叶わないから夢と呼ぶの

 カーテンを開けて外を眺める。もう何度目だろう。山道は相変わらず暗く、道路の向こうの藪、生い茂った斜面、そして森は闇に沈んでいる。誰のやって来る気配もない。家の中は特に会話もなく静かだったけれど、かき混ぜられた泥水みたいに落ち着かない空気だった。

 美咲さんが帰ってこなくなって既に四日が経とうとしていた。

 

 

 明ちゃんがため息をついて携帯電話をテーブルに置いた。木嶋くんが心配そうに眉を寄せる。

「出ない?」

「出ないわね……どこで何しているんだか」

 曖昧に唸って木嶋くんがテーブルにお盆を置く。インスタントコーヒーの入ったマグカップが四つ。隆太くんのは牛乳で粉を溶いたやわらかなベージュ色をしている。

 私たちの今の議題は主に、警察に届けるべきか否か、であった。美咲さんは成人しているし今のところ事件性がはっきりしているわけでもないし、行方不明の届けを出しても捜索はされない。事件や事故に巻き込まれているのでなければ、いちばん可能性の高いのは母親のもとにいることだった。実家にいるのなら捜索願を出したところであらゆる方面に迷惑になるだけだ。けれど実際、美咲さんと連絡がつかない。実家の電話番号も知っているけれど、彼女の家は常時電話に出ない。常に留守番電話が応答して、それを聞いて必要があればかけ直したり、またかかってくるのを待ったりするスタイルなのだと前に聞いた。美咲さんは子供の頃、母親がそうしているからどこの家でもそうなのだと思っていたらしい。

 だから何度も電話をしてメッセージを残してはいるけれど、今のところ何の反応もなかった。

 私たちは迷っていた。彼女が自分の意志でここを出て、連絡を絶っているのなら騒ぎ立てるわけにはいかないけれど、何かに巻き込まれているのならここでぐずぐずしている場合ではない。

 問題は美咲さんが何も言わず、相談もせず自らの意志で連絡を断つような人なのかというところなのだが、残念ながら彼女にはその前科があるのだった。

 以前、この家にまだ私と明ちゃんだけが暮らしていて、美咲さんもここへ来てはどうかと誘って話が進んでいた頃だ。突然連絡が取れなくなった。あのときの美咲さんは暴力を振るう彼氏と別れたりよりを戻したりを繰り返していて、ちょうどその時は別れて逃げているときだった。女性センターに駆け込んで、相談しながら数日そこへ宿泊して、彼氏と連絡を取ったりしてしまわないよう携帯電話も預けていた。あとで美咲さんは咄嗟の行動だったと謝ったけれど、彼女にはそういう追い詰められたら勝手にどこかへ行ってしまうところがあるのだ。聞けばそれ以前にも周りとの連絡を絶っていなくなることが数回あったらしい。美咲さんの悪癖だ。

 今回も、その悪癖が出ただけならいい。

 いや、良くはなかった。おかげで私たちは大変心配して落ち着かないし、警察がどうこうという物騒な話を隆太くんのそばですることになっている。問題なく美咲さんが戻ってきたなら、明ちゃんの説教三時間コースなんてそんな生易しいものでは済まない。何に追い詰められていたにしろ、探さないでくださいとか心配いりませんとかの一言もないのは、やっぱり駄目だ。悪癖、悪い癖だ。直してもらわないと、私たちは美咲さんが見つかるまでこうして心配で心配で心の休まる暇がない。私たちは心の底から心配して不安に思いながら、はっきり言って怒ってもいるのだ。

 もし美咲さんに何かあったのならという不安は決して和らがなかったけれど、私と明ちゃんはおそらくまた彼女の悪癖が出たのだろうと思っていたし、その話を聞いた木嶋くんも、じゃあ今回もきっとそうかもしれないと言った。

 私たちは戻ってきた彼女が泣くまで正座をさせてやろうと意気込んで、その場の落ち着かない不安を誤魔化して夜を過ごした。コーヒーを飲み干した木嶋くんは、美咲さんから連絡があったら教えてと言い残してバイトへ出かけたけれど、結局彼が帰ってきてもまだ音沙汰はないままだった。


 その代わりとでもいうべきなのか、珍しい人物から連絡が来た。千織だ。

 美咲さんからのメールはまだか電話はまだかとそわそわと待っている最中、一通のメールが届いたのなら、それは美咲さんからだと思ってしまうものだ。だが差出人名は千織になっていた。千織からこうしてメールが来るのは、家を出て以来初めてのことだ。正直面食らった。肩透かしとか、紛らわしいと怒るというよりも、一瞬思考が停止するほどの意外性を持っていた。

