愛は魔法ではない

「あがって」

「おじゃまします……」

 千織がやってきた。ついに楽園へ侵食を果たした千織は、恐る恐る、ちょろちょろと漏れる水みたいに家の中へ入ってきた。本来は千織の祖父母の家でもあるけれど、今は他人の気配が強すぎて気後れしているようで、なんだか変な忍者ごっこみたいでもある。

 私の中にも緊張はあった。どんな楽園であろうともここが現実である限り現実から逃げることはできないというのは、美咲さんの件で思い知ったことだ。だったら千織という現実がやってきたところで私には受け入れるしかできないのだろう。以前恐れたほどのことではないのだ。とても悲しいけれど。

 実家でゆっくりしたという美咲さんは仕事に復帰して、日常は戻ったように見えた。もちろん内心はそれぞれだと思うし、美咲さんはだいぶ明るくなったけれど傷心を抱えていることは一目瞭然で、それでも日常を取り戻そうと努力していることは目に見えていた。

 私には美咲さんの傷心を癒やす方法がわからず、ただとにかく暖かくて優しいものを飲んでゆっくりしてもらうこと、そして赤ちゃんの話題を避けないことを心がけるくらいしか出来なかった。

 もう一方、私を悩ませるのは妹、千織のことだった。

 ただ赤ちゃんという夢を一瞬見て一瞬で破れた経験をしたあとでは、千織ひとりが来ることで侵食される現実などたいしたことはなかった。出来れば来てほしくはない。私の楽園に実家の侵食を決して許したくなどない。けれど他人の弟をかわいがり、友人の赤ちゃんをかわいがる前に、実の妹と話くらいしなければあまりにも薄情すぎないかという問いが私を逃さないのだ。

 私の幸せのため、私の幸せのためと繰り返してきたけれど、それが他者を踏みつけるようなものならどうだろう。私のように逃げ出せもしない、言ってしまえば弱者を見捨てて掴んだ幸せは、どうなのだろう。こうやっていつも思考は実家に引き戻されてしまう。だったらやっぱり、千織の話くらい聞いたって罰は当たらないのではないだろうか。千織本人も病状は落ち着いていると言っていたし。

 そういうわけで私はみんなが仕事や学校の間に千織を家へつれてきたのだった。

 とりあえず居間へ通してお茶を出す。その間も千織はきょろきょろと部屋中を見回していた。前髪をとめるピンを落ち着きなく触っている。

「あの……」

「なに?」

「えっと……おばあちゃんたちがいた頃とずいぶん雰囲気が違うね。いや、あの、違ってて全然いいんだけど」

「まあ、ボロだしね。DIYが好きな友達がいろいろ修繕してくれたの。そのかわりその人の趣味全開になったけどね」

 隣に座るのも真向かいに座るのも居心地が悪かったので、ソファに座る千織に対して直角に座った。窓を背にする格好になる。

 部屋の雰囲気は全体的に明ちゃんの好きな感じで、ニスを塗っただけの木製の棚やオフホワイトの壁紙、真鍮の金具などナチュラル系に統一されている。私たちが手を付ける前は、おじいちゃんおばあちゃんが長年住んだ証のような統一感のなさが溢れていた。それはそれで落ち着くものがあるけれど、やっぱり趣味ではない。というわけで今、こんな感じなのである。居心地は良い。

