Dear My S

 春です。


 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。


 小学一年生の頃、あなたを一目見た私は初めての感情に戸惑いました。それまで友達に感じていた仲間意識とも、女性に感じていた漠然とした憧憬とも違う、まるで心を射抜かれたかのような衝撃。……まさに私の初恋でした。


 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。


 当時の私は、あなたが席を立って自己紹介をする姿から目が離せませんでした。あなたのすらっと伸びた背も、透き通るような声も、まだ化粧など知らぬあどけない顔も、昨日のことのように覚えています。

 ホームルームが終わった後、私はあなたに話しかけようとしました。しかし、当時の私には到底できない相談でした。幼かった私はあなたに話しかけることも、他の友達を作ることもできず、逃げるように教室を後にしました。初めての下校時間はあまりにも長く、夕焼けが私の頬を伝う涙をほのかに照らしていました。


 そんなある日、あなたと私は初めて会話をしましたね。覚えておられるでしょうか。

 いえ、覚えているわけがありませんね。なんせ、もう十五年ほど前のことですから。


 その日はよく晴れていて、暖かい初夏の日差しが校舎を明るく照らしておりました。教室の側には雑草の生い茂る裏庭があり、青々としたバッタたちがよく跳び回っていたものです。


 朝の休み時間の頃でした。わずか二十分ほどの短い時間ながら、男子児童らは校庭へ鬼ごっこをしに出掛けていきました。残っていたのは少数のインドア派の児童ら数人、その中にはあなたも含まれていました。もちろん私は教室に残り、ご友人らと談笑するあなたをちらちらと見ておりました。

 少し経った頃、あなたとご友人らは裏庭へと出て、バッタを捕まえ始めました。それも上履きのまま。若さとはいいものですね。私はその姿を、教室から眺めておりました。


 突然、あなたが振り向きました。おそらく時計を見るか、教室内にご友人がいるかどうかを確かめるためだったのでしょう。いずれにせよ、あなたの目は私を確かに捉えました。私は一瞬固まった後、あなたから目を逸らしました。恥ずかしかったのです。覗いていたのが後ろめたかったのです。そして何より、あなたの顔があまりにも眩しかったのです。

 顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた私に、あなたは声をかけてきましたね。


「バッタ好きなの?一緒に獲らない?」


 私の答えは決まっていました。


 それからはまるで夢のようでした。

 両親や先生に従うしか能のなかった私を、優しく陽だまりへと導いてくれたあなた。バッタの生態や捕まえ方を教えてくれたあなた。私の名前を聞いてくれたあなた。あなたの名前を教えてくれたあなた。すべてが光り輝いて見えました。


 あなたの手のぬくもり。すらっとした指先。艶やかな口元。健康的な太もも。汗で湿った体操服……。情欲など知らなかった当時の私にとっても、非常に刺激的なひとときでした。変態的な意味ではなく、純粋に楽しかったことを今でも覚えています。


 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。


 その後は、あなたと一緒に遊ぶことが度々ありましたね。友達を作るのが苦手な私に、ご友人を紹介してくださったり、席替えで距離が少し近づいた時、「ちょっと話しやすくなったね」とはにかんでいただけたり、体育の授業の際に、体操の組分けが一緒になったりと、様々な形でご一緒できたことを覚えています。




 それから少し時間が経って、小学五年生の頃でした。

 三・四年次のクラス分けで離れ離れになってしまった私たちですが、五・六年次のクラス分けでは無事同じクラスになり、私は天にも昇るような心地でした。三・四年生の頃は、隣の教室まで顔を出しに行かなければいけませんでした。あなたは同クラスの人と遊ぶことが増え、私と遊ぶ機会は劇的に減っておりました。授業中、まじめに勉強する横顔や後ろ姿を見ることもなくなっておりました。そんな日々が終わると考えると、私はいてもたってもいられませんでした。