 私はその時ちょうど仕事が終わって駅にいた。明ちゃんの車を待っているところだった。

 ちょっとした衝撃とともに千織からのメールを開けば、そこに書いてあることはさらに衝撃で、私は言葉を失う。

『千織です。お仕事はもう終わったでしょうか。まだだったらごめんね。時間はもうとっくに終わった頃なのでたぶん大丈夫だとおもうのですが。この間は久しぶりにお姉ちゃんが帰ってきて、なんだか嬉しかった。家にお姉ちゃんがいるということが、すごく懐かしいことのように感じました。お姉ちゃんが家を出て行ってもうずいぶん経つんだね。私もお母さんと二人暮らしのような生活にもう慣れました。お父さんは相変わらずあまり帰ってきません。どうせ他に女がいる、とお母さんはたまに言います。私にはどう返してあげればいいのかわからないままです。ところでお姉ちゃん、もし良かったら、私もそちらの家に遊びに行ってもいいでしょうか。もちろん一緒に住んでいるお友達がいない間だけでいいよ。私は今飲んでいる薬が合うのか、幻聴を聞くことがずいぶん減りました。少しの間ならお姉ちゃんに迷惑をかけることもないとおもいます。どうかな。突然ごめんね。でももし良ければ、考えてみてください』

 私はわずかの恐怖を感じていた。わずかではあってもそれは確かな質量を持っている。泥沼が私に忍び寄る。せっかく踏み固めた悲願の足元が、また崩れていく。そんな恐怖だ。手に入れたものを失う恐怖。

 たかだか千織一人が遊びに来たいというだけで、何を失うものか。そうは思っても心は怯えている。きっちり切り離して遠ざけているものが、じわじわと侵食してくる感覚。波にさらわれるように足元が少しずつ崩れてしまう気がする。

 騒がしく人が行き来する駅前で、私は呆然と思っていた。これは侵食である、と。終わったはずの過去が、捨てたはずの過去が楽園を侵すのだ。

 楽園が現実に汚されて地に堕ちる。夢の終わりだ。

 しばらくして駅前のロータリーに車を乗り付けた明ちゃんは、場違いに険しい顔をした私を見つけて少し引いたらしい。助手席に座った私に、車を出しながら呆れた声を出す。

「一体どうしたっていうのよ。人でも殺すのかと思って怯えたわ」

仕事終わりでも明ちゃんのヘアスタイルに乱れはない。

「いや、殺さないけど、そんな顔してた?」

「してたわよ。自覚ないの? それはそれで怖いわね」

 怖がられてしまった。

 それはともかく、私は千織のメールから自分の感じたことまですっかり全部明ちゃんに話した。心がふらふらと揺れて自分の立ち位置、天地の上下まで揺れているような寄る辺なく不安な気持ちが、私をまっさらに素直にしていた。

 荒れ果てた荒野を彷徨い続けた果てに手にした楽園を失うのだろうか。夢が現実に侵食されて光を失うのだろうか。こんな思いは極端すぎるだろうか、怯えが過ぎるのだろうか。けれどどうしても不安なのだ。

 信号の多い駅前通りをゆっくりと車は進む。つい最近新調したカーステレオにはBluetooth機能が付いていて、つながった明ちゃんのiPhoneから聞いたことのない女性ボーカルの洋楽が流れていた。

 自分のスカートの膝ばかりを見つめながらつっかえたものを押し出すみたいに全てを話した。明ちゃんはずっと黙って聞いていてくれたけれど、話し終えてからもしばらく何もくちにしないで私をさらに落ち込ませた。

 駅前を抜けて住宅街も抜けて、我が家への山道に差し掛かろうかという頃、引っかかった赤信号で明ちゃんはようやくため息か唸り声かわからないものをゆっくりと吐き出した。

「あたしはさ、妹ちゃんのこと全然知らないから気軽に呼びなさいよなんて言えないけど、もうこうなったら選択肢はふたつしかないじゃない。断って苦しいか、受け入れて苦しいか。どちらにせよあんたは苦しいはずだから。ただ今はね……美咲ちゃんのこともあるし、それが解決するまでは待ってもらったほうがいいと思うわよ、汐美のメンタルのためにも」

 どちらを選んでも苦しい。そういう選択肢が突きつけられたしまったのだ。せっかくの楽園で私は苦しまねばならない。それを侵食と感じているのかもしれなかった。

 ともかく明ちゃんの言うとおり、美咲さんのことが先だ。千織に返すメールには、千織を傷つけないよう細心の注意を払って今は無理ということをとオブラート三枚くらいに包んで伝えた。きっと勇気を出してメールを出した千織をわずかでも傷つけなければいい。そう願いながら。

