第六十八話 西館廊下

 中庭から直接西館に入ることもできるので、何気なく入り口に近づこうとして――不意に殺気を感じ取る。


《スキル『固定』を発動 対象物の空間座標が固定されます》


 中庭の植え込みの影に隠れて、例の黒いもやが俺を狙ってきていた。


「えーと……水妖すいようって名前でいいんだっけか。聞こえるか?」

『は、はいっ……いちおう、ネレイドというのが私の種族の名前です』


 中庭には小さな池があるのだが、水妖――ネレイドはそちらに移動していた。


『ちなみに私は水のあるところで、距離が近ければ転移が可能です。人を転移させることもできるし、使いようによっては便利かもしれないわね』


 俺に対してへりくだっているような態度ではあるが、素はやはり変わっていないらしく自分の力について話すときは口調が戻っている。なんだかんだで、寮を影から支配しようとしていた魔物なので油断ならない。


「この『夜を這いずる手』ってやつなんだけど、ネレイドの意志じゃ止められないのか?」

『は、はい……幻術に付随するものですので。それに捕まっていただくと、私と使い魔の魔力補給も早めに終わりますし、ぜひご協力を……あぁっ……!?』


 黒いもやを容赦なく圧縮する――その効果を考えると、とてもじゃないがわざと受けるのは気が進まない。


《チップの内容:夜を這いずる手×3》


「……ああ、そうだ。スキルを無効化する香気、あれも後で出してくれるか?」

『あれを使うとせっかく蓄えた魔力が……い、いえ、やらせていただきます、それはもう何度でも』

「必要なら俺の魔力を使ってくれていいぞ。あれは切り札として使えるから」

『その、言いにくいんですが……あれは私が同調している人間が昂揚しているときでないと出せないんです。効果が強い能力には発動条件が伴う、それは摂理ですから』

「うっ……まあ確かに、物凄く強力だよな……」

『ちなみに、今なんですが……私の意志で操ったりはしていませんが、西館にいる女の子たちとは同調してしまっていますね』


 つまり――御厨姉妹と七宮さんが昂揚したら、『水妖の香気』を使えるということになる。


「……昂揚って、つまりその……ぼかしてるだけじゃないのか?」

『ご主人様はどんな解釈をされているんですか? 無知な私めに教えてくださいませ……あっ、ま、待ってください、今一度お目こぼしを……っ』

「お目こぼしって、そっちからリクエストするもんじゃないぞ……というか、幻夢を解いてくれれば済む話なんだが」

『今回は使い魔……リンが幻術を発動させてしまっているんです。あの子は私の眷属ですが、単体で幻術を使うこともできるんですよ』

「……なんでリンがそんなことを?」

『それはあの子に聞いてみないと分からないですね。私がご主人様に従うことになった段階で、あの子との従属契約は切れてしまってるんです』


 つまり前回リンはネレイドの指示で幻術の媒介となり、今回は自分の意志で幻術を発動させている――ということになる。目的が魔力を得ることなら、魔力が枯渇しているということなのだろうか。


『ご主人様、ちなみに浴場にいる方々ですが……おそらくリンの幻術の領域に入ると、その時点で惑わされてしまいますね』

「俺はリンの主人だから、惑わされないってことでいいのか?」

『はい。本当に困ったものですね……飼い猫の悪戯と思って大目に見ていただけると』

「ネレイドも楽しんでるように見えるけどな……もしまだ何か企んでたら……」

『私は便乗して魔力をもらおうと思っているだけですよ? 浴場にいる方々にも参戦していただけると嬉しいですが……それ以上言うと、ご主人さまに害意を持っていることになってしまうので自粛します』