 久々に目にしたあなたは、背がとっても伸びて、髪型も変わって、ランドセルに可愛らしいアクセサリーを付けたりしていましたね。同年代の女子と比べても大人びていたあなたは、非常に魅力的でした。一年生の時はなんともなかった、あなたの一挙手一投足のすべてに目を奪われました。


 小学生と言えど、五年次ともなると恋愛に興味を示し始めるものです。私ももれなくそうでした。

 一年生の頃は漠然としていたあなたへの感情が「恋」であることを自覚した私は、あなたに告白することを決めました。しかし内気な私は何をしようにも手間取ってしまい、結局行動に移したのは二月頃になってしまいました。幸か不幸か、その時期はバレンタインデーが近く、私はあなたにプレゼントを渡すことで恋心を伝えようとしました。母に何も言わずプレゼントを一緒に選んでもらい、ラブレターを同封してランドセルに仕舞いました。母は私の意図に気付いていたでしょうが、茶化すこともなくプレゼントを買ってくれました。


 バレンタインデー当日のことです。

 私はあなたにプレゼントを渡すべく、ランドセルを担いで意気揚々と学校へ向かいました。しかし、いざ着いてみると、チョコを渡しているのは女子ばかりで、私のような男子がチョコを渡している姿は一切見られませんでした。私はそこで初めて、「バレンタインデーとは女性が男性にプレゼントを渡すイベント」なのだと知りました。

 しかし、ここで引き下がれるわけがありません。私はあなたが一人になったタイミングを窺いました。しかしあなたは人気者で、友達にチョコを渡し渡されの繰り返しでした。


 とうとう下校時間になってしまい、教室には私一人が取り残されました。私は悲しいやら悔しいやら情けないやらで、こみ上げる涙を必死に堪えていました。


 神の思し召しとはこのことを言うのでしょう。

 泣きそうになっていた私の前に、突如あなたが現れました。忘れ物を取りに、と。

 私は神に感謝しつつ、涙を拭いてランドセルをまさぐりました。

 プレゼントを取り出すと、包装はよれ、リボンは曲がり、中のチョコレートやラブレターは歪んでしまっていました。しかし、それでもプレゼントを目にしたあなたは驚いて、笑顔で受け取ってくれました。私は顔を真っ赤にしながら、開けて中を見るように言いました。あなたは素直に中を覗き込むと、ラブレターに気付き読み始めました。


 読み終えたあなたは、私の方を向いてこう言いました。


「知ってた」


「ありがとう、でも、Dとはそういうんじゃないかな」


「あと、あだ名で呼ぶのはやめて。あれは友達同士でのあだ名だから」


「ごめんね」




 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。




 私は、バッタなんか好きじゃありませんでした。


 私だって、男友達との鬼ごっこに混ざりたかったのです。


 下校中、クラスメイトの男子から「女としか遊ばないオカマ野郎」と心無い言葉を投げかけられました。


 男友達の作り方なんて知らないまま、私の小学校時代は終わりを迎えました。


 あなたの去った教室には、二月の冷たい空気が満ちておりました。




 時は経って、私も成人を迎えました。

 母に促され、嫌々ながらも成人式に向かった私は、小学校の同窓会に参加しました。


 友達なんかいませんでした。ただ、あなたの顔を一目見たかったのです。


 あなたがどれほど私のことを苦しめていたのかを自覚し、後悔する顔を拝みたかったのです。


 会場は人でいっぱいでした。

 進行役を務める男や、振袖に身を包んだ女。酒を飲み、思い出話に浸っている有象無象。

 そんな連中には目もくれず、私はあなたを探し続けました。私は、あなたをすぐ見つけられる自信がありました。すらっと伸びた背に、あどけない顔つき。憎々しく輝いている記憶をたどれば、すぐに見つけ出せると思いました。


 しかし、あなたを探しているうちに、同窓会はお開きとなってしまいました。

 今になって思えば、できることなら私もあなたを見つけたくなかったのでしょう。無意識のうちにあなたに似た人影から目を逸らし、見覚えのない人を見つめてはうんうん首を捻っていたのでしょう。


