第四十六話 水の戯れ

 できるだけ音を立てずに脱衣所のドアを開ける――電灯はついたままで、脱衣所には何か甘い香りがしている。


(なんだこれ……酒……とも違うような……)


 鼻腔を少しくすぐられた段階で、判断を迫られる――この香りを吸い続けていいのか。


《スキル『固定』を発動 対象物の空間座標が固定されます》


 固定した気体を圧縮する――この香りだけを空気中から取り除くとどうなるか。部屋の中の気圧が少し下がって、外気が流れ込んでくる。


《チップの内容:水妖の香気×1》


 圧縮して使い物になると判断されたのは一部のみ――気体の濃度などが関係しているのだろうか。


(水妖……幻術をかけてきてる相手の答えに近づいてきたな)


 靴下を脱いで裸足になり、浴室に続く戸を開ける。すると、檜造りの広い浴槽の前に立っている人がいる――秋月さんだ。


「ここまで来れるなんて、さすが……って言っておこうかな?」

「っ……さ、さすがに幻術でも、それはやりすぎだ……っ」


 秋月さんはバスタオル一枚だけの姿だ――少しの動きで簡単に取れそうな危うい状態でも、全く気にせずにこちらを見ている。


「幻術……? なんてとぼけても仕方ないか。初めから気づいてるってことは、こういう状況に経験があったり?」

「……あるといえば、あるよ」


 それはベックとしての前世での記憶――宿屋の主に化けた妖魔に幻術をかけられ、夜通し脱出できずに苦戦を強いられたことがあった。


「もう坊やがここに来た時点で詰みだから、種明かしをしてあげる。この幻術の媒体になったのは私の使い魔……坊やたちがリンって名付けたあの子ね。あの子を捕獲するなんて普通できることじゃないんだけど、どうやってやったの?」

「……攻撃を仕掛けてきたから、それを防いだだけだ」

「じゃあ、運が良かったっていうことね。あの子は『速さ』に特化する代わりに、誰かに捕まってはいけないことになってるの」


 『固定』を使ってリンを止めたことで、捕獲条件を満たした。しかしリンを連れ帰ることで秋月さんを操っている存在も引き入れてしまったなら、それは俺の落ち度だ。


「ふふっ……心配しなくても、私は元からこの子の中にいたのよ。『入り江のダンジョン』って言っていたでしょう? あそこでこの子の中に入り込んで、顕現するための魔力を貯めていたわけ……我ながら健気だと思わない?」

「……秋月さんを解放してくれ」

「魔力を回復するには、あなたが来てくれたことは好都合だったのよ。私が好むような魔力を生み出してもらうには、男性の気持ちを昂らせるのが一番効果的なの」

「それでみんなの幻を俺に見せたのか。全く、やってくれたな……みんながあんなことをするわけがないのに、好き勝手に……」

「あなたがしないと思っているだけで、本当はそうじゃないのかもしれない。誰だって、外に見せているのは一面に過ぎないわ」


 これ以上話していても平行線だ――一刻も早く、秋月さんの身体から出ていってもらわなければならない。


「だいたいの男はね、こうやって幻術をかけてあげると、最初は疑っていてもそのうち沈んでいくのよ。幻夢のもたらす快楽にね」

「俺は沈まなかったからここにいるんだ。幻術を解いて出ていくのならいいが、そうでないなら……」

「ふふっ……ふふふふっ。気に入らないわね、その目……自分が全部正しいと思っているみたいなそういう男を堕とすのがいいのよ。さあ、せいぜい抵抗してみせなさい……!」


 秋月さんが両腕を広げると同時に、浴槽から水柱が複数立ち上がる――まるで水蛇サーペントを象ったようなそれは、一つ一つが強い魔力を宿している。


「水を媒介にした術か……」

「坊やが自分からここに来るからいけないのよ? 形のない水に対抗したいなら、一撃で吹き飛ばすくらいしかないけれど……坊やにはそんな手段はないでしょう。あったとしても、今のあなたにはスキルは使えない」


 やはりそうだった――さっきの香りを何も考えずに吸っていたら、その時点で終わりだった。あれはおそらくスキルを封じる芳香だ。


「用意周到なんだな……俺のことをそんなに評価してくれてるのか?」

「その余裕の表情が消えるまで何秒耐えられるかしら。『水蛇の騒乱サーペント・レイブ』……!」


 水蛇が俺に向けて殺到する――確かに物理的な攻撃では水蛇に対抗することはできず、手も足も出せなかっただろうが。


 それは、俺がスキルを使えなかったらの話だ。


《スキル『固定』を発動 対象物の空間座標が固定されます》


 ピタッ、と五体の水蛇が動きを止める。その光景を前に、秋月さん――に宿っている魔物というべきか――は、目をパチパチと瞬いていた。


『……どうして……スキルが使えるの?』


 口を動かさなくても頭の中に声が響いてくる――これが魔物本来の声ということか。


「脱衣所に充満してた香りを吸ってないからだな」

『え、ええと……そのスキルで、私の使い魔を捕獲したっていうことね? なるほど……ところで、この子の身体もピクリとも動かせないのだけど……』

「幻術なら動くようにできるんじゃないのか? それができないなら、もうこれで詰みだな」

『くっ……こ、交渉をしましょう。私はこの寮を支配するつもりだったけれど、そこまでは言わないから時々他の生徒たちの魔力を吸わせて欲しいの。これくらいの年頃の子たちの魔力が一番いいのよ、代わりにあなたたちにはとてもいいことをしてあげるわ』

