第三話 寮監

 一年生校舎には裏山がある。いちおう整備されている道はあるものの、道の脇は草が生い茂っているし、動物の姿もちらほら見えた。


 近代的な校舎の建物とはかけ離れた風景だが、自然の中を歩くのは嫌いではない。むしろかなり好きだったりする。


「……ここか?」


 しばらく進んでいくと、木々の向こうに木造の建物が見えた。


 建物の前には看板があり、『静波荘』と書いてある。


「……しずなみ?」

「やーっと来たぁ。こらぁ、どんだけ待ったと思ってんの」


 看板の字を読もうとした瞬間、声をかけられた。ジャージの上にエプロンをつけ、箒を持った女性が立っている。


 出会うなり思うことでもないが、胸が大きすぎてエプロンの図柄が歪んでいる。これも一種の空間湾曲だ――と、惚けている場合じゃない。


「初めまして、ここでお世話になると聞いて来たんですけど、俺……じゃなくて、僕は……」

「……ふっ。あはは、めちゃくちゃ緊張してるじゃーん。いいよいいよ、そんなに畏まらなくても。藤原司くんね、ちゃんと聞いてるよ」


 この人は一体――と尋ねる前に、エプロンにつけられた名札に目が止まった。


 寮監 秋月。名字しか書いていないようだが、つまりこの寮の偉い人というか、寮生の監督役ということか――と考えたところで。


「うわっ……!?」


 身構える間もなく、俺は頭を抱えられていた――恐ろしいことに全く動けない。


「なーに見てんの、私の名前がそんなに気になる? この秋月あきづきさんが今日から君のボスになるんだよ」

「ぐぇぇ……す、すみません、そんなつもりじゃ……っ」


(華奢なのに胸が……どころじゃなくて、この人とんでもなく強いぞ……っ!)


 ヘッドロックから抜け出せる気がしない――生徒カードを見たら生命力が減っていそうな勢いだ。


 このままではまずい、だが筋力で勝てない相手の拘束を解けるわけもなく――と思ったその時だった。


「んっ……」


 一瞬だけ締め付けが緩んだ――というより、秋月さんの吐息と共に、彼女がピタッと止まった気がした。


「ぷはっ……はぁっ、はぁっ……何とか抜けた……」

「あれえ……?」


 秋月さんは俺を見て、自分の手を見て、そして――なぜかニヤリと微笑む。


「ほーほー、ふむふむ。司くんは筋肉はついてないけど、侮れないテクニックの持ち主みたいだねえ」

「テ、テクニックって……そんなことを言われたのは初めてですが」

「私に捕まって抜け出すなんてなかなかできないよ。って言っても、誰にでもやってるわけじゃないけどね」


 なぜ俺にはやったのですか、と聞いたらヤブヘビになりそうだ。とりあえず寮に入れてもらわなければ、今晩の寝床が確保できないので大人しくしておく。


「じゃあ、中に案内する前に注意事項ね。他のメンツはまだ君が来るのに納得できてない子もいるから、そこはちょっと申し訳ないけど心構えはしておいてね」

「他にもこの寮に入ってる人がいるんですね」

「新入生がもう一人いるけど、まだ来てないね。後で迎えに行かないと」

「そうなんですか」

「司くんはこれから、夕飯の時間までにやってもらうことがあるんだけど……なんせ、急に君が来ることになったからさ」


 秋月さんは何か言いにくそうにしている――そして俺は、なんとなく事情を察していた。


「君の部屋、倉庫というか共有スペースとして使ってたからまだ掃除できてないんだよね」

「それは、自由に整頓しちゃっていいってことですかね」

「おおー……掃除は寮監の仕事でしょ、って言われると思ってた。それを突かれると弱いからね。私も手伝うのはやぶさかじゃないんだけど? ほら、箒持ってるのもそのためだし」

「秋月さんはその新入生の子を迎えに行ってあげてください、俺は一人で大丈夫です」


 普通に答えたつもりだったが――なぜか秋月さんが再びこちらに組み付こうとする、そんな気配を感じる。


 しかし彼女はぐっと堪えたようで、俺に向けて親指を立ててきた。


「その意気やよし。でもね、うちは結構アットホームなようでシビアなとこあるから。この寮での生活を豊かにできるかは、司くんの努力次第だよ」


 秋月さんは俺の肩をポンポンと叩いたあと、寮の中に入っていく。古い木造の一軒家という感じで、玄関で靴を脱いでスリッパに履き替え、まずリビングに入る。


「ようこそ、静波荘しずなみそうへ。築年数は長いけど結構いい感じでしょ?」


 秋月さんはそう言って、俺を部屋に案内してくれる。リビングを抜けて廊下に入ると、いくつかの個室のドアがあり――突き当りの部屋のドアには、なぜか『立ち入り禁止』と貼り紙が貼られている。


「君の部屋はここね。そっちは開かずの間だから入っちゃダメだよ、人は住んでるけど」

「えっ……す、住んでるんですか?」

「まあ人それぞれ色々あるからね。これが部屋の鍵だから、なくさないように気をつけて。それとこれね」

「?」


 渡されたのは彼女が持っていた箒、そして袋に入った何か――中を見てみると、マスクなどが入っていた。


 秋月さんがドアを少しだけ開けて「うわっ」と小さな声で言ったあと、俺を何とも言えない表情で見た。


「……頑張ってね。もしダメだったときは私に言って。それじゃっ!」


 パタパタとスリッパを鳴らして秋月さんが立ち去る。シュシュで束ねたおさげが弾んでいる――髪をアップにした女性というのに惹かれがちな俺だが、そんなことを考えていたらまた締められてしまう。


 それよりも、部屋の中はどうなっているのか。予想はできているので開けてみると――畳敷きの上にダンボール箱や玩具みたいなもの、そして家電製品などが置いてあった。


(あれだけ脅かしてきたわりには、それほど荒れてないな……さて、始めるか)


 荷物持ちの心得のひとつは、常に身の回りを整理整頓すること――与えられた装備は箒とマスクだけだが、何とでもなるはずだ。


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