としてしまって、何も反応を返すことができなかった。
「大丈夫ですか?」
駆け付けてきたスタッフが、心配そうにふたりに声をかける。
翔吾はそれで我に返ると、ふらつく麻由の体を慌てて支えるようにした。
その内に別のスタッフが水と椅子とストールを持ってきたので、翔吾は麻由を椅子に座らせ、ストールをむき出しの白い肩に掛けてあげた。
落ちたグラスは最初に駆けつけてきたスタッフが回収していった。
幸いグラスは割れておらず、白色のカクテルを被ったのも絨毯のみで済んだのだった。
参加者の大半は、会場内の隅っこで起きたハプニングには気付いていない。
若干名、スタッフの動きから異変に気付いた参加者もいたが、彼らは自分たちの事の方が大事だと判断したのか介入してくる事はなかった。
やがてスタッフたちがいなくなると、ふたりの空間は一気に静かになった。
麻由はまだクラクラする頭の中でも若干の落ち着きを取り戻し、ようやく翔吾の事を考える事が出来るようになっていた。
(迷惑だったよね……。)
さっきまでの楽しい空気が一変してしまったのは自分のせいだと麻由は感じていた。
しかし、だからと言ってもう取り繕う事はできない。
仮にさっきのような奇跡がまた起きたとしても、あんな声は二度と発したくはなかった。
ストールを肩に掛けてくれてから、翔吾は一言も発してはくれていない。
もしかしたら後悔しているのかも……、そう思うと申し訳ない気持ちしかなかった。
麻由は辛うじて頭を軽く横に傾けて、上目で翔吾の顔を見やる事ができた。
翔吾は何か考え事をしているようで、あさっての方を見つめていた。
まだ少年っぽさの残った綺麗な横顔はしかめっ面で、ありありと苦渋の色が浮かんでいるのが分かった。
それを見た麻由はまた居たたまれなくなって、視線を元に戻した。
会場のあちらこちらでカップル達が語り合っている。
中央に陣取っていた集団はだいぶ人数が少なくなっていたが、相変わらず集団のままコミュニケーションを取り続けている。
彼らは歓談の残り時間を考え、敢えて離散しない道を選択したのだった。
もし意中の相手が被ってしまったとしても、そこは致し方なしというわけである。
楽しそうに笑い合う者たち。
深刻な表情を浮かべながら、お互いに頷き合っている者たち。
そんな中にあって沈黙を保っているカップルは、唯一、麻由と翔吾のみだった。
……ちりん。ちりりーん。
不意に、透き通った鈴の音が会場内に鳴り響いた。
「そろそろお時間でございます。皆様方はこちら、手を挙げているスタッフの所までお集まり下さいませ。」
スピーカーから司会者の声が流れてくる。
BGMは、いつの間にか鳴りやんでいた。
(終わっちゃった……。)
麻由は力なく笑った。
結局、自分は何も出来ずじまいだった。
声を発する事はできなくても何かやり取りをする方法はあったかもしれないのに、それを模索する事すらしなかった。
麻由は膝に手をついて、椅子から立ち上がろうとした。
すると今まで無言だった翔吾の大きな手が、ストール越しに麻由の肩に触れた。
「時間……ですね……。行きましょっか。」
そう声を掛ける翔吾の顔も、どこか寂しそうに笑んでいた。
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