「……いいことって?」


 想像はついていたが――秋月さんに宿った魔物は、ごく真面目な顔をして言い放った。


『どろどろの淫夢を見せて、あなたたちの関係をより深めるための契機に……あっ……や、やめなさい、あなた幻術の中だからといって、秋月硯の見た目をしている私に、そんな酷いことができるわけっ……』

「そろそろ明日に備えて休みたいんだ。だから、あんたにも眠ってもらう」

『あ……あああああ……だ、駄目っ、司くん、そんな、私寮監っ……んぁぁぁぁぁっ……!!』


 往生際の悪いことに最後に秋月さんのふりをした魔物だが、俺は惑わされない――マッサージ器の残った電力を全て費やし、魔物を追い込んでいく。


「ふぅぅっ……わ、分かりました、あなたに従います……っ、藤原司様に、もう決して逆らうことは……っ」

「本当に? また良からぬことを考えたりしたら……」

「絶対にしない、誓います、誓いますからっ……!」


《魔物の捕獲条件を満たしました》


『そ、そんな……こんなやり方で捕獲されるなんて……私、私はっ、水のあるところでは誰にも負けないのにっ……!』


 何も言わなくても、秋月さんの身体からもやのようなものが出てきて――水で構成された身体を持つ、女性のような姿に変化した。


「『水妖』って、こういう種族なのか……捕獲したって言っても、こんな姿じゃ逃がすしかないんじゃないか? 魔物そのものだし、人に見られるとまずいしな」

「す、水槽があればそこに住めます……お風呂でも大丈夫ですが、私がずっといたら迷惑ですよね」

「……なんか少し哀れになってきたけど、やったことの責任は取ってもらうぞ」

「は、はい。では……幻術のほうは、そろそろ……」


 水妖がそう言った瞬間、視界が崩れる――夢が終わろうとしている。


 倒れたままの秋月さんのことが気にかかったが、夢なのだから終われば全て消えてしまうだろう。本当に長い夜だった――。


   ◆◇◆


 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。


「ニャーン」


 頬を舐められて目を覚ます――昨日の夢のことは覚えているが、夢の中とはいえ寮の人たちをあんな目に遭わせたことは忘れるべきだろう。


「……あっ」


 着替えをしてリビングに出てくると、そこには七宮さんの姿があった。


「お、おはよう」

「…………」

「どうしたの? 七宮さん」


 七宮さんの顔がどんどん赤くなっていく――そして、キッチンのほうに逃げていってしまう。


 続いて樫野先輩と天城先輩が西館の廊下からリビングに出てくる。


「おはようございます、先輩方」

「っ……お、おはよ……」

「……やはり、夢なのだな……しかし、あの手首を縛られた感覚は……」

「……え?」

「い、いや、何でもない。何でもないんだ、後輩くん」

「やっぱりあんたが来たせいなの……? って言うと可哀想だし、ああっ、もう。なんか身体でも動かしてスッキリしたいわね……阿古耶、練習付き合おうか?」

「う、うむ……そうだな。後輩くんもどうかな?」

「……ちょっ、あんた今日サラシしてない……下に何か着なさい、そういうときはっ」

「っ……い、いつも起きてからはすぐに巻いているのだが……やはり夢のせいか……」


 もしかすると、俺と似たような夢を見ていたのか――水妖が魔力を欲しがっているのなら、全員に夢を見せることは十分に考えられる。


(……ん?)


 俺はソファの上に、あってはならないものを見つける。白くて長い――脱ぎ捨てられたニーソックスを。


「あっ……こ、これは何でもないの、ちょっと忘れただけだから……っ!」


 すごいスピードでやってきた樫野先輩が、ニーソックスを回収していく。


(……つまり……いや、待て……そうなると俺は、幻術だと思って……)


「おはよー、みんな。あー、司くんちょっと寝癖ついてる。可愛いけど直したげようか」

「あ、秋月さん……っ、俺は自分で大丈夫なので」

「いいよいいよ、気にしなくても。私はみんなのお姉さんだからね」


 いつもより少しテンションが高いように見える秋月さんだが――その勢いに流されて、少しぎこちなかったみんなの態度も、出かける頃には元に戻っていた。


 『水妖』に確かめれば全てが分かるが、自分から尋ねる勇気は無い。というか、なかったことにしなければこの寮に居られなくなる。


 まず俺がすべきことは、マッサージ器を再び押入れの一番奥に仕舞うことだ。


 そして一旦部屋に戻って、俺はもう一つ、どうしようもない物証を見つけてしまうのだった――七宮さんが使っているヘアピンを。


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