 千織は相変わらず部屋を見回しながらお茶を飲んでいたけれど、窓に目を止めてお茶を置いた。

「外、見てもいい?」

「いいよ」

 好きに見ればいいのに、それさえ断りを入れる千織の心理を考えてしまう。自分もこう見えるのかな、と思ったり、あまりにも哀れだと思ったり。

 千織は何が気になったのか窓の前に立ってぼんやりと外を眺めている。

「何見てるの?」

「えっと、芝生。なんか憧れがあって……」

 雑草でぼうぼうだった元・畑をこの間の休日、みんなで綺麗に引っこ抜いて、ホームセンターで買ってきた芝生を敷いたのだ。もちろん美咲さんの赤ちゃんを育てるという夢を見たその欠片だ。別に供養とかではなくて、部屋の中をDIYで思い通りに作ってみるのと同じで、夢見た形に少し近づけてみただけだ。美咲さんの赤ちゃんを腫れ物にしてしまうよりよほど良いと私は思っていた。美咲さんの中で吐き出せないままぐずぐずになって腐っていってしまうより、どんなに胸が痛んでも気軽に話題にできるほうが風通しが良くて傷にも良いのではないかという私の勝手な考えだけれど、みんなそれに乗ってくれているので賛同してくれているのだろう。美咲さん自身も悲しみが混じってはいるけれど、笑顔で赤ちゃんの話をしたりする。悪いことではないと思う。

「芝生ロールって二週間くらい毎日たっぷり水やらなきゃなんないの。結構めんどうなんだよ。千織やってみる?」

「いいの?」

「別に水やるだけだよ。踏んで水が染み出してくるくらいまでやるの」

「うん、やる」

 千織の頬が紅潮する。たったこれだけの作業でも千織には新鮮なのだ。本当にかわいそうな子だ、と思った。

 一緒に庭に出てつなぎっぱなしのホースリールからホースを引っ張っていく。水道の蛇口を開けて声をかけた。

「千織ー、いいよー」

 すると、少しの間を置いていきおいの良い水の気持ち良い音がした。

 千織の撒き散らす水は太陽の光を浴びてキラキラと光り、目に眩しかった。千織は嬉しそうに笑って熱心に水をまいている。

 隣に並ぶと千織がこちらを向いて微笑んだ。

「綺麗だね、お姉ちゃん」

「そーだね」

「あのね、お姉ちゃん……また来てもいいかな……?」

「いいよ。いつでもおいで」

 ぱあっと千織の頬が赤く染まる。こんなことでそんなに喜んでくれるならもっと早く呼んでもよかった。でもそれは今こうして呼んでみたから思えることだけれど。千織の調子が良いというのもあるし。私たちは赤ちゃんという夢を失ってさみしくなっているところだし。いろんな条件が重なってそう思えたのだけど、千織は実際楽園を汚したりしなかった。私は他人ばかりでなく、実の妹もきちんとかわいがれるだろうか。千織だけでも捨てずにいられるだろうか。また煩わしく感じてしまったりしないだろうか。私はどうしても自分が信用できない。



 二度目に千織が来たのは、家に私だけでなく美咲さんと隆太くんがいるときだった。初顔合わせにはベストの面子だったのではないかと思う。優しく穏やかな美咲さん、おとなしい小学生の隆太くん。千織を脅かすものは最低限だと思う。

「はい、千織ちゃん」

「ありがとう、ございます……」

 紅茶の入ったマグカップを置かれ、小さな蚊の鳴くような声でお礼を告げる千織。それでも美咲さんに届いていたようで、「どういたしまして」と微笑まれて戸惑っていた。

 千織には今、初めて会う人、初めて話す人というのがいなくて、美咲さんと隆太くんの存在そのものに怯えているのだと思う。けれどふたりがいることを伝えても来ると言ったのだから、覚悟はあるのだろう。がちがちに緊張しながら千織は前に来たときと同じソファの端に腰掛けていた。私にはこんなに心安らぐ状況なのに。

 隆太くんは百科事典を眺めていたけれど、ちらちらと千織を気にしていた。意外なことだ。どんなことにも動じないように見える彼が目に見える形で他人を気にかけている。これはどうしたことだろう。

「隆太くんどうかした?」

 尋ねると、言葉を探すようにくちを尖らせてゆっくりと話しだした。

「えっと……汐美ちゃんの妹?」

「そうだよ」

 千織は目を丸くして固まっている。

「じゃあ、百科事典ありがとう」

 隆太くんは千織に向かって頭を下げた。

「えっ、あ、はい、あの、どう、いたしまして……」

 突然のことに千織は混乱して、それでもなんとか尻すぼみになりながらも最後まで言葉を発せていた。小学生と話せた。千織の成長だ。

 そのあと急に、千織の目に涙が浮いてきた。あまりの驚きにこちらは言葉にならないのだが、確実に涙は溜まって溢れていく。一体彼女の中で何があったのか。美咲さんと隆太くんもいるというのに、何か幻聴でも聞いたのだろうか。私は心臓がずしんと重たくなって、もう千織は家に帰そうと立ち上がりかけたその時。