 自宅についても真っ暗なのはさびしい。美咲さんは比較的早く帰っていることが多くて、そうでなくても木嶋くんや隆太くんがいたりするものだ。けれど今日は誰もいない。美咲さんは当然、木嶋兄弟はバイトがないので自宅で過ごすと言っていた。同じようなことを思ったのか、明ちゃんがぽつりと呟いた。

「まるで汐美とふたりで暮らしてた頃に戻ったみたいね」

 そう思うとずいぶん賑やかな家になったものだ。美咲さんが来て、木嶋兄弟が来て。そうするとふと思った。人数が増えてもここが私の楽園に変わりないのなら、千織がやってくることくらい何ともないのではないか。メールが着たときの地面が抜けたみたいな感覚が今はもうない。なんとなくの不安はあるものの、私はこの真っ暗な家を見て、美咲さんがきちんと帰ってきたら千織を呼んでもいいかもしれないとぼんやり思った。



 美咲さんが帰ってきたのは、それからさらに四日経ったある夜中のことだった。

 山道をやってくる車があると思えばそれはタクシーで、我が家の前に停まったそれからは美咲さんの低いパンプスが降りてくる。突然前触れもなく玄関に立った彼女は、飛んでいって鍵を開けてドアを開けた私と明ちゃんに「ただいま」と微笑んで見せた。へにゃへにゃとした、どこか自嘲も含んでいるような情けない笑みだった。すでに眠っていた隆太くんと、そのそばでうとうとしていた木嶋くんも何事かと顔を出す。

 言葉がでない。それほど長い時間ではなかったはずだけれど、誰もが唖然としてしまって、美咲さんの取り繕うような笑いだけが響く。けれど寝ぼけたような隆太くんの声が美咲さんを呼んで、それでみんな堰が切れたように騒ぎ出した。近所迷惑になるような場所じゃなくてよかったと思うほどに。

「美咲さん!」

「ちょっとアンタ! 何のつもりなのよ! こんなに心配させて、いいから早く家に入りなさいよ!」

「何やってたの、みんな心配したんだよ! 連絡してよ!」

 わあわあ騒いでいる。

 私たちは心底ほっとするのと同時に、とても怒っていた。だからとにかく美咲さんに言いたいことがたくさんあって、自分勝手な行動でみんなを心配させた美咲さんにはそれらをおとなしく聞く義務があるのだからと、ぎゃんぎゃん言いたてながら彼女を家に引っ張り上げて廊下をぞろぞろ通って居間へ座らせた。ちょっと乱暴なお祭りにも似た騒ぎだった。

 時計は夜の十一時半少し過ぎを指している。室内の空気が落ち着かないのは相変わらずだけれど、先ほどまでとは質が違う。今は明るくてどっしりとしていて、けれど熱せられてぴんぴんと飛び跳ねるポップコーンみたいだ。

 言いたいことがたくさんあってうずうずしている。マシンガンのごとくしゃべる明ちゃんの隙を突いて、私と木嶋くんは発言を繰り返した。美咲さんはソファに追い詰められるみたいに座って、私たちの期待通りおとなしく、情けなく笑ってうんうんと頷いている。

「前にも言ったけどさ、黙っていなくなる本当やめなさいよ! どんだけ心配するかわかってるの?! 今度あたしが黙っていなくなってやろうかしら! どこで何してたんだか言いたくないなら聞かないけど、そういう時は言いたくないけどしばらく留守にするねって言やあいいのよ! わかってんの、まったく! 汐美なんかね、あんたが帰ってこないって右往左往して椅子だのお茶だの四回ひっくり返したのよ!」

「三回です」

「どっちでも同じよ馬鹿!」

 まだ日付が変わる前とはいえ深夜とは思えないテンションで明ちゃんの説教は続いた。元から常日頃高めのテンションを維持してはいるけれど、よほど鬱憤が溜まっていたのだろう。もちろん、無事に美咲さんが帰ってきて嬉しいせいもあるだろう。安心したせいでも。明ちゃんは今、解き放たれているのだ。

 美咲さんが泣くまでとはいかなかったけれど、お説教タイムは日付が変わるまで続いた。いつまでも隆太くんを付き合わせるわけにはいかないし、私も明ちゃんも明日(日付が変わったのだから正確には今日)も仕事だ。まだ言い足りないような気がしたし、美咲さんの声を全然聞いていないとも思ったけれど、ともかくみんな解散、就寝することにした。美咲さんは時折「ごめん」と謝る以外、最後まで口を挟まず役割を全うしていた。

