A Melancholy in Pink

 午前11時。

 いつまとめたのかも覚えていないゴミ袋と、洗っていない服まみれの部屋に目覚める。

 手探りで照明のリモコンを掴み取り、ボタンを押す。点かない。電池が切れているのを忘れていた。それどころか、昨日も換えの電池を買うのを忘れて家に帰った。

 枕元にあったスマホを起動する。

 惰性で続けているソシャゲ、天気予報、体重管理アプリなどが目に入るも、わたしの興味を引き付ける通知はなかった。SNSを立ち上げ、だらだらとタイムラインを流し見する。モーニングルーティンとも呼べない、非生産的で非効率的なひととき。それはわたしそのものだ。

 スマホのブルーライトを浴びながら、ふたたび布団に身を預ける。




 午後0時半。

 スマホを充電器に繋げ、なんとか重い身体を持ち上げる。

 薄暗い室内を見ていると、仕事のことを思い出してしまいそうだ。騒々しく流れるJPOP、どうせすぐ脱がされる下着と、口内用消毒スプレーの臭い…………。気分が悪くなる。

 カーテンを開けると、積もっていた埃が目の前で舞い踊る。その空気をまともに吸い込んで、ますます気分が悪くなった。窓を開けると、外には駐車場が見える。隣の、うちよりはるかに綺麗なアパートも。冬の明るい日差しが、わたしの馬鹿みたいな顔を照らしている。


 東京に来たばかりの頃は、もっと華やかで楽しい生活が待っていると思っていた。たまに友達と喫茶店開拓をしたり、下北沢を探索したり、サークルで彼氏を作ったり、そういうことができると思っていた。




 浮かれすぎていたわたしも悪かったのかもしれない。

 夢を見すぎていたから、明らかにタイプの合わないサークルの新歓に参加してしまった。

 夢を見すぎていたから、好みの顔の先輩の前で、未成年なのにお酒をカパカパ飲んでしまった。

 その後は記憶があいまいだ。トイレでげえげえ吐いたこと、先輩がタクシーに乗せてくれたこと、休める場所まで付き添ってくれたこと…………。




 目が覚めると、裸でひとり、ベッドの上に転がっていたこと。


 その場で確かめたけど、中には出されていなかったこと。

 とにかく痛くて、苦しくて、悲しくて、トイレで胃が空っぽになるまで吐いたこと。


 これもすべて、わたしが夢を見すぎていたからなのかもしれない。




 午後1時。

 パジャマを脱いで、よれよれの部屋着に着替える。

 昔付けたカットの痕は、もうすっかり見えなくなっていた。消えてもらわないと、仕事に支障をきたす。それでは困るのだ。

 洗面台で顔を洗う。顔を上げると、高校時代に無理矢理買わされたクラスTシャツに身を包んだ、しなびたネギみたいな自分が見える。




 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。




 大学は、最悪のスタートを切った割には楽しかった。

 授業も卒論も、自分の興味のあるものについて学ぶことができた。教員免許も取れた。運転免許も、在学中になんとか取得できた。


 でも、わたしは就職できなかった。


 大学で得た知識や資格をアピールしようとしても、面接官には伝わらない。わたしの話し方が悪いのか、向こうが知識不足なのかはわからない。


 ただ、面接官のおじさんたちは、わたしより元気で、顔や仕草がかわいくて、学歴の低い女の子と話している時の方が生き生きとしていた。


 そのうち、面接のために外へ出られなくなった。

 スーツのボタンをうまく留められない。メイクも、冷や汗と涙ですぐ落ちてしまう。パンプスを履こうとしても、何度もよろけて壁に手をついてしまう。


 しばらく経つにつれ、症状はもっとひどくなっていった。

 電話に出られない。メールを返せない。メイクをする手が震えて、まともに身支度もできない。ご飯を食べ過ぎてしまっては、少し経ってから全部戻してしまう…………。


 ほうぼうの体でメンタルクリニックに電話し、予約をとった。たどたどしい説明でも、受付の人がくみ取ってくれたことが嬉しくて、電話を切ったあとに泣いてしまったことを覚えている。