 隆太くんが千織の隣に座って、なんとその背をゆっくりゆっくりと撫で始めた。千織はソファに足を上げ、膝に顔を埋めて本格的に泣き始めてしまったが、隆太くんは気にせずに撫で続けている。

「大丈夫だよ」

 ボーイソプラノの声が千織に言う。世界一慰め上手らしい隆太くんに、千織は顔を埋めたまま何度も頷いた。

 隆太くんには千織の何がわかったのだろう。何か伝わるものがあったのだろうか。

 美咲さんのときもそうだった。本来なら聞かせないほうがいい話をしてしまっていた私たちに、隆太くんは的確に美咲さんを慰めた。他の誰にも出来なかったことだ。この子には何が見えているのだろう。この子には世界がどう見えていて、人々はどう見えているのだろう。決して幸福とは言えない家庭環境で育つこの子。一度この子の目を通して世界を見てみたいと思った。

 一方私はここに千織がいることにもやもやすることをやめられなかった。一応美咲さんと隆太くんは千織を受け入れてくれたらしいけれど、ふたりは特別優しいからでその優しさが千織に向けられるのを私はずるいと思ってしまうのだ。ここは私の努力で作り上げた場所で、そんなふうに簡単に得るなんてずるい。けれども千織には家から離れることさえできない、努力以前の問題があって、そんな子を私と同列に語ってはいけない気がした。千織には助けが必要なのだ。私以上に。

 ため息が漏れた。薄い曇り空の鈍い光が芝生を照らし、部屋に差し込んでいる。何ということもないけれど、綺麗な景色だと思った。私が夢見た場所。千織は泣き止む気配を見せていて、完全に泣き止めば私が家の最寄り駅まで彼女を送っていくことになるだろう。

 楽園なんてどこにあるんだろう。わからなくなってしまった。

 千織が帰って、隆太くんも木嶋くんが迎えに来て帰ってしまったあと、残業を終えて帰宅した明ちゃんに私はそれを告げた。すると明ちゃんは寸分の間も置かず「ここよ」と答える。

「ここはあんたが目指して作った楽園なんでしょう? それが妹ちゃんひとり来たくらいでなによ。住むわけでもあるまいし何も壊れりゃしないわよ。あんた妹ちゃんに美咲ちゃんと隆太くんを取られたのが悔しいんじゃないの? 嫉妬よ、嫉妬」

 残業で疲れていてまともに取り合ってくれていないのかと思ったけれど、そうではないらしい。明ちゃんは本気でそう言っていた。

「嫉妬ぉ? ないない」

「そうかしら。あたしならするわよ。あたしのハーレムに仕方なしとは言え怪我人なんかが入ってきて手厚く看護されてたら、あたしのハーレムなのにー! って思うけどね。でもそれだけよ」

「別にここハーレムじゃないし」

「たとえ話でしょ。バカじゃないのぉ?」

 えー、と抗議したところでお風呂から出てきた美咲さんが髪の毛を拭きながら「何の話?」とクッションに腰を下ろした。

「汐美が妹ちゃんに嫉妬してるって話よ」

「してないってば!」

「え、どういうことどういうこと?」

 そこで明ちゃんは先程の話を再び繰り返した。私にとっては不本意なのにくちを挟ませてもらえない。

「ああ、なるほどー。私は汐美ちゃんだってかわいいよー。いい子いい子」

「ちょっと、美咲さん!」

 美咲さんは酔ってもいないのににこにこと私の頭を撫でた。恥ずかしいけど嫌ではないし、ちょっとうれしいかもと思ったのは、やっぱり千織に嫉妬していたということなのかもしれない。

 私のための楽園。私のための美咲さん。私のための明ちゃん。私のための木嶋兄弟。そんなふうに全て私のためだけにあると錯覚してしまうほど満たされたこの空間と生活が、千織に奪われてしまうと思ったのかもしれない。だって美咲さんと隆太くんがあまりに優しいから。私も泣いたら隆太くんが慰めてくれるのかな、とか。