 

 

 美咲さんの失踪について話し合いが必要だということで、普段なら楽しみにしている休日前夜をそれに当てることになった。と言ってもおいしいごはんやお菓子やお酒なんかがテーブルに並ぶのはいつもと変わりない。DVDや深夜番組が、美咲さんの話にすり替わったというだけのことだ。その日は特別に隆太くんも起きていられるまで参加してもいいことになった。彼だってここの一員なのだから、子供だからといって仲間はずれにするわけにはいかない。

 そうしていつもの大型スーパーで食材を調達、自宅でいつものパーティーのように食事の準備をして、美咲さん審問会は始まったのだった。

 明ちゃんが鍋から大量の白菜を器によそいながら、先程から続いている文句を垂れ流している。

「一言、心配しないでって言ってくれればこんなに心配して胃を痛めることもなかったのに、なんでそれが出来ないのかしらねえ? あんた一体何やってたのよ、あたしたちを放って置くほどのことを!」

 すでに酔いが回っているのか明ちゃんは箸の先で美咲さんを思いっきり指す。

「隆太くん、あれは行儀悪いからやっちゃいけないよ」

「うん」

「こんなときに教育してんじゃないわよ! でも確かに行儀悪いわね、やっちゃだめよ隆太」

「うん」

 隆太くんは兄に何も言われずとも、うんうんと素直に教育を受けていた。その兄は肉を多めによそいながら、隆太くんの分も野菜多めに湯気の立ち上る鍋から具材をよそってあげた。

「それより美咲さんは一体どこ行ってたの? 俺や隆太はまあアレにしても、佐伯も明ちゃんも全然眠らないで美咲さんのこと待ってたんだよ。説明してあげてもいいと思うけどな」

「そうだよね」

 へへ、と美咲さんは自嘲をする。

 今回美咲さんはどうも様子がおかしい。怒られる、文句を言われる役割というものに徹底していて、自ら何かを語ろうとはしない。自嘲をするばかりだ。そんなに言いにくいことなのだろうか。それならば無理に聞き出そうとは思わないけれど、やっぱり心配して過ごした分、納得できる説明がほしいと思うのも人情である。

「美咲さん、何か言いづらい話? ふん縛ってでも話させてやるとは思わないけど、私たちも心配したから納得したい気持ちもあるよ」

「そう、それ! 納得! 納得したいのよあたしたちはさあ。本当どうしちゃったの? 前のときはすんなり話してくれたじゃない」

 それでも美咲さんは自嘲をする。

「えへへ。そうだよね。心配かけておいてなあなあにしようだなんて、都合が良すぎるよね。ちょっと気分悪いかなあと思って話さないでおこうかななんて思ってたんだけど、そうだよねえ、一言も残さないのはちょっとねえ」

「美咲さん……?」

「実はちょっと病院と実家に行っててね。あ、もう全然大丈夫なんだけど。話したらお母さんにしこたま怒鳴られちゃって、みんなに話すのも怖くなっちゃった……」

 美咲さんは一貫して自嘲の表情を作ってはいたけれど、声が少しずつ震えていくのに私たちはしっかり気がついていた。明ちゃんですらもう怒ろうとしないし、よくしゃべる木嶋くんも黙っている。

 私たちが心配していたのは美咲さんの無事だったけれど、それとは違う次元のことが起こっていたらしい。ここに来て美咲さんはまだ心配なことを言う。

「どうしたの? 私は怒らないよ」

「あたしだって別に怒ったりしないわよ! 冗談で済むかどうかくらい判断つくんだから!」

「俺はわりと部外者なのかなって思うけど、でも仲間のつもりだし、美咲さんが心配だよ。病院ってなにか病気が見つかったの……?」

 木嶋くんの質問に私たちは美咲さんを見つめる。心臓が雷に打たれたみたいに跳ねてどくどくと大きく脈打っていた。美咲さんが何か大きな病気だったらどうしよう。死んでしまうような病気なら――

「そんな大きなことじゃないから大丈夫だよ。ていうかね、病気でもないんだ。あのね――」

 続いた美咲さんの言葉に全員あんぐりとくちを開け驚愕した。思ってもみない現実がそこにはあった。

「その、赤ちゃんが出来ちゃってて。ぎりぎり簡単な手術で堕ろせる時期でよかったよ。一日だけ入院したけど、あとはみんなに心配かけたくなくて実家で休んでたの。元気になったから戻ってきたんだけど、連絡しないほうがよっぽど心配かけちゃったかな、ごめんね」