 予約当日はタクシーに乗った。すっぴんで、お風呂もたまにしか入れなかったわたしを、運転手さんは嫌な顔せず送り届けてくれた。

 メンクリに着いて、受付の人に保険証を出すところまでは覚えている。しかし、先生の顔も、診断された病名も、もらった薬の名前も覚えられなかった。


 再びタクシーで帰る。家の住所を覚えておらず、運転手さんに変な目で見られた。しょうがないから最寄り駅まで送ってもらい、それからは徒歩で帰った。涙が止まらなかった。


 家に着くと、薬局でもらった薬を確認した。

 この袋に入った薬は就寝前、こっちは夕食後、こっちは必要な時にいつでも。

 その時は時間が遅かったので、一種類ずつまとめて飲んだら、思ったより気持ちよく眠れた。




 午後3時。

 部屋に積みあがった服やゴミ袋を眺めていると、黒い影が視界の隅に映った。殺虫スプレーはゴミ袋の間に埋もれているし、深追いして別の個体を発見したくもない。部屋の掃除も、害虫駆除も、洗濯もしたくない。何もしたくない。

 望んで生まれたわけじゃないのに、どうして「普通」に生きるためにこれほど苦しまなきゃいけないんだろう。


 ベッドに入り目を閉じると、昔付き合っていた男たちの顔が脳裏によぎる。


 この記憶も、殺虫スプレーでなかったことにできないかな。




 午後7時。

 空腹と腹痛を同時に感じて目が覚める。


 トイレに行って用を足したついでに、冷蔵庫に何かないか探す。

 冷蔵庫には缶チューハイと、スーパーのお惣菜と、作り置きしようとして失敗した、ポテトサラダのなりそこない。腐っているようすはないけど、今はマヨネーズの酸味を口にすると吐いてしまいそうだ。


 結局、冷凍庫にあったご飯をチンして、それに焼肉のタレをかけて食べた。何も食べないよりいいよね。


 割り箸を捨て、食器をシンクの近くに置く。流しには数日分の洗い物が溜まっているが、見ないことにして事なきを得た。


 こうした日々の積み重ねが、わたしの瞼を重くしていく。何をするにも面倒で、でも色んなことをしないと生きていけなくて、お金が足りなくなって、それで辿り着いたのが今の仕事だ。


 幸い、わたしの顔やスタイルはそこまで悪くなかった。もともとそんなに食べないほうだし、運動も好きじゃないから筋肉質ではない。そういうビデオや漫画に触れたりもしていたので、そこそこ知識もあった。男と付き合ったこともある。もちろん、そういうこともした。


 それに、わたしを求められるというのは、思いのほか心地よいものだと知ったから。

 その形はどうあれ。




 午後8時。

 わけもなく涙が出てきたので、冷蔵庫の缶チューハイを飲むことにした。


 お酒は得意じゃないし、その臭いも味も好きじゃないけど、酔うと嫌なことを忘れられるし、ちょうどよく体調を崩せる。前にやっていたアームカットより、ずっといい。痛くないし、血で服や布団が汚れることもないし、常にカッターナイフを携帯しなくてもよくなった。




 午後9時。

 頭がぐらぐらする。意識ははっきりしているけど、判断能力がとても鈍っていることを感じる。


 初めてまともな男性と夜を一緒にしたのも、こんな感じの時だった。


 一年生の時だった。新歓の期間が終わった頃、わたしにとって初めての彼氏ができた。その人は三年生で、歳はわたしの三つ上だった。浪人か留年かは知らないし、興味もなかった。


 彼とは授業のグループワークで知り合った。毎回、数人の班を組んで英会話をする授業。彼は流暢な英語で「My name is Haruki IZUMI」と名乗った。彼の細い目と、大きな鼻と、低い声が素敵だった。彼の口元には黒子が一つあって、それを思うたびにドキドキした。


 授業が終わると、すぐさま春希に話しかけた。春希は驚きもせず、むしろ彼の方からLINEの交換を申し出てきた。その授業は二限だったので、お昼ご飯に誘われた。学食しか昼食スポットを知らなかったわたしにとって、それは彼関係なく心躍る提案だった。春希はわたしの答えを聞くと、「じゃあ、行こうか」と低い声で言った。よく通る声だった。彼の声を耳にするたびに、心臓の脈が速くなるようだった。