 会場を後にした私は、駅までの道のりをとぼとぼと歩いていきました。月光の差す美しい帰路でした。


 すると、目の前を歩いていた女性が振り向きました。それまで全く気付かなかった、いえ、それまで目を逸らしていたその姿は、紛れもなくあなたでした。


「やあ、久しぶり。来てたんだね」


 私はあなたに声をかけました。できるだけ平静を装って。


 あなたの申し訳なさそうな顔が見たくて、泣きじゃくる姿が見たくて、あなたが地に伏して謝る姿が見たくて、わざわざこんな所まで来たのでした。


 あなたは微笑むと、私に返事をしました。


「D?久しぶり~」


 私は度肝を抜かれました。

 謝るわけでも、忘れているわけでもないあなたの姿が、とても正常なものとは思えませんでした。


 私はどもりながら、あなたに私を覚えているかを訊きました。


 あなたは不思議そうな顔をして、こう答えました。


「もちろん覚えてるよ」




 あなたの背丈は、いつの間にか私のそれより低くなっておりました。


 あなたの笑みは、いつの間にかかつてのあどけなさを失っておりました。


 あなたはあの日の幻影を私の心に植え付けたまま、遥か遠いところへ行ってしまいました。




 その後、当時の思い出話に花を咲かせた私たちは、すぐに連絡先を交換しましたね。

 しばらくやり取りをして、時折顔を合わせたりなどしつつ、再び仲を深めていった私たちは、やがて交際することになりましたね。今でも信じられません。かつて夢見たあなたと、こうして一緒に過ごすことができるとは。私の凍てついた心に、暖かい光が差し込んできたかのようでした。




 しかし、いくらあなたと連絡や逢瀬を重ねても、私の心は荒んだままでした。


 それどころか、あなたの顔を見る度、私はどんどん追い込まれていきました。

 この上ない幸福感に満たされているはずなのに、なぜ私は苦しんでいるのでしょう。




 やがて私は気付きました。


 私が恋しているのはあなたではなく、かつてのあなた。


 つまり、私の心に巣食うこの幻影こそが、私の恋愛対象であるというのです。

 あなたを見れば見るほど苦しむ理由は、現在のあなたとこの幻影を比較してしまうためです。


 かつて美しく輝いていたあなたは、今や見る影もありません。


 あなたは私の心を、一度ならず二度までも完膚なきまでに砕いてくださりました。




 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。




 その復讐、いえ、断罪として、ちょっとしたサプライズを仕掛けました。


 このテキストファイルはプリントアウトして、私の部屋の前に貼付させていただきます。


 ドアを開ける前に読んでくださりましたか。


 ドアノブを捻り、しっかり押してみてください。

 ドアが普段より重ければ成功です。







 反対側のドアノブには、ロープに繋がった私の死体が転がっています。


 かつてあなたが私を苦しめたように、私もあなたの心に一生消えない傷を刻みたいと思います。

 私を殺したのは、他でもないあなたです。あなたさえいなければ、私はあなたのいない暗闇の世界で生き延びることができたのです。あなたの幻影が、私をここまで追い詰めたのです。


 ドアを開けると、正面には大きな鏡が置いてあります。

 鏡には私の死体と、あなたの恐怖と絶望に打ちひしがれた表情が映っています。




 その表情こそ、私が生涯をかけてあなたに求めていたものです。




 ここまで読んでくださりありがとうございます。


 私が生涯あなたのことを忘れなかったのと同様、あなたも死ぬまで私のことを思い出し、その度に苦しんでください。あなたに刻まれた私の傷が癒えなかったように、あなたの傷が生涯残り、苦しみぬくことを祈っております。


 最後になりましたが、一つあなたに質問させていただきます。






 あなたは私のことを覚えておいででしょうか。






 それでは、さようなら。






『Dear My S/拝啓S様』

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