 俺に『捕獲』されたことによって生じたルールの上で遊んでいる――そう見えるが、状況を説明してくれたことは助かるので追及しないでおく。


「早めに解決しないとまずいからな……もし硯さんたちが幻術の領域に入ろうとしたら、さりげなく防ぐことはできるか?」

『西館に部屋がある方々はどうしても行ってしまいますよ、このまま放っておいたら』

「そ、それもそうか……」

『できるだけのことはしてみましょう。それではご主人様、どうかご武運を』


 ネレイドと別れ、西館に入る――さっき防いだからなのか、『夜を這いずる手』による攻撃はない。


 七宮さんの部屋の前に、二人の人物が立っている。窓から差し込む月の光を浴びて、影がこちらに伸びる――。


「……藤原さん……ですにゃ?」

「司くん……ここから先からは通してあげられないにゃ……いえ、あげられないにゃね……」


 影の頭の部分に何か違和感があると思ったが――その理由が、今わかった。


 御厨姉妹の服装が、水着のようなものに変わっている。そして頭には猫耳――ヘアバンドに耳がついているとか、そんなふうにも見えない。本当にどうなってしまっているのか。


「二人とも、これは幻術をかけられてるだけなんだ。うちの飼い猫が悪戯を……」

「そんなことないですにゃ、悪戯じゃなくて真面目にしていますにゃ」

「意地悪を言う司くんには、素直になってもらうにゃよ。双葉、併せるにゃ」

「はい、お姉様」


(双葉さんの笛……陽香先輩と併せるって……って、見てる場合じゃ……!)


 反射的に『固定』しようとするが、双葉さんの笛の音色が耳に届く方が早かった。


 『固定』を発動するという意志自体が妨害される――やはり双葉さんもさる者だ、と感心している場合じゃない。


「双葉の『陶酔の音色』は、相手のスキル発動を阻害する力を持つにゃ。難点は、一度阻害したら連続ではできないこと……けれど、笛を吹き続けることができれば一度目の阻害効果は途切れずに続くにゃ」


 戦闘中に笛を吹き続けることの難しさ、それを度外視すれば強力すぎるスキルだ――息継ぎブレスを入れても効果が途切れることがないのは、双葉さんの技術の高さを示している。


「そして私のスキル……『陽炎の秘紋』の応用」


(っ……!)


 俺の目に映っていた陽香先輩の姿が消え、すぐに気配が現れる。


「それは残像だ、ということにゃ。私たち姉妹が揃ったら、司くんと言えども勝てないにゃよ」


 何かくすぐったい感覚が背中を走る――先輩に、指で背中をなぞられた。


「うっ……ぁ……な、何を……」

「『錬丹の秘紋』の応用……私が毒を分解して体内で作った効果を、他の人にも与える」

「ちょっ……そ、それってまさか……」


 身体が猛烈に熱くなってくる――いや、正確には違う。


 日頃理性で抑えられている部分に、抑えが効かなくなっていく。


「……一度目より、二度目の方が、私たちは上手くいく……そう思わにゃい?」

「お姉様、一度目というのは……藤原さんと、もう……」

「い、いや、陽香先輩、それはっ……」

「いいんです、藤原さん。お姉様が望んでそうしたのなら……」


 双葉さんの想像がエスカレートしている――それを陽香先輩も正しいと思っているので、相乗効果でどうしようもなくなっている。


「……お姉様が慕っている方は、私にとっても大切な方……にゃので……」


 それでいいのか――いや、全く良くない。陽香先輩も双葉さんを大切にしているので、普通に双葉さんを止めるだろう。


 しかし、月明かりの中で陽香先輩は自分の唇に指を当て、艶やかな目でこちらを見ながら言った。


「私が言うのも変にゃけど、妹の気持ちは大切にしたいと思っているの。それはもう、胸は張り裂けそうで、私の方が先だったのにという気持ちはあるにゃけれど」

「っ……ふ、二人とも、語尾が猫っぽくなってる時点で変だと気づくべきじゃないか……?」

「……? 語尾なんて、何もおかしなことはないにゃ」


 駄目だ――二人とも完全に幻術にやられてしまっている。


 だがよくよく考えてみると、双葉さんが演奏をやめている――ということは。


「司くん、この部屋には七宮さんがいるにゃから、三人で……」


 流されたくなるような誘惑の言葉――だが、スキルを使える以上、使わないという選択は許されない。


《スキル『固定』を発動 対象物の空間座標が固定されます》


 ピタッ、と俺を部屋に連れ込もうとしたところで二人が動きを止める。


『さすがご主人様……でも、どうします? 二人を倒さなければ、そのお部屋の扉は開きませんよ』

「ぐっ……何でそんな仕掛けが……」

『それが乙女心というものなんです。さあどうぞ、は用意しておきました』


 ネレイドがわざわざ押入れの奥から引っ張り出してきたのか――後ろを振り向くと、足元にマッサージ機が落ちていた。


(……また俺に罪を重ねさせる気か……神よ……!)


 女神が見ていたらどんな顔をしているだろう。そんな益体もないことを考えながら、俺は聖剣ぶきを拾い上げた。


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