 彼と電車に乗り、下北沢に着いた。てっきり大学周辺で食べるのかと思っていたから驚いた反面、人生で初めて下北沢に来たことにワクワクする自分もいた。道行く人が全員オシャレに見えた。通りの店が全部輝いて見えた。彼はわたしを連れ、スープカレーの店に入った。


「下北と言えば、サブカルと古着とカレーなんだよ」


 そう春希が言っていたのを覚えている。わたしは服にカレーが付かないよう、おっかなびっくりそれを食べた。春希は器用にそれを平らげ、わたしが食べている間はスマホをいじっていた。わたしには興味がないのかと一瞬思ったが、わたしがトイレに立った隙に会計を済ませてくれていた。


「この後って空いてたりする?ついでに服見たくてさ」


 カレー屋を出ると、春希はわたしにそう持ち掛けた。わたしももっと彼と一緒にいたかったし、三限の開始時間はとうに過ぎていたから、OKした。彼はうなずくと、慣れた足取りでわたしを様々な店に連れて行ってくれた。どのお店もオシャレで、中でもわたしは銭湯を改築したようなお店が気に入った。彼はそれとは別の店で、パッチワークのようで奇抜なジャケットを買っていた。ハンガーに掛かっていた時はまったくピンとこなかったが、彼が着ると途端に様になって見えるから不思議だった。


「これから暑くなるけど、まだ冷え込む日もあるから」


 春希はそう言うと、襟のないシャツの上にそれを羽織った。暖かそうだし、彼のミステリアスな雰囲気によく合っていた。彼の後ろを歩くと、古着屋の不思議な匂いがして素敵だった。


 彼はその足で本屋に行った。広いお店ではなく、お客さんもぜんぜんいなかったが、それでも品揃えは豊富らしかった。


「ここ、穴場なんだよ。しばらく見てもいい?」


 わたしは本を読まない方なので退屈だったが、春希が目を輝かせて書棚を見ている姿を見られるだけで十分だった。この時点で、既にわたしは彼にかなり惚れ込んでいた。40分くらい経つと、春希は数冊の古本と新品の本を買った。彼のトートバッグは、PCや本が入ってパンパンだった。


「俺はこれから帰るけど、さらはどうする?」


 彼がわたしの名前を呼んでくれた瞬間を、わたしは忘れることができないだろう。


 わたしは名前を呼ばれたことに動揺して、上手く言葉が出なかった。彼はおどおどしているわたしを見て、喉仏を動かしながらこう言った。


「よかったら俺んち来る?なんもないけど、コーヒーくらいなら出すよ」


 わたしの答えは決まっていた。




 彼の家は、想像通り散らかっていた。一般的な1Kの部屋の中には漫画や本が積まれていて、本棚には見たこともないCDがたくさん入っていた。女っ気のない趣味人間という感じで、わたしは彼に色気すら感じた。わたし以外の女性がいてほしくなかった。彼女はもちろん、女友達にすら嫉妬してしまいそうだった。彼の知る最初の女になりたかった。それくらい、わたしは彼に魅了されていた。


「なんか聞く?適当に音楽流すけど」


 彼の好みが知りたかったので、おまかせで一曲流してほしいと言った。流れてきたのは知らない曲だった。歌詞はよくわからなかったけど、綺麗な裏声や、サビの壮大な感じが印象に残った。彼はコーヒーを淹れながら、「このアーティスト、あんまりサブスクやってないからCD買ってるんだよね」と言った。わたしはサブスクどころか、YouTubeで音楽を聞く人間なのでよくわからなかった。


 彼の淹れたコーヒーは酸味が強く、わたしは砂糖やミルクを入れてようやく飲めた。彼はブラックのまま飲んでいた。窓から夕陽が差し込み、空中を漂う埃を照らしていた。


 わたしは心地よくて、思わずうとうとしてしまった。彼にベッドを借りると、わたしは深い眠りに落ちていった。




 目を覚ますと、いい匂いがしていた。声を上げて体を起こすと、台所から春希がやってきた。彼は眼鏡をかけていて、それはコンタクトの時よりも素敵に見えた。


「おはよ、もう夜だけど。夕飯食べてく?」


 寝ぼけまなこでうなずくと、洗面所を借りてうがいをした。歯ブラシは1本しかなかった。


 夕飯は豚キムチだった。彼は翌日の分を別皿に移すと、わたしに一口目を譲ってくれた。豚キムチは初めて食べたが、予想通りの味でご飯が進んだ。彼はご飯の代わりに、ビールを飲んでいた。