 嫉妬か。そう思ったら恥ずかしくて、けれど納得できてしまうことが情けなかった。千織はここできっと息抜きができるし、愛情を受けなきゃならないのはわかっていることなのに。

「嫉妬だねえ……」

 ぽつりと呟くと、「ほらね!」明ちゃんが勝ち誇ったように高笑いをした。美咲さんもつられ笑いをして、それから温かいお茶にくちをつける。

「でもどうして嫌なのに千織ちゃんを連れてきたの? 断ることだってできなくはなかったんでしょ?」

 湯呑の向こうの上目遣い。私は正直に答えるしかない。

「断ることはできなかったの。だって私、実の妹を置いて逃げてきて他人の弟をかわいがってるんだよ。どう考えてもおかしいでしょ。千織だって助けてほしがってるのに」

「それで仕方なく?」

「助けられるものなら助けたいよ、そりゃ。でも千織は私には重いの。千織を背負う覚悟がないんだよ、木嶋くんみたいにさ」

「覚悟ねえ……」

「私、千織を愛してないのかな。邪魔に思ってるのかもしれない。だけど嫌なやつになりたくないから連れてきてみたり、ちょっと良いことしようとしてるのかもしれない。もしそうだったら……やだな……」

 救いを求めるように発した声は、やがて尻すぼみになってぽつんとこぼれ落ちた。こぼれ落ちたそれは私の中に残響を残していく。

 すると意外なことに美咲さんがくすりと笑った。

「なに?」

 不安になって問う。美咲さんは他人の苦しみを笑ったりしない人のはずだから。

 美咲さんは苦笑をして手を振った。

「ごめん、違うの。わかりきったことなのに本人はわかってないんだなって思って少しおかしくなっちゃって」

「何がわかりきってるの?」

「汐ちゃんが妹さんを愛してることだよ。愛情がなければそんなに悩まないよ」

「え……それってわかりきったこと?」

「そうだよ」

「だって……私は千織を見捨ててきたし、今に至っても嫉妬して邪険に思ったりしてるんだよ、愛してるなんてわかんないよ」

「そりゃ、愛は魔法じゃないもん。なんでも解決できるものじゃないから。むしろ悩みを増やしてきたりするよ」

 美咲さんの当たり前の顔に私は呆然とした。

 愛は魔法じゃない。そうか。そうなんだ。何でもかんでも愛の一言で片付けられるものじゃない。愛があればそれでいいわけじゃ、ないんだ。

 絡まっていたものがするすると解けていく。私にはまだはっきりとは言えない、妹を手放しで愛しているとは。でもきっと愛はある。そこには悩みも絶望も混ざり合ってごちゃごちゃとしたものになっているけれど、私が千織をかわいく思っていない理由にはなりはしないのだ。

 それを当然のように見抜いた美咲さんはすごかった。彼女の人生経験がそれを可能にしたのだと思うとどこか切ない。子供の頃から母親の世話をしてきた美咲さん。そこに愛憎がないはずがなかった。暴力を振るう恋人に愛憎がないわけがなかった。愛と憎しみを知っている美咲さんにとって、私の千織への思いは片手間で計算できる小学生ドリルみたいなものなのだ。

 私はほっとすると同時に胸苦しかった。楽になれないことがわかってしまったからだ。結局木嶋くんのようにはなれず、少し邪険に思いながら愛ゆえに千織を無視できない状態が続く。手放しに愛せたり、手放しに突き放したりなんて出来ようもないまま。不安と嫉妬と戦いながら。私は千織を愛する。

 それからも千織はちょくちょくうちへ来た。泣くこともあったし、無理なく笑っていることもあった。明ちゃんにちょっかいを出されたときはさすがに怯えていた。妹を怖がらせないでよ、と自然に言えた自分に少し驚いたし、千織に「あの人は取って食うよ」と冗談を言ったときはなんだかいっそ誇らしいような気分がした。私はごちゃまぜの感情とうまく付き合っていけるような気がしていた。

 

 

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