 目を真っ赤にして、真実を語る美咲さんの声は震えていて、とてもじゃないけれどいたましくて見ていられなかった。

 赤ちゃんが出来ていた。誰も気づかなかった。当たり前だ。美咲さんだってよく気づいたものだ。だから誰も助けられなかった。でも。

「大きなことじゃん、美咲さん。大したことだよ。連絡してほしかったよ。私たちの言葉なんて何の慰めにもならなかったかもしれないけど、でも私美咲さんのために何かしたかった」

「そうよ、あんた、赤ちゃんて……前のDV彼氏の?」

「うん」

「一緒にいてくれたの? くれなかったでしょう? あたしは今、あたしたちがそばにいてあげられたらって思ってるけど、美咲ちゃんはどう思ってる? 遠慮しないで言って」

 明ちゃんの真摯な言葉には熱がこもっていて、私まで泣いてしまいそうだった。美咲さんの真っ赤な目からは少しずつ涙が溢れ出していて、それをごまかすためか両手で必死にこすっている。目が腫れるからやめなさい、と怒る明ちゃんは今はいない。

「私は……私はね、元彼になんかいてほしくなかった。ずっと考えてたの。馬鹿な考えだよ。全然現実的じゃない。でもね、でも、赤ちゃんを産んでここでみんなで育てられたらどんなに幸せだろうって。どんなに楽しいだろう。成長していくあの子をみんなで見守るの。そうできたらいいのになって、私は堕ろす直前まで思ってた」

「美咲さん……」

 誰も声をかけることができなかった。ただでさえ中絶してきたという事実だけでも衝撃的なのに、美咲さんの見た夢は美しすぎた。現実には不可能だからこそ美しくて尊くて、想像しただけで涙がこぼれた。

 私たちは家族のようなものかもしれないけれど、決して家族ではない。だから赤ん坊の存在なんて現実的ではないし、ありえない。ここはそういう場所だから。

 だけれど、私も美咲さんの涙で震える声を聞きながら夢見てしまった。ここですくすくと育っていく子供のことを。小さな手や足を。それらを包む靴や服。眩しい陽射しの下を、その子のために綺麗にした庭をよちよちと歩くのだ。それを私たちはみんなで見守る。夢のような光景を。

 きっと他のみんなも同じ光景を夢見たのだと思う。だれも美咲さんの夢を否定することはできなかった。それなのに美咲さんはこの現実の前に立ち向かってひとりで、たったひとりで覚悟を決めて夢を打ち壊してきたのだ。現実の前に彼女は正しい対処をしたのだ。

 ここで赤ん坊を育てられるわけがない。美咲さんがシングルマザーとなってみんなで手助けする道もあったかもしれないけれど、そもそも彼女はすでに母親の面倒を金銭的に見ている。そのうえ子供なんて、非正規雇用の美咲さんにはとてもとても無理だ。正規雇用だって無理だったかもしれない。子供を育てるなんてそんな簡単なことじゃない。私たちが夢みたようには絶対いかない。現実はそう出来ているから。

 涙を流し洟をすする音ばかりがしていて、木嶋くんまでが顔を覆っている状態で、隆太くんが動いた。彼に聞かせて良い内容だったのか今さらながら後悔がよぎるが、彼は彼なりに思うところがあったのかただ黙って美咲さんのそばにいき、黙ったままその背中をそっとゆっくり撫で始めた。美咲さんの泣き声が一気に漏れる。声をあげて泣く美咲さんの隣に静かに腰を下ろし、隆太くんはいつまでも背中を撫で続けるのだった。

 私たちは夢を見た。よちよち歩きの赤ん坊が柔らかな服や靴に包まれて、芝生の上で蝶々を追いかける。まだ人の言葉もおぼつかない声がきゃあきゃあと笑う。私たちがそれを見守っている。ミルクをあげるのもおむつを替えるのもそれぞれ四苦八苦しながら慣れていく。その子のぷくぷくの手が私たちの指をつかむ。

 美咲さんの見た夢は私たちに一気に感染して、けれどすでにワクチンが打たれていることを知っている夢だった。美咲さんの中からその夢といのちがひとつ、消えた。

 夢を見ながらたったひとり厳しい現実に向き合うのはどれほどの覚悟だっただろう。どれほどの恐怖だっただろう。誰にも言わず。どんな心境だったのだろう、夢を殺してしまうのは。

 たくさんの心配をかけられたけれど、怒りはどこかへかき消えてしまった。どこにいるかわからなかった美咲さんより、今ここにいる美咲さんのほうが圧倒的に心配だ。

 子供のように泣きながら美咲さんは声をあげた。

「ごめんね、ごめんねえ……!」


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