「強要はしないけど、飲んでみる?慣れると美味いよ」


 お酒は飲みたくなかったが、彼の飲んだ缶に口を付けたくて無理矢理飲んだ。変な味がした。よく冷えていたが、麦茶ともコーラとも全然違う苦味があった。彼は笑いながら、「まあ最初はそうだよね、しんどかったらすぐ水飲みな」と言ってくれた。美味しくはなかったけど、サワーやハイボールを飲んだ新歓の時よりずっと楽しかった。


 春希が止めるのも構わず、わたしはちびちびお酒を飲んでいった。今になって思えば、わたしは当時から酔うのが好きだったのだろう。酔うと嫌なことを忘れられるし、失敗もお酒のせいにできる。わたしはふらふらしながら、春希のベッドに寝転んだ。


 彼はわたしに布団を掛けてくれようとしたが、わたしはそれを拒んだ。新歓の時のことを忘れたかった。忘れさせてほしかった。わたしは春希を抱き寄せると、彼の唇に吸い付いた。


 いつまでも続く一瞬だった。


 空気清浄機がうなり、部屋の照明は落とされた。彼は無言のまま、わたしの服を脱がしていった。




 午後11時。

 チューハイの空き缶をゴミ袋に放り込んだわたしは、わずかに残った理性で明日の予定を確認する。明日は午後から出勤だから、正午までに起きれば余裕だ。寝ている間にアルコールが抜けることを願いながら、暗い部屋のベッドに寝転ぶ。


 春希とは、比較的長続きした。彼が卒業するまでの付き合いだった。春希は仕事の都合で四国の方に引っ越すことになり、それを機に別れることになったのだ。最初は嫌だったわたしも、自分に遠距離恋愛が難しいことを悟ると、しぶしぶそれを了承した。春希は元気でやっているだろうか。色々なことを教えてくれた春希。彼はIT関係の仕事に就いたらしい。当時のわたしは仕事について考えてもいなかったので、それを聞き流していた。新しい住所くらいは聞いてもよかったのかもしれない。今となっては遅すぎる話だが。


 それからの彼氏は最悪続きだった。誰も彼も、春希のような誠実さや純朴さがなく、貪欲にわたしの身体を求めるばかりだった。今の仕事に就いてからはそういうものだと割り切っているが、当時のわたしは春希を想って泣いてばかりいた。重い女だと思われたくなかったので、彼に挨拶や趣味以外のLINEを送れなかった。そのうち、彼のプロフ画像が知らない女とのツーショット写真になった。わたしは彼の連絡先を消した。耐えられなかった。



 午後11時50分。

 春希について考えすぎたせいで、苦しくなった。液状の頓服薬を口にすると、段々と落ち着いてきた。


 春希に他の女がいるところで、わたしに何の影響があるだろうか。どうせわたしは彼の最初の女にはなれなかったのだ。春希がわたしを初めて抱いた時、その手つきはあまりにも慣れすぎていた。前に女がいた証拠だ。だから何だと言われればそれまでなのだが。




 人は声から忘れられていくという。




 わたしを可愛がってくれたおばあちゃんも、厳しかったおじいちゃんも、数年前に亡くなってしまった。今となってはその声を思い出すことができない。顔や出来事ははっきりと覚えているものの、その場面を思い出そうとすると、その声だけがすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。




 そしてそれは、春希の場合も同じだった。




 好きだった春希の声。低くてよく通る、優しい声。耳元でわたしの名前を呼んでくれた声。


 今ではそれを思い出すことができない。




 わたしは春希の連絡先を消したことを後悔して、泣いた。




 隣の部屋から、ベッドの軋む音と押し殺した喘ぎ声が聞こえた。

 その音は、かつて過ごしたあの日々を思い出させるものだった。


 わたしはトイレに駆け込むと、胃の中身を全て吐き出した。何度も何度も、胃液がなくなるまで吐いた。部屋に置いてある時計が、無機質な声で時報を流した。


「午前、0時。12月、25日、です」






『A Melancholy in Pink/ピンク色の憂鬱』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る