第二十九話 暴君

   ◆◇◆


 秋月さんは帰ってくるのが遅くなると連絡があり、俺たちはいったん自室に戻った。


 昨日よりも早い時間だが、もう風呂に入ってしまおうかと考える――今日は二重三重のチェックをして、昨日のような接近遭遇エンカウントは避けたい。


(よし……入浴中のプレートは出てないな。そして俺がプレートをかけるぞ)


 確認に確認を重ねる。一度目も仕方ないとは言えないし、二度目ならばなおさら罪深い。


 もっとも樫野先輩が不用意と言えなくもないのだが、それを言ったら俺はこの寮にいられなくなる気がする。


 サッと身体を洗い、お湯に浸かる時間もさほど取らずに出てくる。本当はゆっくり浸かりたいのだが、とりあえず無事に入浴を終えたという成功体験が欲しい――。


 そんな俺の願いは、浴室から脱衣所に出るところで儚くも砕け散った。


「――ひゃんっ!」

「うわっ……!」


 何も分からない、理解不能。突っ込んできたのは裸の女性で、なんとかこちらも転倒せずに受け止められた。


 むにゅっ、と身体の前半分全てに柔らかいものが当たる。どうやらここで俺は死ぬらしい――生き延びたすぐ後に、なんていう不運だ。


「あいたた……はー、私としたことが蹴つまずくなんて……」


 何もしゃべれない――胸板に柔らかいものが二つ当たっている。肩に手が触れてしまっているが、それもまた接触なので速やかに離れなくてはならない。


「……あれ? 阿古耶じゃないの? さらしがないのに、胸が……」


 もう謝るしかない――それで全てが終わってしまうとしても。


「すみません、俺……昨日から入寮した、藤原です」

「……えっ? ちょ、ちょっと冗談でしょ。それってあんた、男ってこと?」

「は、はい……おそらく、生物学的には……」

「ふ、ふーん……そう。まあいいわ、助けてくれたみたいだし? ちょっといい?」


 俺から離れると、すたすたと樫野先輩は風呂場に入っていき、からからと扉を閉めた。


「……おっぱい見られた……全部見られた……っ、あぁぁぁっ、死にたいっ……!」


 すりガラスの向こうで悶絶している樫野先輩――いや、見ていてはいけない。


 後でひたすら謝るしかない。そしてそれで許されることがないだろうというのも分かっていた――『入浴中』でも入ってくる先輩が悪い、というのは勿論なのだが、その理屈が通る人という気もしない。


   ◆◇◆


 その後秋月さんが帰ってきて、彼女が食事を作ってくれている間、俺がどうしているかというと――。


「私は家では眼鏡派なの。お風呂に入るときは眼鏡は持っていかないの。入浴中って出てたのは認めるとしてもね、あの時間にお風呂入ってるあんたも悪いのよ。だから、追放裁判は保留にしてあげる」

「あ、ありがとうございます……」

「オットマンがしゃべるな」


 樫野先輩の気持ちを鎮めるために、俺は彼女の要望通り、オットマンになっていた。一般的に言う足置きというやつだ。


 ソファに座って俺の背中に足を置いている樫野先輩――なぜ俺が一方的に悪者になっているのかと思うが、先輩に落ち着いてもらうためなので仕方がない。


「あーあ、今日は後で配信するつもりだったのに。学年ランキングで一位取るためには、コツコツ投稿するのが大事なんだから」

瑛里沙えりさ、そろそろ後輩くんを解放してあげないか。彼にトラウマが残ったらどうするんだ」

「えー、そんなことないでしょ、嬉しそうだし。ほら、私に踏まれて気持ちいいでしょ? 気持ちいいって言いなさいよ」

「ま、まあ……ツボには効いてるみたいですが……」

「へー、結構従順じゃない。でもね、あんたくらいじゃ私の配信には出せないから。裏方として使ってあげてもいいけどねー」


 好き放題言ってくれる――しかしさっきから配信と言っているが、樫野先輩のことをよくよく見ると、昨日見たスクールチャンネルで彼女の動画がランクインしていたことを思い出す。


「あ、ななみーはそのうち一緒に出てほしいな。もうルックス完璧だし、阿古耶って女の子らしい格好してくれないから、そういう子が欲しかったのよね」

「……藤原くんから足をどけてほしい」

「あっ……ご、ごめんなさい。あんたもねー、素直に置かれてるんじゃないわよ。プライドはないのプライドは」


(七宮さんには弱くて、俺には強い……まあ裸を見てしまったから仕方ないのか。それにしても理不尽なような……)


 俺の入寮に納得していない一人が樫野先輩だったということを考えれば、即追放にならなかったのは僥倖かもしれないが――それにしても踏んだり蹴ったりで、すっかり疲労してしまった。


 眼鏡を外すと見えないというのはどうしようもないので、今度からは風呂のスケジュールを厳密に決めることになった。俺の順番は最後で固定になりそうだったが、そこは阿古耶先輩と七宮さんが助けてくれた――味方がいてくれるというのは素晴らしい。


「あんたがお風呂入ったあとに私が入るなんて……はー、お、お風呂で変なこととかしないでよね」

「し、しません。というか変なことってなんですか」

「っ……そ、そうやって誘導しようとしても無駄なんだから。放送事故とか起きないように日頃から発言には気をつけてるし。簡単におっぱいとか言わないし?」


 今まさに言ってる、とよほど言いたくなったが、天城先輩の方が恥ずかしそうにしている。何というか、二人の関係性が見えてきた。


 樫野先輩は少し隙が多い人なのだと思うと、いくらか溜飲を下げることができた――だからといって、足を置いてきた相手を好きになれそうもないのだが。

 

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